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・吾妻軍記
 円聖法印著

荒井新示氏は本「吾妻軍記」は金剛院十五世の院主修験円聖の著作であるという。本文中所々の記述内容を認めるのみならず、中巻「斉藤越前大椽行連岩櫃在城之事」の条下に頼盛法印に関する記述があることと「委敷事は岩櫃物語に具に書き記す爰には略す」とあるのは確実なる証拠である。
岩櫃物語は円聖力作の著書であり著者自筆の原本が残る。

吾妻軍記上巻

斎藤太郎岩櫃在城の事

 それ岩櫃中興者斎藤太郎大掾藤原氏の姓憲行朝臣と申して、斉藤歴代の御先祖である。しかるに右上杉管領関八州の旗頭民部大掾憲顕公より加勢を受けて当敵里見兵衛を討ち取り本領吾妻を手に収め岩櫃の城に在城する。
 北の方は安中左近憲基公の御娘である。しかるに斉藤殿は上杉憲顕公の烏帽子子となり憲顕公より憲の字を下され斉藤憲行と名のる。
 またその上吾妻武士旗頭に仰せつけられ延文年中(1356~1360年)より康安(1361年)、貞治(1362~1367年)の後永和(1375~1378年)、康歴(1379~1381年)喜應、喜慶(1387~1388年)、明徳年中(1390~1393年)の時代にまたがり御家の執権に秋間刑部左衛門泰則と言って武勇武辺の勝れた武将が居た。また岩櫃の四方において要害を構え旗下等吾妻太郎記などの書に書いてある。荒尾金剛兵衛行貞を東の押さえとなし村上村に要害を構え在城させた。ただし村上とは岩井堂の事である。昔は岩井堂は東押さえの要害であった。
 吾妻伝記の書に言う。吾妻太郎行盛里見と数度の合戦の後行盛は敗れて、時に貞和五年(1349年)五月二十五日立石の石上にて御生害となった。そのときご自分の御首を掻き落とし川の向こうに投げつける。川戸村にて祀り奉り首宮大明神と号するは行盛の事である。同伝書に言う。行盛御子は千王丸といって榛名山へ落然して上杉憲顕公に属し、父の敵里見を討ち滅ぼし本領吾妻を居城とし、母方の舅斉藤梢基仮名をついで憲顕公より憲の一字を頂き斎藤太郎憲行と名のる。その後斉藤代々越前の何某と名乗り続ける。当庄に歴代居城を構えたと伝わる。
 或いは吾妻太郎記の類書に書かれている。斉藤太郎朝臣憲行は執権秋間刑部泰則を川戸村内出要害を構え置いたという。その後秋閒備前守泰則は斎藤太郎憲行朝臣の家臣として主君に忠孝を尽くし、彼斎藤太郎殿御過報武運長久に貢献した。
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家老秋閒子孫三代略書の事

 さてその後秋閒備前守泰則の嫡男備前守泰倫(やすみち)と申して父泰則に少しも劣らぬ兵である。これは後に斉藤前の越前守行禅の時代の家老である。ただ秋間泰倫の事は斉藤二代目の内に詳しく書き出してあり、この備前守泰倫は武勇に勝れ家門も栄え内出の要害に在城した。備前守泰倫の男子を秋閒九郎と言った。家督を継いで秋間備前守泰近と名乗った。これは嘉吉年中より文安の頃並びに長禄年中の時代(1441~1459年)の事である。これもその後の斉藤三代目越前守行弘の時代の家老である。以上のように秋間殿も三代続き子孫大変繁栄して川戸村に御在城したものである。
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善導寺開山の事

