吾妻地方の歴史と吾妻地方の中世城壘

戦国の戦術

 前説

 戦国時代の合戦は近代の戦争と違い、総力戦(全部隊全滅)というようなことはあまりありませんでした。多くの雑兵は戦で味方が不利になると、だいたいが逃げてしまいます。かの長篠の戦いにおいても、武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れたとき多くの有力武将が戦死しましたが、武田軍が全滅したわけではありません。有力武将が討たれるとそこに所属する多くの兵士は、逃散(逃げる)して国に帰ってしまいますので戦にならなくなるわけです。また城攻めに関しても、自分の軍の手に負えないような敵軍が攻めてきたときにはだいたいが、自らの居城に火を掛け逃げたようです。

 長篠の戦いの後、織田信長がなぜすぐに武田家を滅ぼさなかったのかというと、長篠の戦いの後も武田勝頼にはまだ十分抵抗できるだけの兵力があったのです。武田家が滅びた原因は、徳川家康が高天神城を攻めたときに武田勝頼が後詰めに兵力を出さなかったため城将奥平信昌が徳川方に投降しました。

 武田家の滅ぶ直接の原因は、もし自分の領地に徳川、織田氏が攻めてきたときに武田勝頼は後詰めの兵力をだして守ってくれないということで、各有力武将(木曾義昌、穴山信君など)が裏切ったためだと思います。

 武田家という大大名に属す各豪族は、自分の領地を持ちその領地に敵が攻め入ってきたとき、後詰めと言う形で兵力を出してくれることが忠誠を誓う絶対条件でした。それをしてくれないということは、自分たちを守ってくれないということです。

 吾妻地方の合戦でも、第一次、第二次岩櫃城攻防戦で真田氏に吾妻斉藤氏が攻められましたが上杉謙信が、沼田城まで後詰めという形で2000人の兵力を越後より派遣して結局真田氏は、岩櫃城を落とすことができず和睦ということになります。このときにはすでに、斉藤弥三郎、海野兄弟など多くの斉藤方武将は真田氏に裏切りの約束をしていたのですが、この上杉謙信の後詰めによって裏切ることなく岩櫃城に籠城していました。

 このように籠城戦の時は、必ず所属する大名の後詰めによって実際の戦闘は行われず攻城側も、和睦し撤退するということが多くあったでしょう。

 まれに後詰め決戦という場面もありましたが、だいたいが攻城側が敗れるということが多かったと思われます。城を攻めると言うときは、籠城兵力の三倍以上の兵力が、攻城側には必要だと言われていました。これは、後詰め決戦に際して、城を包囲する兵力を残して後詰めに来た敵兵と戦える十分な兵力で城攻めをすると言うことだと思います。

 こんな事を踏まえながら、戦国時代の合戦のもようを「戦陣の作法」「軍容」などを紹介していきたいと思います。

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 戦国時代の軍役

 戦国時代の軍役は、各大名によって違い私富澤豊前守の貫高は20貫で馬乗りで、供の物馬引き一人で、鎧甲は戦場にて着用するので鎧櫃を供の物に背負わせ、本人は鎧装束に立て烏帽子をかぶり馬に乗って目的地に向っていたことでしょう。さらに、近くの郷村の兵役の雑兵5~6人程度引き連れ戦場へ向ったと思われます。兵糧は、三日分は各自持参だったようです。現在でも山登りの時に携帯する、干しい(米を炊いた物を乾燥させた物。水やお湯を掛ければすぐ米食になる物。)、味噌、餅などを持っていったのかも知れません。これは、江戸時代の百石一騎を基にしました。

 一般的には、百貫一騎と言われていたようですが後北条氏の軍役で、五十貫一騎で小旗持一人、鉄砲持一人、槍持二人、小荷駄が居ないので各自分担で持っていたようです。また鉄砲は高価なために持てない者は、弓二人ないし三人に増えたことになると思います。

