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岩櫃本城(実城)

岩櫃本城(要害地区)

一の曲輪


上の図は町の案内板であるが、ここを中心に北側、東側、西側に展開し、さらに南側は吾妻川を自然の堀としている。本城部分は、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪、さらに中城、殿屋敷、切沢要害、出浦渕、橋台跡などで構成されている。この城の特徴として、一の曲輪を一番広く取っている事である。これは、地形の関係でこのような形となったとも思われるのだが、非常に珍しい。一の曲輪では、見張台(矢倉)画北側の土塁とほぼ同じ高さとなって他の部分より一段高くなっている。北、南には枡形虎口を二つ備え、しっかりと防護されている。平成26年度に発掘調査され、鍛冶工房跡、掘立柱跡、石積跡などが見つかり、鍛冶工房からは、鉄砲の弾、鎧の小札など、他からはかわらけ、陶磁器なども出土し、明らかに生活の痕跡を残す遺構が発見された。戦国時代の後期になるとこういった山城は、麓御殿を公務を行う場所、山頂御殿を城主の私的空間として使用するようになる。岩櫃城もこういった使われ方をしたのか?しかし、この一の曲輪に小さいといえども鍛冶工房が見つかったのは不思議な事である。ここの利用のされ方を、再検討をする必要が出てきた。また、石積みが何カ所も見つかった。これによりこの部分が、けっこう複雑に作られていたのが分かりました。これは、発掘調査の成果と言えます。
大まかなには、この部分が約半分ぐらいの所に窪みが有りそれが水路として利用されていたのであれば、この一の曲輪は大きく二つに用途に合わせて区別されていたのでは無いでしょうか。まず東側半分は何らかの建物、楼台があり、西側半分はフリースペース(兵士を置く場所)という風に分ける事が出来る。そしてこの城の特徴として、薬研堀の竪堀が大きく三本下に向って掘られている。この事によりこの城は武田式山城と言われているが、武田式城の特徴である丸馬出しは何処にも見られない。これは信州上田から吾妻、利根と真田の領地を見てもわずか名胡桃城に使われていたに止まっている。しいて言えば、真田式山城であるとも言えるのでは無いでしょうか。それではまず、一の曲輪の両枡形虎口から紹介したい。

北の枡形虎口



北の虎口は、下の水の手、水曲輪、志摩小屋方面へ抜ける通路側に設けている。志摩小屋、水曲輪からこの虎口へ抜ける西側の斜面には、三本の竪堀がある。これは、西側からの進入に対して設けられている。また、この虎口の北側に二つの平場がある。この事をふまえて考えると、北の平場の下からこの虎口へいたる進入路が見えてくる。その先西側の沢の先端には、石が積まれ水の手がある。この位置的条件を考えると、本曲輪西上に存在する曲輪群と堀は、まさにこの水の手を守るように配置されている。

南の枡形虎口

南の腰曲輪


本曲輪の南に存在する枡形虎口は、さらに複雑に考えられている。まず、南前面に腰曲輪を配置し、その西端に枡形虎口を設ける。さらにその前には、土塁をもった長い横堀(100m程)があり切沢からの侵入を遮断している。この横堀を見れば、二の曲輪に同じぐらいの高さの場所があり、ここから南の竪堀を横断して橋が架かっていたとすれば、この城の追手道が見えてくる。

北側の土塁

楼台跡




この上写真は、本曲輪北側の土塁である。現在は登山道通路となっているが、この土塁と同じ高さに楼台跡(下の写真)が東側に付く。おそらく井形に丸太を積んだ比較的高い物見やぐらがここにあったのだろう。ここにはちょっと気になる石の並びがあり、間違いなくここには何らかの建造物があったのが確認できる。この土塁であるが発掘調査により、小石を混ぜしっかりと突き固めていたのが確認できました。これにより、この城が東側からの敵の侵入を想定して縄張されているのが分かると思います。さらに楼台跡の南面には、小さいながら鍛冶工房が見つかり、鉄砲の弾、鎧の小札などが発見され、さらに数カ所の石積みも見つかり、この本曲輪がけっこう複雑に作られていたことが確認できました。これは大きな成果であると思います。

