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吾妻氏について

騎馬戦と馬

 弓馬の道といわれるが、古代より中世にかけて戦闘の主体は、騎馬戦(馬に乗り弓を放つ)であった。当時の武士団が馬を確保するのは、勝ち負けを決するに重要な要素だったろうと思われます。
 藤原氏が利根川、吾妻川をを上りこの吾妻の地を求めた最大の理由は、優秀な馬の供給源を確保するためである。当時吾妻郡には中之条町に勅旨牧(朝廷経営の牧場)である市城牧があり、そこを横領し確保するためであろう。

権守

 本朝武家系図によると兼助、兼成が吾妻権守の官職にあったことは吾妻氏の強大を物語るものである。当時の地方豪族は、国府の政庁にも勤め、在庁官人の地位を保持していくことは、自己の地位を確保するためのは大事なことだったろう。兼助は吾妻権守の地位と上野介の官位を併せ持っていた。
 上野の国は親王任国であったから、国司は京都に居たので上野介は次官を意味するので政治の実権はその手中にあったと思われます。権守も同じく次官の地位を意味するのでこの吾妻氏は、その地位は優れた馬と、開拓した農場からの収入によってますます強大と成ったと思われます。

譜代の臣と小名

 吾妻鏡を見ると吾妻氏は源氏の譜代の臣であり、小名であることが書かれています。吾妻氏は、遠い昔より清和源氏とはより深い関係で結ばれていたのでしょう。
 また当時の武士は、館にあって平時は数多くの農民を、その館の内外で農耕に従事させた。領主は近世の武士と違い半農半武士であった。
 郡の土地の開拓も、このころ、これらの農民をつっかってさかんに行われた。開拓された土地は「別符の名(べっぷのみょう)」と称して、国府の土地台帳に登録され特別地域に指定され、館の主人は別名の名主として、これらの地域から年貢を徴収し国府の税所に支払う役柄となっていた。これらの名地は別符といわれ、中でも数百町歩にも及ぶ別名も存在した。これらの領主を「大名」と呼び、ごく狭い別名の名主は、「小名」と呼ばれた。吾妻氏は、もちろん大名には及ばないが、小名の上の方だったと思われます。
(なほ、この大名小名は江戸時代のそれとは違います。)

前吾妻氏の事跡(吾妻鏡より抽出)

(1)吾妻八郎新馬を伊勢神宮の奉納

 養和二年(1182)正月二十八日、大神宮に奉納する神馬、砂金を頼朝に納めた。その中に「一疋栗毛駮 吾妻八郎進」とあります。

(2)吾妻氏、義高の伴類制圧のために信濃に向かう。

 寿永三年(1184)に木曾義仲、範頼、義経の追撃を受けて戦死。その子義高は元歴元年(1184)四月二十六日入間川において殺された。その五月一日、義高の伴類が、甲州、信州の潜挙し、義高の脱出を聞いて挙兵するという風説が流れた。そこで、頼朝は、足利義兼、小笠原長清らを御家人とともに甲州へ、小山、宇都宮、比企、川越、豊島、足立、吾妻、小林各氏を信州の使わしこれらの凶徒の制圧に向かわせたとあります。この中の吾妻氏が吾妻太郎だと思われます。

(3)吾妻太郎助亮、頼朝の三原狩りに案内役を務める

 建久四年(1193)四月一日源頼朝は三原野に狩りした。吾妻太郎はこの時頼朝を案内して鷹川に至ったと言い伝えられている。鷹川は現在の嬬恋村の袋倉にあり、頼朝の狩屋をもうけたところと伝えられている。

(4)吾妻太郎、頼朝の奈良東大寺供養に隋兵として従う。

 治承四年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって消失した奈良東大寺の落慶供養は、建久六年(1195)三月十二日後鳥羽上皇の御幸を迎えて盛大に執り行われた。そしてこの再建に多大な援助を惜しまなかった頼朝は数万の大軍を従えて威風堂々、政子をも伴って上京、この供養の式に参列した。そのときの随兵の行列三騎並びの八十列の十四列目に渋河太郎、吾妻太郎、那波弥五郎とありそのときの随兵の中に吾妻太郎も、参列していたことがわかる。

(5)吾妻太郎助亮の戦死

 助亮は一説によると元久(1202-5)の頃より稲荷城より岩櫃城に移ったともいわれ、その後尾張国大井の渡しの合戦において戦死したとも伝わる。
ただし、この頃に岩櫃城があったとは疑わしい。

吾妻四郎助光

 助光は太郎助亮の子(あるいは弟という説あり)であり、通称を四郎といった。まれに見る弓の名手で、立派な武将であったと吾妻鏡にある。

(1)助光、弓始めの選に預る。

 元久元年(1204)二月十日、この日三代将軍源実朝臨場のもと弓はじめが行われた。この名誉のの選に預った六名に射手の中に吾妻四郎助光の名が見られる。
 一番 和田平太胤長(相模) 榛谷四郎重朝(武蔵)
 二番 諏訪大夫威隆(信濃) 海野小太郎行氏(上野吾妻)
 三番 望月三郎重隆(信濃) 吾妻四郎助光(上野吾妻)
 実朝は、この前年建仁三年(1203)将軍に就任したもので、将軍に着任して初めての弓始めであった。

