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稲荷城跡

稲荷城へのアクセス

稲荷城跡縄張図

稲荷城の解説


 この城跡は、国道145号から北方面に曲がり町道へ入る。その道は中之条の山田に抜け、さらに沢渡に抜ける。原町中学校をすぎすぐ川があり、その川の対岸、神社のあるところの上が城跡である。本丸、二ノ丸とで構成され二ノ丸は東の二ノ丸、南の二ノ丸と堀で仕切られている。東の二ノ丸には腰曲輪が付き、その先には楼台があったと思われる小高いところがある。

東の堀と楼台

 その西側の堀は、北側斜面に落ち込んで竪堀となっている。南の二ノ丸は、鍵型に西側に延びその先には土塁が盛られ、更にその外側に十手型に堀の跡が見られる。東側には特に虎口等見られないのであるが、南の二ノ丸、鍵型の外側角には虎口らしき遺構もある。

南の堀

西外曲輪土塁

 本丸であるが、土塁でぐるりと囲われ北側を頭にすると野球のホームベースのような格好をしている。その土塁は3mはあるか。東と西にそれぞれ虎口が付いている。このように土塁と虎口がはっきりしている城は、岩櫃城以外東吾妻町ではあまり例がない。この本丸の堀は東、南、西と三方に掘られているが、その東西の北側は下に落ち込み竪堀となる。その下には腰曲輪も確認できる。

東虎口

西虎口

一の曲輪内部

 全般的に見て非常にはっきりとした遺構の残る城である。この遺構を見ると、明らかに戦国時代の縄張であり吾妻の伝説に出てくる鎌倉時代の記述は信憑性をあまり感じないのである。東の二ノ丸のさらに東側であるが、曲輪がさらにあったと考えられるが、住宅、耕作地となっているのでその痕跡は、段差が二つあるぐらいであり、詳細は分からない。

稲荷城跡沿革


吾妻氏(鎌倉時代)

 吾妻氏(鎌倉時代)稲荷城下館の内は、律令時代吾妻郡家があったところであろう。

 吾妻氏が古代末期にこの地には行って吾妻庄の庄官と成って、武士化して吾妻郡家をおのれの館として横領し、次第に勢力を伸ばしたと思われる。

 郡内に古来から伝えられている説に吾妻太郎があり吾妻太郎助亮は建久の頃この稲荷城に居住したと伝わる。その子助光もこの城に居住したという。現在の稲荷城の遺構は、囲郭式丘城であるが、これは明らかに戦国期の築城と思われるのでその頃の城は梯郭式か、並郭式であったのかもしれない。

 下って鎌倉時代中期下河辺行家が先の吾妻氏の跡をとって吾妻氏を名乗った。その子吾妻庄司助行重もこの城に居住したと言われている。

 行重は弓の名人で、前の吾妻太郎助光の遺児を娶って妻とし、この城に部屋住みしていたと言われる。後岩櫃城の本城に移った。その子吾妻太郎行盛もこの城で生まれたとし、また一説には館の内で生誕したという。昭和の初期まで古木の桜があり、「館の桜」と言って太郎生誕の地と言い伝えられる。

 大野氏(室町時代-戦国時代)

 室町時代大野氏がこの城に入ったのは諸説の一致するところであるが、出自については斉藤氏出自説(斉藤系図)、また越前大野郡の豪族で、室町初期大野郡から国替えによって本郡に来て、吾妻の地頭となったという説、小渕氏(出自は大庭氏)から出たという説などがありはっきりわからない。

 大野氏の行動(郡内旧記説)

 室町の初期初めて大野民部が稲荷城に在城し、岩櫃城主斉藤氏に属していた。その子大野修理は岩櫃の旗本となり、斉藤越前守行禅の娘を娶って斉藤氏と縁戚関係を結んだ。その子大野主膳生も斉藤行基の娘を娶って最盛期を築いた。頃は明応の頃と言われている。
 大野三郎正家

 正家は主膳正の嫡子です。大野氏は先祖代々群馬郡総社・石倉辺に知行地を有していた。天文年中の頃、その並びに武州の地頭の領有地があった。些細なことから両家は土地争いを生じ、ついに戦端を開くに至った。
 しかしながら戦勢は大野に不利に働き、大敗してしまった。正家は総社の寺付近に退却して、自害をした。家老蜂須賀伊賀守以下七十五名のものは、主君正家に準じて一斉に切腹した。
 また一説によれば、正家は岩櫃城主斉藤氏と不和となり、戦端を開くに至ったが、戦いに敗れて甲州の武田信玄を頼って落ちていってその配下となり、稲荷城主に復活を願っていた。しかし、信玄の箕輪城攻めの時その先手として壮絶な討ち死にをし、大野氏は滅んだとある。

 大野権現

 稲荷城祉内に大野権現、現在大野稲荷と称する神社が祀られている。天文年中大野新三郎正家が総社で討ち死にしたとき、正家の霊魂が飛んで帰ってきた。このとき切腹した蜂須賀伊賀守以下七十五名のものはこの城で七十五疋の大蛇になったという。土地の人はこの霊を慰めるために一社を建立して、大野権現と称し、稲荷城付近で蛇を捕ることを厳禁し、もし誤って殺すとその人に祟りがあると伝えている。

稲荷神社


 大野下野守義衡と善福寺

 義衡は法名を善福寺殿と称していたことより、山田善福寺と深い関係があったと思われる。文献にはないが、おそらく善福寺再興等に力を注いだのだと思われます。善福寺は寺伝によると法然上人六代の法孫道覚浄弁上人が南北朝時代の康永年中(一三四二年頃)、日本四十八体中第四十五番の善光寺仏の尊体をえて開基した由緒ある寺である。

山田善福寺