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参考文献:「日本城郭大系」「中世城郭辞典」「吾妻郡城壘史」その他城に関する書籍

東吾妻町の城の配置

吾妻の各城郭と岩櫃城

 城には、拠点城、根小屋式山城、街道監視城など機能によって幾つかに分かれる。まさに拠点城としては、岩櫃城が吾妻の中心の城で真田氏がこの城が吾妻の拠点としていたことは承知の事実である。真田氏が沼田城(倉内城)を手に入れたときに岩櫃城は繋ぎの城となったと長くいわれていたが、現在はその後も廃城まで吾妻の拠点城であったと考えられている。

 真田昌幸の時代には、後北条氏と領地を接していた。高山村では尻高城で、小野上では岩井堂城で、坂上では手子丸城で境となりそれぞれが境の城と言うことになると思われる。その中心となるのが拠点となる岩櫃城である。拠点城とは、城の中心部(岩櫃城跡では伊達)に屋敷を構えられる広い平場があること。こういう作りの城は、吾妻郡内で真田の城としては岩櫃城以外無い。他は根小屋式山城と峠を守る関所城である。

 三島根小屋城、岩下城、手子丸城、大戸平城、萩生城、鷹留城などは根小屋式の山城である。山の固屋城、雁ヶ沢城、高野平城などは峠を監視する城であったと思われる。それに比べて岩櫃城は、規模も大きく城主の舘と家臣の館の位置がはっきり山頂と麓に分かれていたのではないかと思われ、山頂御殿と麓御殿があったのでは無いでしょうか。現在殿屋敷と呼ばれているところが麓御殿で会所などがあったでしょう。この舘跡は海野長門守屋敷跡と伝わっているのですが、近世でいう表御殿という感じだったように思います。

 伊達には、山頂屋敷が有り城主の家族が住んで居たのではないでしょうか。こういう山城の作りは、通常城主は一番高いところ住むんで居た。領民に其の統治体制の上下をはっきりさせるためにも、当時そういう風に作っていたようである。

 下の方には、祢津志摩守の屋敷跡、出浦対馬守の屋敷跡などがあり、城主不在でもその身分の上下をはっきりと区別した作りとなっていたと思われる。

岩櫃城とその周辺城の役割


 戦国時代、特に真田氏がこの吾妻を統治していた時代は岩櫃城を中心に吾妻を守るように城が配置されていた。まずは東の稲荷城で、岩櫃城を東から在下、在上方面から向うとその入口に位置している。ここは吾妻川と山田川が合流する台地の少し上に位置している。沼田、白井方面から中之条を経て攻め寄せてくる場合、この吾妻川と山田川が合流する地点が第一の防衛戦となる。ここで迎え撃つ場合この稲荷城は、非常に重要な役割をしていたのではないでしょうか。

 北の備えは、高野平城である。中之条山田にある山田城、吉城、桑田城も、重要な役割をになっていたと思われるがここでは東吾妻町の城についてなので割愛したい。高野平城跡は、東吾妻町と中之条町の境にある。ここは城域も広くなく、斥候(物見)として利用されていたのでしょう。多分普段は山田城に住み(または岩櫃城)、斥候を高野平城に派遣していたように思う。この高野平城と山田城は、薬師岳から伸びる一つの尾根上に築かれている。


南の備えは、吾妻川と岩櫃城の対岸にある内出城と山の固屋城です。内出城は、平城で並郭式に曲輪を配置している。秋閒氏の城という伝説があるが、戦国時代真田氏の古文書は残っていない。そんなところから、後北条文書にある大戸の寄居がここであったという人も居るが、そこははっきりしていないのが現状である。しかし大戸の寄居は多分手子丸城のこと(または平城)と思わわれる。斉藤氏がこの反辺から切沢に、善導寺を移転したということで、もしかしたら元々斉藤氏の領地であったのが、手子丸大戸氏の領地となったのかも知れない。ちなみに大戸真楽斎は箕輪の長野氏と争っていた事から、この説にははなはだ疑問が残るのではあるが。

