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 吾妻太郎行盛の事跡

 鎌倉時代から南北朝時代には、耕地面積は著しく増大した。この原因として、
1.土地の開墾が行われた
2.二毛作が行われるようになった
3.畑作農業が進んだ
4.観応の騒乱以降大きな内乱がなかった
5.農民の団結自立が進んだ
 などが考えられる
 また、王朝時代の官牧(牧場)が地方豪族などの横領により私牧化し、さらに各地に私立の牧場が設けられたのもこの時代だろう。また各地に市などが設けられ商業活動がっさかんになり、地方が豊になり各地の地方豪族も、経済的に豊かになったろう。また、工業も盛んになり鋳物師、鍛冶師などが育ったのもこの時代です。
 吾妻の地も城下町平川戸に市が立ち、厚田地区にはカジヤ村ができ城主(吾妻氏)の需要を満たしていたと思われる。
 また、行盛は社寺を深く信仰し、岩光山釈蔵院長福寺は弘安年中慶誘法印開祖の古い寺であるが、文保元年(1317)祐弁法印の時代岩井村に再建し菩提寺とした。また、徳治二年(1307)原町瀧峨山に方三間の不動尊を建立し鬼門鎮護の守りとし、運慶の作と称する不動明王をまつり、寺領を寄進し、円覚法印を別当として瀧峨山金剛院と称した。
 原町大宮岩鼓神社も郡中きっての古社であるが、この社に武蔵大宮の氷川神社を勧進して、吾妻氏の守護神としたのを始め、川戸の一宮、どう浅間神社、矢倉の鳥頭神社等を再建している。

 里見氏の台頭

 新田氏の一族里見氏(碓氷郡里見郷)の里見氏義が吾妻の川戸内出城にあったという。また、吾妻行重が吾妻庄司副であったところからして、この里見氏義が吾妻庄司であったかもしれない。あるいは、里見氏も中之条の「市城牧(牧場)」などを狙ってこの時代の少し前里見郷から榛名山を抜けこの吾妻の地に進出してきたのかもしれない。
 行盛は、このような里見氏との所領争いもしくは、失地回復の戦いが、貞和五年の戦闘の謎が隠されているのかもしれません。

里見氏系図

 貞和五年の戦・・・行盛の戦死

 貞和五年(1349)五月下旬、新田氏の一族で碓氷の豪族里見義時は嫡子五郎左衛門尉とともに急に多数の兵を持って岩櫃の城に攻撃を仕掛けてきた。城主吾妻太郎行盛(吾妻氏第五代の城主)は不意を突かれ家老である秋間泰則・荒尾行貞・どう清長いかに命を下し、城下立石河原に迎え撃って激戦を展開したが武運つたなく敗戦となった。行盛は今はこれまでと立石の巨巌の上に駆け上り自刃しようとしたところ。秋間、荒尾兄弟及び二男小次郎が駆け寄って殉死しようとした。行盛はこれを押さえて「我が子千王丸(当時十二歳)は何も知らず榛名山房にあって修行の最中である。もし一族ことごとくここに滅び去ってしまっては、千王丸はどうなるであろうか。それこそ敵の思うつぼである。無念であろうがこの場を逃れ千王丸を助け後日里見を討って俺の恨みを晴らしてくれ」とはらはらと無念の涙を抑えながらの言葉に秋間以下自決を思いとどまり、榛名山を目指して落ちていった。
 行盛はここにおいて立石の上に駆け上り切腹し、自らおのれの首をかききって投げたと言い伝えられている。時に貞和五年(1349、南朝の正平四年)五月二十五日の深夜、子の刻であった(子の刻とは現在の午前零時から午前二時をいう)ところが不思議なことに行盛の首は三百メートルもある吾妻川の対岸川戸の岸辺の枯れ木の枝に食いついて、夜な夜な異様な光を放つのであった。これは行盛の霊魂がこの世にとどまって、里見を呪っているのであると川戸村の農民たちは恐れおののいて、密かに一つの小さな祠をそこに建て、その霊を慰めた。この社が、首の宮である(現川戸神社)。胴体は後に矢倉の鳥頭神社に祀ったといわれる。