 戦国時代の貫高制と近世の石高製の違いは、貫高制は軍役をかすのを基にしていたのに対して、石高制は年貢を元にしています。このことは、戦乱の時代と兵農分離が完成した平穏な時代の違いだと思います。真田安房守昌幸は、外の大名が石高制に移行しても貫高制にこだわっていたと言われています。このことは、昌幸は最後まで軍役を中心に考えていたと思われ、最後まで領土への野心を持っていたことが伺えると思います。

 次に参考に江戸時代の二百石級から一万石級の軍役を紹介致します。戦国時代の軍役はもう少し多かったと思いますが、兵力を算出するのに参考になると思います。

 二百石級の軍役(約四十貫文)

 平時の場合は、馬一騎に槍持一人、草履取一人となります。

 軍役は

 鎧武者一人、槍持一人、馬の口取一人、甲冑持一人、小荷駄一人の従者五人となります。

 三百石級の軍役(約六十貫文)

 主人は馬乗りで、甲冑は着けず籠手、臑当、佩当、喉輪、陣羽織と軽装で出陣した。古くは弓矢が主武器であったが、戦国以降は槍が主武器であった。また私の勝手に名乗っている富澤豊前守は、長刀だったと「加澤記」に記されています。

 鎧武者一人、槍持一人、馬の口取一人、甲冑持一人、小荷駄一人、草履取一人の従者計六人となります。

 四百石級の軍役(約八十貫文)

 三百石、二百石の軍役に課せられている鎧武者は、自分で鎧を整えることができず主人持ちとなっていたようです。

 鎧武者二人、草履取一人、小荷駄二人、甲冑持一人、槍持一人、挟箱持一人、馬の口取一人の計九人となります。

 五百石級の軍役(約百貫文)

 戦の続いた時代は、身分の高い者でも数日分の食料や、簡単な備品は打飼袋に入れて背負ったり腰に着けたりしていました。織田信長は自分で餅を用意していたというし、加藤清正は打飼袋に米三升、干味噌、銀銭三百が入っていたという。戦国の軍役は、小荷駄の分を兵力に回していたのでしょう。

 鎧武者二人、甲冑持一人、槍持一人、馬の口取二人、小荷駄二人、草履取一人、侠箱持一人、立弓一人の十一人となります。

 千石級の軍役(約二百貫文)

 千石級になると押足軽(足軽頭)が新たに加わります。三千石級以上になると、主人の持筒、持弓、の他に戦力としての数弓、数鉄砲、数槍というグループができ、これらの監督者が押足軽である。

 鎧武者五人、立弓一人、鉄砲一人、槍持二人、甲冑持二人、草履取一人、長刀持一人、侠箱持二人、馬の口取二人、押足軽一人、沓箱持一人、小荷駄二人の計二十一人の計二十一人です。

 五千石級の軍役(約千貫文)

 その軍役は、

 騎馬武者五人、五騎の馬の口取五人、槍持五人、具足持五人、小者五人、若党五人、数弓三人、箭箱持二人、鉄砲五人、玉薬箱持二人、槍持十人、手替三人、旗差六人、鎧武者九人、馬印持三人、主人の馬の口取四人、挟箱持四人、草履取一人、茶弁当持一人、坊主一人、甲冑櫃持四人、立弓一人、手筒一人、長刀持一人、雨具持一人、長持一棹四人、沓箱持二人、押足軽四人、小荷駄五疋五人の合計百七人です。

 一万石の軍役(約二千貫文)

 二千貫文というと真田幸綱の武田家における最初の知行と同じだと思います。武田配下において、信州上田平の砥石城を落としたときにもらった知行でこれが真田氏の基礎となったと思われます。

 その軍役は、

 騎馬武者十人、鎧武者十六人、十騎の口取十人、若党十人、槍持十人、具足持十人、手替五人、小者六人、数弓十人、手替三人、鉄砲二十人、手替五人、槍持三十人、手替十二人、旗差九人、宰領一人、立弓二人、手筒二人、手替一人、長刀二人、甲冑櫃持四人、雨具持二人、草履取一人、馬の口付六人、沓箱持三人、手替一人、押足軽六人、箭箱持二人、玉薬箱持二人、馬印持三人、宰領一人、小馬印持二人、侠箱持四人、簑箱持(雨具)二人、茶弁当一人、坊主一人、長持二倬八人、宰領二人、小荷駄十頭十人の計、二百三十五人です。