二の曲輪と三の曲輪



 岩櫃城の二の曲輪、三の曲輪は一の曲輪に対して狭く作られている。さらに三の曲輪は、複数の曲輪で構成されている。こういう縄張は他の城ではあまり見られなく、この城の一つの特徴となっている。まあ最初でも述べているように、これは地形的な制約でこうなったのかも知れない。急な斜面では曲輪は比較的小さくなり、緩い斜面では広くなる。まあ、当時の土木技術、戦時下での築城というのは占領したらすぐに拠点を整備しなければならないでしょうから、こんな造りになるのは必然であったろうと思う。

二の曲輪




二の曲輪は二段の平場で構成されている。最初にこの岩櫃城を調査した山崎一先生は、元々の地形であろうと結論づけている。この曲輪は北と東側に、わずかばかり土塁の痕跡を残す。この土塁の位置を見ると、この城は、東側を意識して縄張されているのが分かります。
 この一の曲輪と二の曲輪を区切る堀から一度矩形になり、したの殿屋敷の方まで伸びている。その距離、200m程あろうか。この矩形は横矢掛りで、この堀から登る敵兵にたいして一の曲輪、二の曲輪の両方からの攻撃が可能になっている。

矩形堀



このような仕組みはこの城の随所で見られ、この城の特徴ともなっている。

三の曲輪



三の曲輪は三段で構成されていて、二段目の前面には土塁の跡も見られる。三段ある曲輪をまとめて三の曲輪というのは、少々不思議な感があるが通常城の曲輪は三までしか数えないので、そのように判断したのだろう。一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪とはっきり分けるには城の構成が不規則である。少し疑問もあるが、以前よりの理解の仕方二ならいここでは詳しくは掘り下げない事とする。

三の曲輪



中城


中城とは、城と城を繋ぐ場所という意味である。曲輪の配置を考えれば、出丸である天狗の丸と繋ぐ場所とみるのが妥当か。中城と三の曲輪の境目の端に平場があり、その前面に堀切がある。その堀切を見れば、東の竪堀から堀切に向って木橋を架ければちょうど平になる。これを見れば、なんとなく岩櫃城の追手道が見えてくる。しかし、まだこの事は想像の域を脱し得ないのが実情である。ここは傾斜のままの曲輪で、用途は見えてこないのであるが他の城を見てもこのような事例もあるので、元々の斜面をそのままにしていたのであろう。また、ここは池波正太郎先生の「真田太平記」で「地露の間」があったと小説には書かれてある。本当のところは分からないが、建物があったかどうかは怪しい物である。ただ、池波正太郎先生は「真田太平記」を書くにあったて、何度もこの吾妻に地を訪れている。

中城の西格子状曲輪群


中城から中央竪堀を挟んで西側には、格子状に区画された曲輪がある。西の竪堀と中央竪堀の間で、竪堀を二本含み平場が三段から五段付く。ここの用途はちょっと不明であるが、ここに兵を置けば切沢、中城、殿屋敷の防護に有効に働く。ただしその出撃通路は不明である。ただ単に切沢方面からの敵の侵入に備えていただけかも知れない。

碁盤の目状の曲輪


殿屋敷

殿屋敷




殿屋敷は実城見学路を進み、中城を過ぎ中央竪堀を登らず下に下ったところにある。現在は果樹園となっているが、二段で構成されている。少し斜面になっているのであるが、耕作地として利用されている内に今のような地形になってしまったのか。ここは、天正三年(1575)より天正九年(1582)まで岩櫃城代で吾妻郡代でもあった海野長門守幸光の屋敷跡と伝わる。しかし、天正三年以前、天正八年以降を通じて岩櫃城の城主、城代の屋敷で会った可能性は高いであろう。また西の竪堀は、この屋敷跡の先まで伸びている。明らかにこの二段の部分を守るように掘られている。