(2)吾妻四郎助光鎌倉幕府出仕差し止めと成る

 承元元年(1207)八月十七日、鎌倉鶴岡八幡宮において放生会の儀式が実朝臨場のもと厳粛に行われた。このとき四郎助光は無断で儀式に参列しなかった。そこで実朝は、行光(太田行光)を使わして、その事由を調べさした。行光は、助光に向かって、
「お前は、さしたる大名でもないのに、先祖代々源氏に使えてきた勇士であるという理由で、ここに参会させようとしたのである。これこそお前の名誉であり、面目と思わないのか。このように突然無断の欠席とはどのような理由があるのか。」と鋭い詰問をした。

助光は如何ともし難く、平謝りに謝って
「実は用意の鎧をねづみに食われて新調したのであるがまにあわなっかった」
旨をおそるおそる申し述べると、

行光は、
 「晴れの儀式であるというので鎧を新調するというのは、武士として誠に倹約の趣旨に背くものである。随兵というのは、身を飾るというものではない。ただ将軍の警護に専念すべきものである。前将軍頼朝公の時譜代の武士は必ず、この大番役を努べき事を定められた。武士たるものが何で鎧一領を持っていないといえようか。もしいざ鎌倉というときににいたって先祖代々相伝の兵具を差し置いて、軽々しい新物を用いるとは何事であるか。これでは家代々の鎧等がないと同じではないか。特に本日は毎年恒例の神事であるぞ。その都度新調するということは武士の倹約に背くものである。」
きついおしかりを受けて、助光はその罰として将軍家へ出仕差し止めの謹慎を仰せつかってしまった。
 このことからわかることは、助光はさしたる大名ではないこと。そして小名とまではいかないまでも中流の豪族であること。また鎧を新調できるような経済的に余裕のある生活ができる武士であって、さらに譜代のかつ累家の勇士であったことがわかる。

(3)助光、青鷺を射止め再出仕を許される。

 承元元年(1207)十二月三日。雪の飛び散る憂鬱な日であった。この日鎌倉の御所においては酒宴がもようされていた。そのとき一羽の青鷺が進物所から寝殿に入ってきた。将軍は非常に不愉快に思って、この怪鳥を射止めるように命じた。ところがちょうどしかるべき射手がいなかった。相州はもしかすると出仕差し止めを受けている助光が御所の周辺におるかもしれないと申し上げて使いを遣わすと、折しも御所の周辺を警護していた。助光は早速参上し階隠野陰より狙ってこの青鷺めがけた矢を放った。矢は鳥に当たらないように見えたが、鷺はたちまち騒いで庭上に落ちてきた。助光が走り寄って、手に取ってみると左目より少し血が出ているくらいであった。しかし死に至るようなきづではなかった。助光があらかじめ計画して射たとおり、はたして生きながらこれを射止めることができたのである。
 青年将軍実朝はこの光景を見て、いつもと変わらぬ助光の抜群の妙技に非常に感心し、もとのごとくそば近くに使えるようその謹慎を解かれ、その上剣まで下賜に成られた。
 こことから、助光が衆に優れた弓の名手であったこと、さらに助光が将軍家のそば近く使えていた武士であったことがわかる。

(4)助光戦死

 承久三年(1221)承久の乱が勃発すると助光は北条義時の命令によって幕府軍に加わり京に進撃し、宇治川の戦において激流に呑まれ、あえない戦死を遂げた。
 また一説には、その晩年岩櫃城にようげつという化生があらわれ、その祟りによって死んだともいう。
 その死についての実証はなく、また前吾妻氏については、墓地等など謎に包まれていて検証するものが後世に書かれた「吾妻鏡」「加沢記」等の文献に頼るしかなく、伝説の域を脱し得ない。

後吾妻氏

 北条泰時執権の頃嘉禎年中(1235~38)岩櫃山に妖魔という化け物が現れ人々を殺傷した。一説によると吾妻助光もこの化生に取り殺されたといわれている。吾妻氏の一族である下総の下河辺行家は、鎌倉幕府の命を受けこの化け物を討伐することとなり家来とともに吾妻の地に来たりてこの妖魔を退治して、吾妻庄司行家と名乗った。そして、その嫡男行重が助光唯一の生き残りのである遺児の娘をめとった。その二人の間にできたのが、吾妻の地で伝説と成った人物吾妻太郎行盛である。この人物こそ吾妻の地で神とあがめられているその人である。

吾妻行家(下河辺行家)

 前吾妻氏が滅んだ後、同じ秀郷流の一族である下総の下河辺行家が吾妻の地に来たりて吾妻氏を名乗った。
行家は、下総下河辺庄に土着し武士化した下河辺氏の下河辺行平の子であると思われる(この下河辺庄は大庄でこの下河辺氏は鎌倉、南北朝時代を通じて大豪族であったが、いつの間にか衰退して戦国時代中期にはその記録は残されていない)。