 真田幸隆公の例を基に戦国時代の兵力の概要を申しますと、幸隆公一族で約300~400人、武田家の与力という形で1000~1500人ぐらいでだいたい2000人ぐらいの兵力だったでしょう。吾妻の諸氏、鎌原、湯本、横谷、浦野、植栗の各諸氏は、武田の直臣で幸隆公の与力という形で従っていたと思われます。

 以上参考までに、江戸時代の軍役をあげてみました。戦国時代の軍役は、もう少し軍事の方に重点を置いたと思われるので、戦闘員の方を多かったと思われます。また、足軽については各郷村から夫役により徴兵したと思われるので、三百人からもう少し多かったかも知れません。

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 軍役用語の解説

 持弓

 草履取、挟箱持

 草履取、挟箱持は平時城に登城するときの従者として従える者ですが、戦場にも従えていたようです。草履取は主人が草履を脱ぐときに持って控えている者、挟箱持は、主人の日用品を持つ物となっています。

 具足櫃持

 出陣するときには、普通具足は着けなかったようです。私のトップページの衣装のように、鎧直垂に腰当、陣羽織という格好で馬に乗り出陣します。鎧はと言うと、野戦の場合は、その戦場に着いてから着けたようです。籠城の場合は、敵がいよいよ城に攻め込んできたときに着けたと思われます。

 沓持

 戦闘用の毛靴や草鞋を持つ者。

 幕袋負い

 主人が宿陣したときに城門の付いた陣幕を張ります。その陣幕を背負って従軍する者。

 土俵空穂負い

 桃山時代に流行した空穂の部分が極端に太く大きく、身分の高い武士はこれを軍用を誇るために下人に背負わせて随従させた。

 若党

 足軽階級で主人の馬のそばに従って、雑用を果たした。

 中間

 中間は、侍と下人の中間に位置する身分の者で、若党に似ています。立場上の区分は曖昧で、主人に従って働きに住持する武士より下位の者。

 以上下人の役を説明しました。次に足軽、武士となります。

 この役割の上に、足軽、足軽大将、侍大将、と続きます。足軽は、長槍隊、鉄砲隊など組織され、足軽大将によってまとめられてその足軽大将の何名かをまとめて侍大将が組織します。

 戦国時代初期の戦い

 戦国時代の初期の戦いでは、比較的小競り合いが多く大軍団同士の戦いは少なかったようです。兵力は500~2000人程度の兵力で争っていたようです。

 その頃の戦では、籠城という戦略が有効な手段だったようです。兵農未分離の兵役の時代では、籠城戦において長期帯陣が不可能な環境だったのです。ほとんどの兵士が、農業に関わっており、農繁期には戦が出来ない状態でした。普段は農業をしていた者がほとんどで、大領主(家老職や重臣)ぐらいしか専属の武士ではなかったようです。

 兵の構成も、その当時は寄子寄親制度で馬乗り一人に従者二名、馬乗り一人に従者五名とか言う小集団が集まって一つの軍団を形成し、総兵力を構成していた。戦いもほぼ個人戦で、三名の組、六名の組などがめいめい戦っていたのでしょう。長篠の戦いの屏風にも、そのようなことが描かれていると思います。

 兵料も腰兵料といって、各自三日分ぐらいもって戦に出かけたようにその当時の資料にあるようです。当時一日米を一升食べたようですので、米三升と味噌などを持っていたのではないでしょうか。後足らない所は、適地での略奪で補ったようです。

 応仁の乱以降、足軽という者達が現れて武士とは違う兵士が誕生しました。その足軽達が命を懸けて戦に出かけるのは、人さらいをして奴隷として売っての現金収入、略奪(ナベ、鍬など鉄ものや食料)が命を掛ける代償でした。この事を、乱取り、人取りなどと言われ、戦国時代の古文書に載っている例があります。