海野長門守の伝説

海野長門守幸光は、岩櫃城を、海野能登守輝幸は沼田城二ノ丸を預かり、後北条氏の侵攻を十一年にわたり防いだのである。その功績は、大きかったが態度が尊大で他の吾妻の諸氏に嫌われていたという。まず、海野氏から昌幸に対して「岩櫃城を固く守れば吾妻の地は幸光に与える。」という約束があったが、未だ実行されずにいることに抗議した。そこで昌幸は「吾妻郡の内、鎌原、植栗、池田、浦野、西久保、横谷、湯本七名の領地以外の土地を与えるという回答を与えた。しかし、その鎌原、植栗、池田、浦野、西久保、横谷、湯本他七名の連署で「海野兄弟は、後北条氏に内通している。」と報告があった。この事を昌幸は、叔父である矢沢薩摩守頼綱に相談し頼綱は、「海野兄弟の内通は必定である。能登守の嫡男中務太夫は娘婿であるがやむなし、すぐさま討伐するべきである。」と申したので、すぐに討伐軍を派兵したのである。

 討伐軍は、昌幸の弟壱岐守昌君、倹史役は田口又三衛門尉、川原左京、出浦上総介、家来衆は鎌原宮内、湯本三郎右衛門、西久保次郎左衛門、青原勘介、長野舎人、横谷左近、池田甚次郎、植栗河内など八百騎、雑兵一千余人が天正九年十一月二十一日岩櫃城に揃い、すぐさま幸光の舘城をおそった。幸光は七十五才、近頃老衰気味で目がよく見えない。このとき佐藤、鹿野、蜂須賀、渡利、割田、蟻川、・谷・・・、二ノ宮、唐山、近岡、高山、茂手木、湯本の手兵、また町田、神保、茂手木、桑原、高橋、小淵、富澤らの一党は真田に味方して一気に攻め寄せてきた。幸光は目が見えないながら居間を退かず、家中に身を固め、座敷内に麻がらを散らさせて敵をまつ。麻がらを踏む音を頼りにやにわに十四、五人を、かの三尺五寸の立ちでなぎ倒す。残った兵はぱっと四方へ引いた。幸光はこれまでと舘に火をかけ腹十文字にかっきって、岩櫃の草葉の露と消えた。哀れなのは幸光の妻三十五才、娘十四才で、生国越後へ落とそうとしたが、敵に囲まれてどうにもならない。家の子渡利常陸介が無情にも殺害してしまった。

 昌君、田口は岩櫃城を池田、鎌原、湯本の三人に預け、その日の夕方吾妻を発って、二十一日未明、川田の郷につき、発知図書、山名主水、同弥惣が案内役に加わる。利根川の城の奉行深津次郎兵衞、塩野下野らが先頭で鰍が瀬を一度にさっとわたると、まず昌君は、小池太郎左衛門尉、上原浅右衛門尉らを使者に立て沼田の藤田、海野の両将に申し入れた。
「この度、屋形様には東上州へ御出陣、われらは壱岐守をいただき、ただいま到着、この上は沼田の勢力を整えられ、大将には海野ご兄弟に仰せ付けの上出陣」と伝えて、昌君は本丸に入る。
その後は昌君が藤田、金子、恩田、下沼田、発知、久屋を集めて協議、直ちに進軍の評議を行うので輝幸にも本丸へ参るように即した。輝幸は知謀の男、事の異常さにすぐ気づき富澤水右衛門尉をやり、いかがなことかと尋ねる。水右衛門も察知して輝幸の出座をとどめる。
「さては我が身のこと。謀反のことなど毛頭無いところへ、へつらい人のためのでっち上げか、天もご照覧あれ。」と再度異心の無いことを申し開こうと安中勘解由を本丸のはしまで出向かせてまつうち、はやりきった兵が橋を越えて挑戦。すぐ応戦した城兵が山中を橋下へ突き落とした。安中は手傷も負わず、堀を下って落ち延びた。輝幸は息子の中務太夫に向って
「たとえ百万騎が取り囲んでも、囲みを破るなど安いこと。しかし謀反の心ないわれら、迦葉山へ参詣の上申し開きをいたそう。」と、その日未明から集まった沼田信州勢は二千余名の中をさっと開門して城を出る。
取り囲む二千の兵は左右に分かれ一行をなす。歴戦の勇者海野輝幸、幸貞父子は敵兵を切り伏せ、敵一兵も近づけない。しかし最後には、親子差し違えて女坂の露と消えたのである。
昌君の家来が駆け寄り首を落とそうとしたとき、昌君はこれをせいしてこの地に土葬したのである。
 幸貞の妻と子は矢沢頼綱の娘であると言うことで助けられ、頼綱預かりとなる。娘二人はそれぞれ長女は原隼人に嫁ぎ、次女は祢津志摩守に嫁ぐ。長男は後に原郷左衛門と名乗り、その恩義に報い大坂の陣で討ち死にしている。