 西の備えは、郷原城と潜龍院跡である。此処を岩櫃山の頂上から眺めると、古谷地区全体が要害の地形になっている。真田がこの吾妻斉藤氏をせめたときに、陣を張った類長が峰大竹はまさに真正面となる。またこの潜龍院跡(古谷舘跡)の上には米岩伝説もあり、麓は矢倉という地名でもあり私の私見ではあるが、吾妻斉藤氏の本拠はこの古谷地区だったのかも知れません。そして斉藤氏の本拠は現在の郷原、矢倉、岩下だったと思われる。江戸時代まで郷原の辺までは、岩下といっていたという。

 此処の備えは、切沢の谷があり郷原城がある。もし難所吾妻川のどこかをわたり敵がせめてきても、この古谷地区で守れたでしょう。ここら辺一帯は、そんな感じのするところである。

その他の城郭


 ここで吾妻斉藤氏の本拠ではないか、と言われているのが岩下城である。この城は一城別郭式の山城で、根小屋式山城であろうと思う。この城、東側の青竜寺跡周辺の山は幾つか平場もあり興味深い地形が周りにある。西側にも大沢川の西側には現在耕作地になっているが平場が存在している。ここには結構大きい建造物も、建てられそうである。またこの城の裏側から尾根道を行けば、岩櫃にも抜けられる。遠くは山を越え沢渡、四万、新潟方面にも抜けられたことだろう。ただし軍隊の移動が出来るような道ではなかったが。また、こちらの街道は遠く草津の方に抜けていたようであるが、こちらも山道で軍隊の移動は難しかったと思われる。とするとこの城の役割は、何であったのだろうと思うのである。

 此処の対の城が三島根小屋城の江見氏、後浦野氏、雁ヶ沢(横谷城跡)が横谷氏だったことなど考えるとその押さえとして築城したものか、とも思われる。いずれにしてもこの頃の記録がないので、何ともいえません。ちなみにこの江見氏は吾妻斉藤氏との争いに敗れ、信州に落居している。

 雁ヶ沢城(横谷城)は横谷氏の城で、屋敷跡と山城部で構成されている。ここは、道陸神峠が通っておりその交通の遮断または、往来の規制で使用していた関所として利用していたのでしょう。この横谷氏は滋野一族で望月の分れである。

東吾妻町の諸城見学についての注意事項


 「日本城郭大系」「中世城郭辞典」「群馬の古城」「各城郭紹介HP」などを元に城跡を見学されると思われるが、現在岩櫃城跡の一部を除いて遊歩道等整備されていないのが現状である。山に入るには現在熊、いのしし等野生動物が増えている現状を踏まえると、カウベル、しっかりした身仕度(長袖、手袋着用、トレッキングシュース等の着用)をして見学して頂きたい。また雁ヶ沢城跡(横谷城跡)には、まむしなども生息しているので注意をして出かける必要がある。いずれにしても、最低でも軽登山の装備ぐらいはしてもらいたい物である。くれぐれも事故等にあわれないよう、注意を払って見学して下さい。

 以下の城跡一覧を見て頂ければ、この地域の城跡がいかに多いか分かっていただけると思います。戦国中期から末期にかけて、武田、上杉、後北条の境の地となっていた。この地区は、その頃武田、上杉、後北条による小競り合いが途切れなく起こっていた事を考えれば納得がいくと思います。

東吾妻町の城跡

原町地区



岩島地区


坂上地区


太田地区



東 地区


 上図は、東吾妻町の城の配置を示したマップである。幾つか抜けている城跡もあると思うが、非常に多くの城跡が存在している。なぜこんなに多いのかと考えると、やはりここが戦国中末期領地の境目であったというのが一つの理由になると思われる。そしてその城配置の特徴は、要所に城が複数あると言う事であろう。上の図を参照して頂ければ一目瞭然で、街道の要所、峠を押さえる位置に城が集中している。誠によく考えられた城配置である。これは、真田の拠点上田地方にも似たものであると考えられ、真田によって考えられた配置なのかも知れない。天正壬午の乱のとき昌幸は、徳川、後北条和睦の条件であった「利根・吾妻」の割譲を、「真田のとって吾妻は墳墓の地である。」と言って頑として受入れなかった。これが第一次上田合戦の基となるのであるが、この言葉を信じれば「真田出自の地は吾妻である。」とも受け取れる。それほど真田は、吾妻の地を大事にしていたのがよく分かると思います。