 そんな時代の戦においても集団戦になるのは、鉄砲の普及を待たなくてはなりませんでした。

 私の興味のある土の城は、そんな時代(鉄砲が普及して、兵農分離が進んだ時代以前)に活躍した城です。

 真田幸綱(幸隆)による岩櫃城の攻略戦も鉄砲が普及する以前の戦いで、この城を落とすには謀略や三回にも及ぶ城攻めが必要でした。吾妻斉藤氏の寄子を切り崩し、兵力を大幅に減らしてから攻め込みました。

 第三次岩櫃城攻略戦の時、斉藤弥三郎、海野兄弟、富澤、蜂須賀の両家老の裏切りは斉藤氏の兵力を三分の一程度にしてしましました。残った兵力は、斉藤太郎憲宗以下二百名、と斉藤入道憲広のわずかの供回りぐらいで、たまらず斉藤憲広は越後に落ちていきました。

 この事からも分かるように、当時の城攻めは大変で籠城という戦略は大変有効な物だったことが伺えます。城内に里反射が居なければ、籠城されれば城を落とすことは非常に困難だったことでしょう。

 このような500人ぐらいの勢力同士の戦が、戦国時代の初期の戦いだったのではないでしょうか。

 また、兵農未分離の戦国初期では長期戦は無理でほとんどが短期決戦、そして勝敗もはっきりしないような戦が多く有ったと思われます。

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 基本八陣

 「八陣」とは、「魚鱗」「鶴翼」「雁行」「長蛇」「偃月」「鋒矢」「衡軛」「方円」の八つの陣形のことを言う。この陣形は、「諸葛亮八陣」と言われていて日本初の軍師、「吉備真備」が初めて唐の国から伝えたと言われている。

 以下、簡単に陣形を説明する。

1.魚鱗(ぎょりん)

 この陣形は、全体が魚の形を形をしていて、一隊を鱗に見立てた陣形である。

2.鶴翼(かくよく)

 ちょうど鶴が翼を広げたような陣形である。鶴の頭の部分が対象の位置である。

3.雁行(がんこう)

 雁行は、雁が飛んでいく形をもした陣形です。

4.偃月(えんげつ)

 偃月は、別名彎月ともいわれ、三日月形の陣形です。

5.鋒矢(ほうし)

 鋒矢は、矢印の形をした陣形です。

6.長蛇(ちょうだ)

 長蛇は、一列になっている陣形です。

7.衡軛(こうやく)

 衡軛は、二列が互い違いに配置された陣形です。

8.方円(ほうえん)

 方円は全体が円を描くように配置された陣形です。

 近世の陣法書に拠れば、偃月は、前に敵後方が山などの切所がある場合に用いられていたとあります。鋒矢は、味方が少人数の時に使ったようです。衡軛は、山岳戦の時に使われていたと言われている。しかし、そのときの状況によって臨機応変に陣形は変わっていたのでしょう。

 武田信玄と上杉謙信の川中の戦いの時に謙信が、行った車掛りの陣は雁行の変形に陣だったのではないかと言われている。

 また、徳川家康と武田信玄が戦った三方ヶ原の戦いの時、徳川家康は「鶴翼」武田信玄が「魚鱗」の陣形で戦ったと言われています。通常は戦力の少ない家康側が、「魚鱗」「鋒矢」で、戦力の多い信玄側が、「鶴翼」のように思われます。これは、三方ヶ原の入口が狭く見通しが悪かったため家康軍が、陣形を整える前に信玄に仕掛けられてしまいやむを得ず、鶴翼になってしまったのかも知れません。

 いかに各陣形を図で示しました。

諸葛亮八陣

 戦国合戦備えと紛争について

 平安末期から室町の初期にかけては、騎馬武者は弓が主流でした。「弓取り」とも言われ、駿河の国守「今川義元」は「東海一の弓取り」とも言われていました。一方歩行武者は、長刀が主流だったようです。