 先年貞治(1362~1367年)年中の事になる。城主の秋閒氏正月二日、筑紫より三艘城下の川岸に着くという夢を見た。御前には執事である内海弾正清房まかりでて、「これは珍しい夢である。当国の仏法流布のお告げである。」申し上げた。しばらくしてその年、鎮西筑紫の善導寺より三僧、当国に下ってきて川戸の城下にお着きになった。三僧の内識阿(しきあ)上人の法弟円光(えんこう)、道覚(どうがく)と号して三カ所に寺を開基する。
 大檀那秋間殿識阿上人を尊敬し、川戸の内の田辺に寺を建て山号を普光山、寺号を善導寺と号した。筑紫本山鎮西住持道覚上人当国に仏教を広げようと寺を開く。今の善導寺の事である。このとき以来誠に繁栄した。大檀那秋間殿善導寺を、禅林としての霊地とした。そして、鎮西流の寺号とし西山派であったと伝わる。ただし近代は鎮西派と定まる。
 二代目住持を円光上人といった。浄土宗号伝に円光上人について詳しく載っている。また、円光上人に三人の弟子がいた。越後、越中に寺を建立する。円光上人の後は、三世の光融(こうゆう)上人となる。光融上人は秋間殿の子息三男で出家なさり三代目住持となる。
 吾妻太郎の類書には、行盛の子息叶殿出家し善導寺二代目の上人になったと伝わる。寺伝と大きく違いがある。二代目の上人は円光である。しかして開山の識阿上人より第六世融辨(ゆうべん)上人 の時代まで90年間川戸に住院した。しかれども、世の中乱逆の騒動に田辺の善導寺もだんだん大破に及んだ。その詳細は、大檀那秋間泰近、長禄年中の事である。当国の旗頭は上杉殿である。その御家老箕輪の城主長野信濃守景重という。
 しかるに秋間備前守泰近領分と榛名山をさかえとして争論があり、双方は不仲になっていた。去る年卯月始めの事榛名神社参拝の折、参拝の順番で争いがあった。長野信濃守、そのときはこらえて退席した。しかしその後、不意を突き榛名を超えて長野信濃守が手勢500余騎を引き連れ川戸内出の城へ攻め寄せてきた。しかし城内では思いも寄らない事だったので、大変混乱して取るものもとれない状態であった。鎧甲太刀長刀など、取る暇も無いまま長野勢は大手の門を破り押し寄せてきた。そのとき秋間方、200余人一度に突撃に出る。敵方は一瞬ひるんだが、新手を次々に寄せたので叶わない。多勢に無勢、味方の多くは討ち死にした。残るものは手負いとなり、その他は逃げてしまい戦うものとて無い。そのとき秋間は白旗を振り上げ軍の下知をしていたのだが、この様を見て「イザ、イザ」と一軍を率い敵味方に見せようと出張れば、続いて内海、中沢、丸橋、菅谷四人の郎党ともして控えていた。そのとき「秋間備前守泰近とは我の事なり」。今日の戦勝負は誰も白髪の荒人神と聞こえる秋間が手柄見せようと大音声で名乗り上げた。箕輪源太左衛門これを見て、「鬼神であるような泰近を討ち取れ」と百騎余りで一度に斬りかかる。そのとき内海、中沢、丸橋、菅谷主従五人の兵は、大勢の中へ分け入り敵軍をバラバラと切り伏せた。さてもおもしろき戦であると大汗を流して切り立てる。短い間に200騎ばかりなぎ倒した。寄せ手の大将長野は本陣よりこれを見て、さても秋間は聞きしに勝る兵である。誰も彼に向い太刀打ちの勝負は無理と思い、弓矢をとってきりりと引き絞りひょうと放つ。矢は見事秋間が鎧の胴巻きの中程をふつと射通し、内海源正吉房が鎧の袖かけをかすめ南無三宝とその場に倒れ伏す。ついに秋間は討ち死にした。大将景重大喜び、日頃の大望達したりと勝ちどきを上げて帰陣する。去るほどに陣敗れ残党も残らないほどであった。秋間殿ご内室常磐殿とおっしゃるは備前守討ち死にと聞くなり驚き、城中に響き渡るほど泣き叫び哀れの次第である。さても常磐は命長らえてもしょうが無いと吾妻川に身を投げようと思い立ち、幼き兄弟の子らをうち捨て川岸へ急いだ。そのとき小松の枝を抱きかかえ

常磐なる松のみどりも春くれば
今一人の色やまさらむ

と詠み終えて西に向って手を合わせ後々までも助け給え南無阿弥陀仏と唱えながらその渕に身を沈め終生を終わらせた。さてこのときより今に到るまで常磐淵と言われている。
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吾妻軍記中巻