ようげつの退治

 北条泰時執権の頃嘉禎年中(1235-38)岩櫃山にようげつという化生が現れて人々を殺傷した。一説に吾妻助光もこの化生に取り殺されたといわれている。下河辺庄司行家は鎌倉幕府の命を受けてこの化生を討伐することと成った。
 岩櫃に来てみると全山がこの化生のすみかと成っており、夜な夜な障化をなし、その上得体の知れない悪病が流行し、城主助光はもちろん、その家族まで災いに遭い、男子はことごとく絶え、ようやく女子一人残すのみで前の吾妻氏はここに断絶した。諸人は恐怖のどん底にあえぎ、取り殺されるものも数限りなくいた。
 この化生というのはあるときは、一つ目の人間と成って突然山中に現れ人々の肝をつぶしたり、あるいは山姥と成って十二の沢というところの岩穴に入るのを見たという人もある。またあるときはまむしと成って現れ、中野というところ麓でのたうちもわっていたといわれ、またあるときは三尺あまりの大猫と成って山中を歩き回るので、村人はこれは弧老野干しの仕業であろうとささやきあっていた。行家は知勇兼ね備えた立派な武将で、多くの家来に弓矢を持たせ、これを討伐しようとしたが、化生はあるいは隠れ、あるいは草木、岩石に身を変えてしまうので、どうしても討つことができない。行家は行沢観音に一心に祈願を込めたところ、早速観音の仏力によって感応を受けた。そこで大勢の家来は弓矢を帯して岩櫃山を山狩りしたところ、ついに山より化生を追い出すことができた。家来たちはそれ逃がすなと、追い打ちをかけいきをもつかせず追い打ちをかけ、弱ったところを行家が駆け寄り、この化生の首をかききった。ついに長年領民を苦しめたようげつも行家の武勇によって、これを射止める事がで来たのである。
 行家はここにおいて晴れて岩櫃城に入城し吾妻郡をたまっわったので、下河辺氏に代わり吾妻氏を名乗り、その後吾妻庄司行家と名乗るように成ったのである。
 ここにいう化生とは、たぶん夜盗、山賊か何かのたぐいで岩櫃山を根城に吾妻地域で略奪などの悪さをしていたのではないかと思われる。また、行家が岩櫃城に入城したとあるが、年代的にまだ岩櫃城は築城されていなかったろうから、伝承の域を出ないでしょう。

 吾妻行重

 行家の嫡男を行重といった。四郎助光の唯一の生き残りである遺児の娘をめとり、始め部屋住みとして平川戸稲荷城に居住し、嫡子吾妻太郎行盛はこの地において出生したとも言い伝えられる。後家督を相続し吾妻庄司(庄司副という説ありとなり岩櫃城に移った。父に劣らぬ無双の弓取りであったという。ちょうどこの頃は文永、弘安の頃で、我が国はあげて元寇の国難に遭い苦しんでいた時代である。
 弟に朝村というものがあった。分家して吾妻の東の備えの城である岩井堂城に居住した。その長子を長広といい、このものは後足利尊氏に属し上洛したという。

 吾妻太郎行盛

行盛の出生

 行盛の出生は鎌倉時代末期北条貞時執権の時代、正応年間(1288-92)原町稲荷城下の館の内に呱々の声を上げたと伝えれれる。館の内とは今の原町吾妻警察署付近一帯の地である。

行盛の婚姻

 長じて松井田城主(あるいは安中城主)斉藤悄基の姉(あるいは娘とも)を娶り二男子をあげた。長男は千王丸(後の岩櫃城主斉藤太郎憲行)といい、次男は小次郎憲重といって尻高を領して尻高城主となった。

行盛と鎌倉幕府

 鎌倉時代上野の守護は得宗であった。得宗とは北条時頼-時宗-貞時-高時の嫡流をいい、家督としての強力な権力を確立していた。この家督のものを義時の法名にちなんで得宗といった。鎌倉末期この得宗の権力が増大し、諸国の内半分の国の守護を得宗が独占していた。従って得宗の家臣も大いに幅をきかせていた。
 この得宗の家臣を御内の方、御内の人といった。行盛が御内であったことはその墓碑に明記されている。故に行盛は北条執権の御内として、おそらく吾妻庄の地頭をしていたのだろう。父は吾妻庄司副とあるので、行盛は庄司と地頭を兼務していたと思われる。

国人の一揆

 この頃関東には国人と呼ばれる群小武士がおった。中先代の乱で見るように、諏訪・滋野両氏が共同作戦しても足利氏という大豪族を倒すわけにはいかなかった。地頭、御家人が独立を保つ方法として、これら群小武士はお互い同族あるいは地域的に一揆と称して集団組織を形成していた。
 当時は鎌倉時代以降の惣領制が崩壊しきれず、その余命を保っていたので、主に同族のものが集団を作った。有名なものに北武蔵、上野の源氏の流れをくむ「白旗一揆」東毛を地盤として藤原秀郷の流れをくむ「藤家一揆」南武蔵の平家の流れをくむ「平一揆」等は有名である。
 また南北朝時代は、国人、守護領国等、領地の再編成が行われた時代であり、この後述べる吾妻・里見両氏の争いはこのような情勢から、起こったといえよう。