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吾妻太郎記について


 吾妻太郎記の郡内にあるものの内 編集者は、原町大宮高山家の写本と沢田村山田字高沼町田安一郎氏所持写本との二本 を知っている。ここに収録してたものはこの両本を対照校訂したものである。元来が美文で在るため集写ごとに少しずつ書換えられれているのはやむをへないと思う。町田本の末に

 「吾妻書は天正年中よりの古き書伝有り。然る所に文字の誤るをなし義理の拙きを除き或いは異説をすて扱いは年代の相違をあらため綴之者也。或いはこの外にもまた世間に類書有り。其書は大塚村林氏の人一冊書出、題名を山廻と云浄瑠璃六段に作り書出す者なり」

と書そへてあり、又金剛院円聖法印著修験岩櫃語の中に

 「別に吾妻太郎記あり。大塚村林氏つづり書出す。吾妻郡略記は享保年中に上原氏記之、上原氏は近利の姓矢島氏の子孫なり」

 とある。町田本の末の書添にある「吾妻書」が太郎記をさしたとすれば太郎記は天正年中既に書き伝らたものであろうし、大塚の林氏(林利右衛門・・・初真田伊賀守の代官の一人老後吾妻三十三番観音巡礼を再興し念仏講を発起し郷士の研究を楽しみとした人)が美文に書き改めた事も事実であろう。現今伝わるは林氏の書いたものであると思う。岩櫃城主吾妻太郎藤原行盛が里見義時(又義候)に攻められて敗死し其子千王丸が榛名山の御師の坊に潜居すること数年、舅父斉藤五郎兵衛梢基、鎌倉管領上野守護上杉民部憲顕の援助の下に里見を討滅して岩櫃城を回復する筋を美文を以て書き綴ったもの。どの程度まで史実であるか不明である。

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雑談の序五箇条


一、当国岩櫃の城主吾妻太郎大掾藤原行盛朝臣は岩櫃中古五代の主君なり。此の者人王九十五代の帝後醍醐天皇の御時世、そのころ天下の武将は足利尊氏公也。其とき貞和年中のことであるが、逆心里見兵衛義候(兄里見兵庫頭は観応年中より安房国に在城する)逆心数度の合戦取合に皆々武勇を励み、みなが働きをなし防戦するといえども、味方の軍兵ことごとく勝利を失い、既に行盛武命のがれがたく思し召し御生害におよぶものなり。
行盛御最期の時左右の敵、左右に詰め寄れば立石の岩の上へ飛び登り自ら御首をかき切り投げられた。不思議や此の首忽然として川戸の岸の枯れ木の枝に飛び去って霊光を放った。則ち行盛大明神と崇め奉り川戸村に御社を建て首宮大明神と祀り奉る。同村の鎮守である。行盛御死骸無常の煙となる。いずれも其の悲しみに涙を流したという。しかるに当初貞和以前には当国未だいずれの宗門の寺も無く、暫く大御堂の庵のみあった。去るほどに彼の御骨を後に岩光山長福寺に葬り、御菩提をともらい奉る。御墓印石塔の梵文に曰く

 何□□□藤原行盛貞和五回巳丑五月廿五日 と伝伝

行盛の嫡男を千王丸と申す。榛名山に居し、然るして後母方の舅父齋藤五郎梢基の養子分として、後は斎藤太郎と名乗った。上杉金吾民部大掾憲顕公に属して延文年中多勢の軍兵を率いて吾妻の城に押し寄せ、父の敵里見父子の両人をうち其の恥辱をすすぎ再び本領岩櫃の城主となり、数代斉藤の御家武運長久にしてよく御繁栄したという。
先年行盛御葬礼の時懐中の御守本尊二寸八分の金仏、聖観音今長福寺に有り。誠に行盛公は長福寺開山建立の大檀那である。
雑談の序事。

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