斉藤越前守行禅岩櫃在城の事

 頃は応永年中より生長並び永享年中(1394年~1440年)の間の事である。斉藤越前守行禅ご武運長久にして岩櫃の城主で繁栄していた。御家の執権は川戸内出の城主秋間備前守泰倫(やすとも)という。 さて、ご一族には高野平斉藤但馬尉並びに大野民部みなご一族繁栄していた。頃は生長年中(1429年)以来より大野氏斉藤行禅の婿となり、館の内稲荷城要害に座し岩櫃の旗下となり、大野修理進と名乗った。中代の城主は大野主膳いう人である。その末の城主を大野新三郎伝わり武家の人である。大野殿は越前国大野郡の出身の武家である。而して当国にて群馬郡において総社石倉のあたりに知行があった。その関係を持って斉藤殿と縁を結び、総社村はしかして要害もなかった。さて大野殿の執権は蜂須賀伊賀守というものであった。代々家臣この末の孫に蜂須賀舎人というものがいた。また後の代々大野殿は斉藤行基婿であった。その三代相続して子孫武運長久で非常に栄えていたという。
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柳澤古城要害の事

 安部物語に委細伝わる。頃は永享年中(1429年~1440年)川戸城主秋間備前守泰倫を主君前越前守殿召して申した「予も老体の身成れば惣領に家督を譲り隠居しようと思うが、一人娘未だに縁付かず我が身は明日おもしれぬ老体にて、これのみ心懸かりである。今度、柳澤の要害を隠居所として所領配分して、娘には婿を取り斉藤一家を広うして斉藤家を安泰にしようと思う。秋間はいかがか。」仰せになった。
 時に備前守申した「誠に忠言に逆らうといえども苦言は利がある。良薬口に苦しと言えども病には効く。ご隠居の儀もっともな事と承る。只入り婿とはいかがな事か。既に御舎弟斉藤但馬守へ知行を分け、その上他より婿を入れ領地を配分する事は御惣領の領地を減らし、後々一乱のもととなります。この秋間は合点がいきません。」と申した。しかし、行禅は要害を築き隠居致し、息女には柳澤治部少輔を婿にむかえ、これで斉藤一族も末代までご繁栄と喜んでいた。その後斉藤行禅公は老年のため逝去あそばされたという。
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斉藤越前守行弘岩櫃城在城の事

 行弘朝臣は永享年中(1429~1440年)より御家督を継ぎ、その後嘉吉(1441~1443年)の頃より文安(1444~1445年)、宝徳(1449~1451年)、長禄(1457~1459年)、寛正(1460~1465年)ならび文正(1466年)、応仁年中(1467~1468年)の頃まで、岩櫃におよそ50年の間在城していた。時に長禄年中(1457~1459年)の事、斉藤越前守行弘は一族を集めておっしゃるには、この度秋閒備前守泰近は長野信濃守とのいざかいにより討ち死にした。彼は斉藤家代々の家臣を目の前で討たせては武士の本意では無い。しかし、よくよく考えれば長野は上杉の家老である。誠に上杉公と申すのは、当国の旗頭であるので上杉氏に対して何も恨みは無い。また、利根の沼田万鬼斎入道と長野信濃は婿と舅という事なので後日乱を招くのは必定である。
 「沼田記」に記す。利根の領主平景泰より十二代の孫を沼田上野介と号した。万鬼斎入道という。女房箕輪の城主長野信濃守景重の娘であるという。委細は沼田記に記してある。 その頃秋間の兄弟、子等を岩櫃につれてきて成長させよと、侍方へお申し付けになった。その上反辺善導寺は秋間が開祖建立の寺で在るけれども、秋間没落後段々寺も廃れてきたので、斉藤行弘反辺より岩櫃城下南切沢に善導寺を再建して、仏果菩薩の整地とする。長禄(1457~1459年)より文正(1466年)の時代の事である。さかのぼれば御父斉藤越前守行禅は応永年中(1394~1427年)岩下村に福聚山応永寺を開山建立した。御先祖吾妻太郎行盛公は文保元年(1317年)岩光山長福寺をご建立なさった。これは吾妻第一の古跡である。中興切沢善導寺は長禄年中(1457~1459年)の末より元和二年(1616年)の頃まで、140余年ほど切沢にあったものである。
また、元和2、3年(1616.1617年)辰巳の年、切沢より善導寺を原町へ移すといわれている。
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柳澤城へ岩櫃より夜討の事