矢倉鳥頭神社

 当時吾妻氏の菩提所は金井・岩井の境岩井村八幡にあった長福寺である。住職はこれを厚く葬って、一寸八分(約5.5cm)の主本尊を一緒に遺体を埋葬したという。そして自害より十八日後の六月十二日墓碑を建立した。


 法名:長福院殿前吾妻太郎太守岩光行盛大居士

 位牌には、

 当院開基行盛殿上野刺史岩櫃城主長福円久大居士本不生位吾妻太郎藤原行盛貞和第五己丑五月二十五日とある。

吾妻太郎行盛墓(長福寺)

 斉藤憲行(郡内旧記説)

 吾妻太郎行盛が貞和五年立石河原に敗死した当時、長子千王丸は十二歳で榛名山房にあって学問にあるいは武術を山中にあって修行中、その悲報に接した。家老秋間泰則・荒尾行貞・どう清長等は命からがら榛名山にたどり着き、千王丸をいただいて日夜その復讐の機を伺っていた。

榛名神社主殿


榛名神社全体図と由来

 千王丸は唯一頼りとする松井田城主斉藤梢其の養子となり、それから三年目の観応二年(1351)五月中旬岩櫃城奪回戦を企てたが、計画の齟齬により衆寡敵せず失敗に帰したのである。
 斉藤梢其は上野守護上杉憲顕のもとに千王丸を伴い、その援助を懇願した。斉藤氏に対して板鼻合戦以来格別の好意を持っていたので早速その請を入れ、七年後の延文二年(1357)四月二十五日、上杉氏麾下である長尾・禰津・小幡・和田・白倉・長野の西上州の諸豪をして三千五百騎の援兵をおくらしめ岩櫃城を急襲した。そして、見事に里見を討ち滅ぼしたのである。
 これで晴れて岩櫃城に入城し、上杉憲顕の憲、吾妻太郎行盛(父)の行をもらい斉藤太郎憲行と名乗るのである。その後、斉藤梢其の子斉藤左近憲基(後の安中左近)の女を娶った。弟小次郎を尻高におらしめ、功臣荒尾氏に村上郷を与え岩井堂城にあって東の要とし、秋間氏は家老として川戸内出城にあって、斉藤氏の輔弼の大任に当たることとなった。
 憲行はまづ岩櫃城に改修を加え、また父の祀ってある川戸首の宮神社を改修、再建し、本地将軍地蔵を祀り、両脇に功臣秋間、荒尾の宮を末社として祀って長く岩櫃城鎮護の社とし毎年五月二十五日、九月九日を祭日と定めた。
 これを持って戦国時代の斉藤氏・憲行-行禅-行弘-行連-基国続いて、基国の時代に武田氏(真田氏)によって滅ぼされたという。

川戸神社(首の宮)

 斉藤憲行(加沢記・斉藤氏系図説)

 また一説によると藤原秀郷四代の孫助宗が初めて斉藤氏を称した。その後十五代を経て斉藤基国は南北朝時代斉藤越前守と称して越前国に住していた。斉藤氏は平安時代末期以来越前国に住した土豪で、同国大野郡を中心に勢力を持っていた武士である。その斉藤一族は、越前のみならず越中、美濃にも広がった。
 基国の嫡子が憲行である。通称を斉藤太郎といった。前述した斉藤憲行と同姓同名の別人であるとも言われている。岩櫃に入城したのは応永十二年(1405)であるところから、前述した斉藤憲行が貞和五年(1349)十二歳とすると、この年は六十八歳に当たる年代になるので、全く別の人物であるようである。
 越前の斉藤氏が碓氷(松井田)の斉藤氏と同じ秀郷流であること。また碓氷の斉藤氏がこの時代を最後に歴史から姿を消すことから、この両斉藤氏が何らかの関係があるのかもしれない。
 この説をとるならば吾妻氏系の斉藤氏は、滅んでしまったのか。理解に苦しむところである。このことについては、この吾妻の室町期の資料が、あまりにもないことから曖昧であるようである。

斎藤氏系図