亘稲荷の伝説

 岩櫃城落城のおり、基国公は幼い若君と姫君があった。渡利常陸介は真田方に味方していたのであるが、若君を不憫に思い背負って逃そうとした。しかし、真田方は近くまで迫っていた。やむなく常陸介は、切沢まで逃がしたのであるが逃しきれないと思い哀れにもその場で刺し殺してしまった。それからこの渡利一族の中で、腹をやむものが多く居た。これは若君の祟りと思い、亘稲荷の横に殿の宮を立て祀ったところ祟りがなくなったという。しかし、この亘稲荷の周辺の竹、木は若君の祟りにより真っ直ぐに伸びるものはなかったという。

 また一説によると天正9年(1581年)の夏頃、海野兄弟は北条に内応しているとして逆臣を疑われた。申し開きを上田に送ったのであるが、真田昌幸は矢沢頼綱に相談の上海野兄弟を討ち滅ぼそうと昌幸の弟、信伊を大将として軍を発した。岩櫃城の城番海野長門守幸光は、家老渡利常陸介、佐藤豊後などことごとく真田になびく中岩櫃城、自身の屋敷に籠もり応戦したのである。幸光は老衰で目が見えなかったのであるが、館に籠もり、鎧に身を固め、座敷に麻がらを敷き、音のする方に三尺五寸の太刀を振るって応戦し、14,5人を倒したのであるが、衆寡敵せず最後は居館に火を放ち、腹十文字にかききって自刃した。幸光の妻(35才)、娘(14才)は越後が本国であったので渡利常陸介はその場を逃がそうとしたのであるが、敵が十重二重に取り囲んでいたのでどうする事も出来ず無情にも斬り殺してしまった。このことで、祟りを恐れて亘稲荷の横に母子を供養するために祀ったものともいわれている。

 この伝説であるが、どちらかというと後者の方が的を射ているような気がする。渡利常陸介は海野長門守の重臣であったこと、斎藤氏が真田に攻められたときに名前が出てこない事などを考えると、天正9年(1581年)のこの出来事が原因で殿屋敷の西側に祠を祀ったのではないか。現在の亘稲荷の位置、海野長門守の屋敷跡と伝わる殿屋敷の西側にこの亘稲荷がある事を考えると、後者の方が信憑性は高いと思います。

 以上、岩櫃城落城伝説の一説です。

亘稲荷入口

 ここが、亘稲荷の入口です。観光道として紹介されている 「真田道」より北側に入り、沢添いを登っていきます。

途中の道(獣道含)

 この先は、少し藪となっていて分かりずらいですが沢添いに登ります。



 この写真、左側の尾根を登っていきます。道はよく分からないのであるが、獣道程度の道らしきものはあります。登り上げると、亘稲荷に到着。

亘稲荷と殿の宮


 確認はしていないが、位置的には殿屋敷の西側、切沢に沿った尾根上にあるのでまちがいは無いでしょう。また、殿屋敷の下の少し笹藪になっている道を西に向い、水の湧いている渕が有り、その上の尾根の所がこの祠のあるところです。

 以前より、複数人から位置が分からないといわれていた亘稲荷で間違いないと思います。石の祠の中にこんこんさん1体、祠前面にこんこんさん1体が在りました。転がっていたので、直しておきました。石の祠の左側にある祠が、殿の宮(岩櫃城落城伝説基国公)、姫の宮(海野長門守の伝説)と思われます。
渡一族の方に伺ったところ、「若宮大明神」というのだそうですので殿の宮が正しいのか?岩櫃城跡の伝説は幾つかあるので、真実はどうであるか分かりません。また以前は立派なお社があったそうですが、焼け落ちてしまい現在の小さい社となってしまったそうです。この近くに石積みの崩れたと思われる跡もあるので、後日確認したいと思います。

以前の亘稲荷の跡?