 安部物語りに語る、往昔応仁2年(1468年)12月晦日の事、柳澤治部少輔直安は家の子郎等を集めて、晦日の事にて酒宴を行い君臣共に祝をし、その日も暮れるまで終夜物語をしその後夜半に柳澤殿お風呂入りたるときにふと思う。治部少輔家臣に仰せられるは「昔よりこのような時分には必ず夜討があると聞く、ずいぶんと用心致さねば。」という所に、案の定岩櫃より300騎押し寄せときの声を上げる。城内は不意の事で慌てふためくばかりである。
 そのとき柳澤家老丸橋将監少しも騒がず、嫡子八郎常定100騎ばかりこのとき大手の門外に進みい出、「今度之夜討は何者成るぞ」名前を聞かんと大音声を上げる。そのとき寄せ手の武者二人馬寄せて大音に名乗り、「平沢大膳宗時、白岩入道法雲両人討っての大将を仰せつかりまかり越した。尋常に勝負を決すべし。」言い返した。
 そのとき柳澤殿大音声にておっしゃるは、「いかに寄せ手の愚人共耳を傾け確かに聞け、兄弟は他人とは別である。さすが妹婿に弓を引くとは浅はかな事かな。義あるものは自ずから仁心をはぐくみ、賢臣二君に仕えず貞女両夫にまみえずと言う。その方らは仁義をわきまえないのか、先代越前守行禅の御遺言を早忘れたか、さて汝が共の主人行弘は中々傍若無人の侍、畜生なり。」と大音声に怒り、寄せ手の大将これを聞き「愚なり柳澤殿今がまことに最後なり。」あれ討ち取れと白旗振り上げ下知すれば、屈強の若侍我も我もと打ちかかり、両陣入り乱れてしのぎを削り鍔を破り切っ先より火花を散らし戦った。敵は大勢味方は無勢のことであるので散々に切り立てられ味方の軍兵ことごとく討ち死にする。 柳澤殿は叶わないと思った。忍びの道筋より裸馬に打乗り逃げ延びた。討手の者共はこれを見て後ろから射る矢は雨のごとく、永井七郎が射たる矢が馬の腹下より胸元までぶつと射通したら、馬は屏風を倒すごとくばたと倒れ死んでしまった。これよりも柳澤殿は歩行にてその夜の内に植栗安芸殿へ叔母婿の縁を頼り安芸殿の城中へ落ちていった。
さて、柳澤治部少輔殿のご内室は斉藤殿の御妹であるが逃れられないと覚悟し、熱湯の釜の中へ真っ逆さまに飛び込んで自殺した。斉藤行弘の為には柳沢直安は妹婿であるけれども、偽りの意図を持って無残にも討ち滅ぼす。事は邪欲の非道の振舞であると人々は伝えたものである。
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斉藤越前大輔行基岩櫃在城の事

 頃は文明(1469~486年)より長享(1487~1488年)の末延徳(1489~1491年)明応(1492~1500年)文亀(1501~1503年)ならびに永正年中(1504~1520年)の時代である。その頃天下の武将は足利12代義稙将軍の御治世である。さて当国の旗頭は上杉憲顕公であった。時に越前大夫行基の惣領斉藤行連がおおせらるるは、ここ岩櫃の城郭と言えば当国一の要害である
山は自然の城郭、左手は岩頭みちてそそりたち、右手は大小の谷48ヶ所、そして殿上は高く登って櫓のごとく中にも櫃の口の道筋、一の門、二の門と号して大盤石の楯を構え、一騎当千の代難所であり当国一の名城である。
先年上杉憲顕公からの仰せで、この国越後の押さえのためにこれを相守る中斉藤の家は上杉殿の仰せで、北上州吾妻郡探題として、万事の御政道を糺明する事これひとえに弓矢の面目、世に聞こえていた。あるいは大野が事、稲荷の城主大野新三郎正家は総社石倉あたりに知行があり、そのならびの地頭と領地争いになり戦となった。その石倉の合戦で大野殿敵を防ぐも、敵兵強勢であったので叶わず総社の寺に撤退、御討ち死にとなった。そのとき家老蜂須賀伊賀守を始めとして御供の諸侍一同に切腹を遂げたのは、前代未聞の武士の鑑と言い伝わる。
その大野殿墓は総社村の寺にあると言う。大野殿の霊験で不思議な事があったので、一社を祀り大野殿は大野大権現と申した。そのとき御供の侍75人各命を落として75疋の大蛇となって大野権現の眷族となると伝わっている。これによって 稲荷城要害の四方では蛇を殺すととを禁止した。誤ってこれを殺すときは、則大いなる祟りありと伝わる。
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藤越前大掾行連岩櫃在城の事