 時は下り戦国時代の中、末期になると、槍が主流になってきます。「槍働き」などと言われ、「長柄」と呼ばれ非常に長い槍が出てきたのもこの頃のことと思われます。「三間槍」や「三間半槍」などが足軽の持ち物となって来るのもこの頃のことだったと思われます。その頃から、「槍衾(槍を構え半身になって待ち構える)」など集団戦法が始まったようです。

 紛争の原因

 地域における紛争は、

 一、境界紛争

 二、分国内の食糧不足問題

 の二つが原因になることがほとんどだったようです。「境界紛争」はその名の通り縄張争いで、自国の安全保障問題で非常に重要だったと思われ、二の食糧不足は自国の生き死にに直接関わる緊急の問題だったと思われます。戦国時代の紛争の原因は、所詮こんな事が主流だったのだと思います。

評定

 何処に領地争いがあるか、何処に兵力は派遣するか、どこから不足食料を調達するかは重臣達の会議の評定によって決められていました。

兵力の徴集(陣ぶれ)

 軍勢の編成

 一般には、大名の居城に遠い地区の寄子は大名の居城に集まり出陣します。行軍の道筋にある寄子は、其の行軍の途中で合流することが多かったようです。そして其の地区ごとに「○○衆」と呼ばれ、其の集団ごとに編成されます。上杉謙信が関東に出馬したときに参戦した武将を記した「関東幕注文」には「六柏斎藤 岩下衆」と記されており、「岩下衆」は「○○隊」に所属という風に命じられたと思います。この古文書は、一部欠損(破れている)ため完全ではないのですが、上杉謙信関東出兵の貴重な記録です。しかしその破れているところに、他の吾妻の諸氏の名もあったのかも知れません。

 当時の兵役には、自分で使う武器(矢玉など)の消耗品と三日分の食料は自己負担が常識となっていました。しかし遠征(戦国後期)など、少し遠くに攻め寄せる場合はやはり小荷駄隊を編成しなくてはなりません。小荷駄隊の編成は軍役ではなく、夫役として軍役と共に各下級領主達、郷村に課せられていました。

 夫役の人足を「夫丸」と言われていて、小荷駄隊の編成はこの「夫丸」と「牛馬」で構成されていました。ここで一番の問題は、この夫丸が、兵糧と共に逃げてしまうことです。そこで、小荷駄隊には小隊をつけ夫丸の監視と敵軍から守る役割をさせていたのではないのでしょうか。この夫丸(人足)ですが、村の紛争、落武者狩りなど行っていたようにある程度の装備は出来たでしょうから、監視の武士も緊張して監視していたことでしょう。

 野戦と攻城

 戦場につくとまずやらなければならないことは、兵員を収容する陣城を作ることから始まります。陣城は、味方の兵員を収納すると共に味方が崩れたときに踏みとどまる要となります。吾妻の地にも手子丸城に対しての陣城、仙人窟陣城が有ります。

 この陣城は攻城戦においても大変重要で、敵の後詰部隊が出陣してきたときのより所となるからである。

 一般的に城攻めは、防護施設を造り城に段々寄っていき壕を埋めたり、塀を倒したり土塁を崩したりしながら攻めていきます。これは「仕寄りを付ける」と言います。戦国時代の初期においては、城攻めは大変な労力を要しましたし、大兵力を必要としていましたので、なかなか城内に内通者がいない限り城は落ちなっかったようです。

 また、敵領地に攻め寄せるとき攻め取った後の領地支配を円滑に進めるため略奪も最低限は認めていたが、多くは軍令によって略奪は規制され破った者は厳重に処罰されていたようです。

 真田藩の藩祖真田信幸家中の下士が、百姓の娘を強姦したときにそのものを追放したという記録も有り、戦国時代の後半からこういうことに対して厳しく対処していたようです。もちろん、戦国時代の初期、中期においては当り前に行われていたと思われ、たいした処罰はなかったことでしょう。

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