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「吾妻軍記」による斉藤六代

 「吾妻軍記」では、千王丸(憲行)は関東管領上杉氏の力を借り、宿敵里見氏を破り父の居城であった岩櫃城に復帰したとある。そして、功臣秋閒九郎泰則に川戸内出城を与え、同じく功臣の荒尾金剛兵衛に岩井堂城を与え、弟金剛左衛門を寵用して仕えしめたとある。
 また父を奉った、川戸首の宮神社の社殿を壮麗に飾り、先代の忠信秋閒氏、荒尾氏の二つの社を立てたとある。また里見氏を監視するために、湯殿山上に湯殿山々の社を建てたとある。この事から、斉藤憲行の勢力範囲は吾妻郡のほとんどと、榛名山の南面まで及んでいたと推察される。
 憲行の次が、斉藤行禅で嫡子行弘に家督を譲り、家老秋閒泰倫の諫言をのけ娘婿柳沢治部少輔直安に所領の一部を与え柳沢城(岩鼓の要害)に居らしめた。
 第三代行弘は、妹婿の柳沢直安を攻めこれを遁走せしめた。またこの行弘の代に田辺善導寺を切沢に移転と伝わるが、これは誤りでその頃はまだ田辺にあった確証があるようです。
 第四代行基、第五代は行連、この行連は信心深い人で大永年間矢倉行沢の観音堂を建立し、瀧峨山金剛院不動堂を再建し、また同院別当頼盛法印をして大峰山に代参させたとある。
 第六代が基国で、基国は非常に傲慢で三島根小屋の地頭江見下野守を攻め滅ぼし、三原の領主鎌原宮内少輔の二百貫の領地を横領してその勢い盛んな所があった。しかし、武田氏に攻められ家臣に離反されついに没落したとある。
 以上吾妻軍記を元にした説であるが、戦国吾妻の伝説はこれを元にしているので必ずしも斉藤系図とは合っていない。「吾妻軍記」「加澤記」等のすべての記録は、江戸時代に書かれた物で真田氏と武田氏の文書がわずか残っているだけなので、伝説の域を出ないのが実情です。

 柳沢夜討

 応仁二年(一四六八)十二月晦日のこと、柳沢直安は家の子郎党を集めて大晦日の酒宴を開き、君臣共にそろって泥酔してしまった。ところがその夜半直安は風呂に入ってふと「昔より、このような晩は良く夜討があると聞いているので用心した方がよい。」と思い立ち、早速部下にその旨を伝えた。その直後、時ならぬ時の声が聞こえてきた。城内思いもよらないことで、上を下えと慌てふためくばかり。
 そのとき柳沢の家老丸橋将監と嫡子八郎常定は少しも慌てず百騎ばかりの兵を率いて門外に進み出て、「このたびの夜討は何者であるか、名乗れ」と山にこだまする大音声でどなりあげればそのとき早く、寄せ手の騎馬武者二騎躍り出た。
 「我らは平沢大善宗時、白岩入道法雲、主君岩櫃殿の命により討っての大将を賜ったのである。早、尋常に勝負いたせ。」とこれまた大音声で名乗り出た。
 柳沢も「いかに寄せ手の愚人ども、耳を傾けてようく聞け、綱をしても寝鳥を射ずというのが人の情、闇討ちとは卑怯なり。先主行禅公の御遺言を早忘れたか。汝らの主人行弘暴虐無人の侍、畜生也。」
 寄せ手の軍勢は約三百騎、城兵は二百余人、衆寡敵せず、おまけに、酒宴で泥酔した城兵は、瞬く間に討たれていき、寄せ手は大将直安めがけて、押し寄せ切り込んでくる。「いまはこれまで」と忍びの道から裸馬で東の原に脱走した。討ってのものはこれを見て、後から射る矢は雨霰のごとく、ついに永井六郎が射た矢が馬の下腹から胸元に刺さり馬は屏風倒しに倒れてしまった。
 今は是非もなくそこで直安は歩行立ちとなって、夜道を叔母にあたる植栗安芸守の館に落ちていった。
 ここで哀れだったのが直安の妻である。敵の手に落ちんと熱湯の湯の釜に中に身を投じ、自らの命を絶ったのであった。婦人は、岩櫃城主斉藤行弘の妹であった。

 岩鼓の出城

 永禄六年(一五六三)十月中旬、真田軍は大竹(類長が原)の本陣を据え岩櫃城を総攻撃した。このとき岩鼓の出城(柳沢城)の守備は嫡子斉藤越前太郎、尻高源二郎、神保大炊介、割田掃部、蟻川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎等三百余人立て籠もって岩櫃城に入った敵の側腹を突くべく遠目に待機していた。
 十月十三日夜、敵の謀略によって岩櫃城内では甥の斉藤弥三郎、海野長門守幸光等が敵に内応し、城に火をかけ、これを合図に真田軍は大手バンジョウ坂から攻撃に転じた。城主憲広はこの有り様を見て、やけ崩れた居館に帰り自刃せんとしたが、嫡子太郎がこの出丸から駆けつけ、我らが大手、搦手を防ぐこと故一刻も早く城を落ちるよう進言し、富沢藤若、秋閒四郎他諸氏が防いだので、憲広は越後に落ちることができた。

吾妻太郎殿と吾妻三家(加沢記伝)