 まず、御先祖斎藤太郎憲行より到り行連朝臣まで一八〇年の歳月がたつ。さて、行連ならびに基国まで各永正年中(1504~1520年)より大永(1521~1527年)享禄(1528~1531年)天文(1532~1554年)弘治(1555~1557年)永禄年中(1558~1569年)の頃である。昔より代々城主岩櫃の丑寅の方鬼門にあって瀧峨山の不動堂を建立してある。御祈念願主本尊とする。斉藤行連殿の御代に金剛寺は不動尊の別当修験沙門頼盛法印御城内の御祈祷をつかまつるによって頼盛法印自筆の書物代々相伝わり、今の別当金剛院にこれあり、年号月日速にこれあり、斉藤行連公の不動堂建立は大永元年(1521年)の事である。後の斉藤越前守基国公は行沢馬頭観世音菩薩を御建立同御掛物自筆の歌ならび年号時于は大永七年丁亥六月十三日とある。詳しくは岩櫃物語に書いてあるのでここでは略す。
 吾妻旧跡伝書にいわく、行盛の子息千王丸殿榛名山へ落ちた後に上杉憲顕公に属し父の敵里見兵衛を討ち滅ぼし本領吾妻を居城とし、その母方の叔父斉藤梢基の字名を継いだ。憲顕公の憲の字を賜り斎藤太郎憲行と号す。後は代々越前守を名乗り当主数代この城に居城する。しかる間斉藤憲行より基国まで六代で、先の吾妻殿より基国まで岩櫃十一代の五城主であった。今の斉藤行連は武士の名人、武道第一として弓矢の道をみがき仁義正しき侍である。その頃信玄公の旗頭としていたようである。先の吾妻殿というのは頼朝公の御代建久の頃(1190~1198年)の吾妻太郎の事である。建久元年(1190年)より正応元年(1288年)までおよそ九十年あまりその吾妻太郎岩櫃に居城すること十一代というと健久の頃の吾妻太郎は四代にわたり岩櫃に居城か。吾妻太郎行盛より基国までは七代である。
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根見屋(根小屋)城要害の事

安部物語、旧伝書に伝わる。弘治(1555~1557年)、天文年中(1532~1591年)、後の齋藤越前守基国公皆を集め内談したのは、遺恨があったのは当国三島村領主仮名 を江見下野守と申し根見屋(根小屋)の要害に在城する。
しかるに武士に二言はなしという。すこぶる互いに武を論じ、弓矢の争いとなる。斉藤殿より闘論を企て三島領内にことごとく騒動があった。岩櫃より軍の取合いに田村主計、安部大蔵、山口内匠、安藤、荒川五浦も軍勢を率いて一戦に及び、そのとき江見下野守の方は浦野大膳、同主水、西山兵庫、同兵衛尉、丸橋、小林、高橋等その他一家中武勇を励ますといえども斉藤方の軍勢強勢の働きにて、ついに江見下野守は敗戦し信濃国へ落ちていったという。斉藤殿は難なく根見屋を攻略してやがて勝ちどきを上げて帰陣するという。
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鎌原殿と斉藤殿と取合の事

 高橋物語の記述を取る。去る事弘治(1555~1557年)永禄(1558~1569年)時代齋藤越前守伺候の侍方が言うには、その齋藤朝臣基国は吾妻武家の棟梁で在れば、誰であっても肩を並べるものはないとその威勢国中に徘徊しおのれのために横領して、抜かぬ草木もないという。
 そのとき三原の住人鎌原越前守殿は内々斉藤殿と中がよろしくなく、斉藤殿鎌原方へ事の難題を企て、軍を起こし鎌原領を犯そうとしていた。もとより鎌原の家は、武勇の誉れ高く他家より器量他勝れていた。さてまた斉藤殿も弓馬の達者で勇猛果敢な将、その上一家中にいたるまで武勇の達人である。
しかして鎌原殿も不利を悟り信玄公へ救援を求む。
一説に斉藤殿と鎌原殿との争い事で、鎌原殿の知行二〇〇貫文の内ほとんど斉藤殿に取られた事によって、鎌原殿信玄公へ訴え出た。
しかる間信州海野にて変わり領地を下されると内示があった。。右のあらましの言上あり。これによって信玄公より海野にて鎌原殿へ引き替えの領地を下し置かれた。
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齋藤越前守基国岩櫃列落の事
附基国公岩櫃天狗と現じ給う事