 吾妻太郎殿の由緒を見れば、大織冠鎌足内大臣が初めて藤原性を賜るが、その子で不比等から数えて三代目の乙麻呂公、その後七代の孫に当たる二階堂遠江守為憲が東国に下向になって武蔵国を領地として受けた。
 この為憲からさらに五代目の維光、その二男維元になってから吾妻の地を賜って、太田庄に居住すると吾妻太郎を名乗った。このときから子孫代々、吾妻郡太田、長田、伊参の郷を守護として栄えた。
 ところが、維元から四代の孫になる四郎助光の時に、承久の乱で北条義時の命で出陣して宇治川の戦いで溺死して果てた。
 それ以来吾妻家は衰え、主君を太田の城(現内出城)に据えたまではよかったが、うやむやの内に家臣の大野越前、塩谷日向、秋閒三郎が、領地を三分してしまった。
 秋閒は太田城二の郭に居住し、大野は平川戸稲荷城に、塩谷は中之庄和利の宮の城に住むこととなって、三家の領地のように見えたのである。
 この三家は、永享の兵乱の時はもっぱら地頭として聞こえも高かったが、文明の頃、由良信濃守源国繁が隆起して兵乱を起こすと、三家は利害関係から不和となり合戦に及んだのである。
 そして秋閒備前は大野に打たれ、太田は大野の領地となった。また塩谷の方は門葉が広く勢力があったため、大野も手を出せずにいたのであった。
 ところが塩谷掃部介秀治には一人の息女がいて、それを甥の源二郎元清に嫁がせ、仙蔵の城に住まわせた。時は文明五年の春のこと、かの夫婦の間にもめ事があり、娘はたちまち離別された。しかし、父掃部介は立腹して娘を引き取ろうとしない。
 そこで困惑の末、大野の家へ逃げ込んだのだった。これこそ天の声と思い、家の子斉藤孫三郎、富澤勘十郎をよび、心の中を告げた。
 それから蜂須賀伊賀に預けて、本城を増築して住まわせた。その名をマロウド殿と言った(マロウド殿とは賓客という意味)。この姫は懐胎していたので、その様子を塩谷側に知らせるために、居城の追手に産屋を立てたり、大釜を据えて出産を待ちわびていた。あたる月に男子が誕生したので一門、家の子喜悦して、その名を一場二郎と名付けた。
 さて塩谷は息女をとらわれ、その上源二郎の男子が大野の家で生まれたこと気力を失い、つまりは大野の幕下に伺候するに至った。
 これから大野下野守義衡は嫡子を越前太郎憲直といい、二男を一場二郎として、一郡の地頭を命じ、家臣斉藤孫三郎憲実、富澤勘十郎基康を側近にして守らせていた。しかし大野はなお塩谷掃部介を殺害する計画で、塩谷の一族である蜷川、池田、尻高と、その家臣の割田、佐藤、中沢らに内通して、ついに掃部介を殺してしまうと一郡を思うままに平らげ、源国繁へ出仕して栄えたという。
 そうこうして、大野殿は繁盛の中で、岩櫃の城に居て、斉藤、蜂須賀両臣に諸事を執行させていた。
 ところが先の主君吾妻太郎殿の門葉に植栗河内守元吉という人がいて、太田の庄の内を領有して、大野の幕下に入っていたものの、ちょっとした子細があって、元吉を退治する企てが立てられ斉藤孫三郎憲次に討手を命じた。
 しかし斉藤は大野に恨みを持っていた折柄、これは幸いなことが巡ってきた物と、すぐに居城岩下に立ち帰り、家臣の富沢但馬守基幸と話し合い。植栗を討つと言って植栗の舘に虚偽の軍を進めた。
 元々元吉も斉藤とは近い関係にあったから、元吉と一緒に組んで大野舘に軍を進めた。
 戦況は思いの外うまく運んだ。そこで大野は腹十文字にかっきり、城郭に火を掛けると、門葉一族、一度に炎の中に飛び込んで全滅してしまった。
 それから憲次は岩下へ引きこもり、鎌原、湯本、西窪、横谷、羽尾、浦野、蜷川、塩谷、中山、尻高、荒卷、大戸、池田らの人々に使いを送って、事情を伝えた。それには、「このたび子細があって、主君大野を打ち奉ったので、各方々においては、わが幕下に加わってもらいたい。」というのであった。
 それを聞いた先の諸武士は、知謀に長けた斉藤の元にはせ参じて臣下に入る。「大将こそあなた以外にはない。」とあがめたのである。憲次は、それまでの岩下の城を富沢但馬守に渡して、岩櫃の城に入りそれから自ら上杉方へ出仕して勤めたので、安定して繁昌したのである。
 斉藤がこのように繁栄している折、富澤の家では男子が多く、老後になってまた男子をもうけたで、主君の斉藤は喜んで富沢但馬を呼んで「その方は老衰してもなお一子をもうけし事、斉藤家も長く続く吉相である。さらば名を改めて付けるがよい。」それは気狂いじみたもてなしようであった。
 但馬は答えて、「これは老後の子、行く末を思うと気が重く、また生きようなどと大変なこと、これにて我が子の末子とするからには縁起よく末は唐沢がよかろう。」と、その後唐沢と苗字を替えて命名し、長じて唐沢杢之助と名乗る。
 杢之助は成長して文武両道の勇士となった後、猿渡の郡を知行として受け、そこの住むようになった。その頃から富澤、唐沢両家に分かれて斉藤の重臣となったのである。
 大永の時代と聞いているが、斉藤憲次の嫡子である越前太郎憲広は出家して、一岩斎入道と称した。次が娘で大戸但馬守真楽斎入道の妻で、大戸との間に四人の子が生まれ、長男から太郎憲宗、四郎大夫憲春、次が女子で三島の地頭浦野下野守に嫁ぎ、後に羽尾治部入道の妻となったのである。末子が城虎丸、こちらは武山の城に差し置かれている。
 斉藤殿はまた岩櫃の城山に松の植樹をさせている。それは百姓役として家並み毎に人別松植えさせ、苗木一本に一銭あて渡してやった。銭高で樹数を知ろうというわけで、およそ十万本余植樹したのである。