 つらずら世間の風俗をかんがみるに、国家の動乱盛んである事は衰え、衰えざるものは後に徘徊し、ただこれ盛衰不定の世の中である。去れば斉藤殿の御運も末代になるところへ一家家中敵になびき、諜叛騒動を企て始めるによって斉藤殿の御家もいささか滅亡の兆しが見えてきた。その書にいわく、信はこれ義の本である。群臣に信があるかその善悪を見極め成敗すること、即ち群臣に信がなくなれば万事良く敗れるという。
吾妻旧説伝書にある。永禄六年(1563年)に齋藤越前守、武田信玄公に打ち負け御滅亡、越後国へ御浪人となると伝わる。安部岩櫃伝書にある。齋藤越前守の臣下共に討謀らんと企てるという。甲陽軍監にいわく。信玄公諸国への御使者のもの四人、日向源藤斎、秋山十郎兵衛、西山十郎左衛門、雨宮尊輔である。
しかるに永禄6(1563年)年西山十郎左衛門と申御使者を密かに岩櫃の家中方へ内通の謀事に使わした。岩櫃家中の輩切沢善導寺で会合謀反の内談し、一味連判状を書いたけれども岩櫃家中に西山豊前守重久は義ある侍で、主君忠孝忠節の者であったのでそのことを密告した。斉藤殿派のこことを聞き及び、無念悔しや一家中の輩敵方に加わる上は、如何ともし難い謀である。
しかしながらわが武勇をもってしても、みなを討平らげることも成らない。ただ、鷲が雀に向うようである。しかし、小敵と言えども侮れないとその夜の内に、夜さらにふけるときに若侍富澤源吾信房、西山平八重賢両人をお供にして御舘を忍び、山路を目指して急いだ。
無念なる主従三人の人々は人目を忍び山中を隠れ歩き、高豊山の麓について基国公は岩櫃山の天狗になって末世の者共の守護となる誓いを立て、ここより上妻山を岩伝いに転げ落ちる。哀れである。
尚これよりも越後国を目指し急いで行けばそこは四万村木根宿についてしばらく休憩した。そのとき斉藤も西山、富澤両人を呼んで申したのは、汝らこれより宿所に帰るべしとお暇を与えたのであった。時に両人が承知せず、殿の御上意であるが たとえ野の山奥でも何処の国へも御供つかまつりたいと申し上げた。それを基国公が聞いて、汝らの志は神妙である。もはや我は再興の望みもない。末世まで領民を安楽長久に守るため天狗の祈願をしたのである。早々に分かれるべしと仰せになった。ついに主従の別れに不覚にも、鬼を欺く斉藤殿も両目より涙を流し別れを惜しんだが、二人の者共声を上げて嘆き悲しむ。しかるに殿の仰せであるので、主従共になくなく分かれたが心の内は哀れである。去れども二人の若者なおも主君とのお別れを悲しんでまた立ち返り、今一度主君の面影を見ようと静かにたたずむ。
不思議なことに、長さ八尺あまりの 大山伏衣冠を着て、袈裟鈴掛を付けあたりをにらみつけ立っている姿は、天狗の姿に見えて人々恐怖するところに、そのとき客僧示していった。闇無くして説くべからず、われ法妙にして思ってもみない。いかに斉藤人界の思い離れ山林修行の功積もり末代の生あるものを救済すべし。即頭巾鈴懸の装束を汝に贈る。今日より名を神照坊と号せよ。我を誰が思い出すのだろう。
渡るより心も涼し行沢の みづはかんろをそそぐ我身に
と歌を詠めば、三面六臂の馬頭観音世音菩薩が現れ消えるがごとく去って行った。彼人々の心の内はさぞ寂しかったであろうという。
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