切沢曲輪群

舌状曲輪



 この写真の舌状曲輪を頂点に、この曲輪群は切沢添いに展開している。この曲輪群は、霧沢の谷を登ってくる敵兵にたいしての備えだろう。この舌状曲輪は、麓御殿といわれている殿屋敷の西側から下に展開していて、霧沢添いを守るための曲輪で、殿屋敷にいたるまでのワンクッションになっている。現在はほとんどが笹藪に被われ、平らなところがあることぐらいしか確認できない。

出浦渕

石積遺構


 この出浦渕は、岩櫃城最後の城代出浦対馬守の屋敷跡と伝わる。ここに屋敷を構え、街道の監視などを行っていたのか?しかし、その平場は殿屋敷より狭く殿屋敷が暮らしの場で、ここは番所としていたような感じも受けるのである。そしてこの場所は岩櫃城跡で唯一表に出ている石積みの跡である。平成25,26,27年度の発掘調査で、何カ所も石積みの跡はでたのであるが、現在では復旧され確認できるのはここのみである。私の見たところ、この石積みの上あたりに橋台跡のある平場から続く通路があったのでは無いかと考えている。そしてこの通路は、ここを経由してさらに殿屋敷の方に続いていたと考えられる。現在の真田道といわれている道であるが、谷の縁に作られた道で江戸時代以降の可能性が高い。旧吾妻街道は、もしかしたらここであった可能性も考えられる。この事の検証は、今後の課題となるであろう。また、ここの地名であるが「でうらぶち」と呼ばれている。これは、出浦氏は「いでうら」と読むのが本当であるが、吾妻の地では「おでうらさま」呼ばれていた。そのことから、おそらく「おでうら」の「お」をはずして「でうらふち」と呼ばれるようになったのではないか。また、各地に残る出浦氏の末裔の方の中にも、「でうら」とお読みになるかたも居られるのであながちまちがいとは言えないと思います。ただし、ここに居た出浦氏は「いでうら」と呼ばれていた氏族のようです。

出浦対馬守

出自 長野県坂城市上平(出浦)地区

 出浦氏は、葛尾城主村上氏の出である。そもそも村上氏は、清和天皇より繋がる源氏で前九年の役で活躍した源頼義の弟肥後守頼清からの分れであると言われている。本拠は村上氏の本城である葛尾城の千曲川を挟んだ反対側の上平(出浦)地区の地名を名乗った一族である。NHK大河ドラマ「真田丸」に出てくる出浦昌相であるが、戦国の中頃出浦城主であった出浦清種の次男または三男、盛清の系統だと思われる。出浦氏は、村上義清と共に越後の上杉謙信に仕えた系統。後北条氏に仕えた系統。越前福井藩に仕えた系統。そして、真田昌幸、信之に仕えた系統とある。ここでは、吾妻と係わりのある出浦対馬守盛清の系統の説明とする。
 さて始めに、出浦盛清と出浦昌相についてであるが、伝承では同一人物と認識されている場合もあるが、どうも別人であるというのが真実であるというのが最近の研究で明らかになった。盛清と昌相は共に対馬守を名乗った事から、混同されたと考えられる。盛清の子が昌相であるというのが本当の事のようである。この諱は、頼幸、幸久、昌相とあり、どれが正しいのかを判断するのは難しいのであるが、元和五年(1619年)十二月十三日の発給文書には「出浦対馬守昌相」と署名があると言う事なので、昌相という諱が正しいのかも知れない。
 吾妻の地では、出浦対馬守幸久としてあるのでここでは幸久として話を進める。真田氏での出浦幸久の初見であるが、天正十一(1583年)年九月十二日真田昌幸発給文書が初見である。

出浦上総介宛発給文書


 ここでは出浦上総介となっている。あえて伝承を取り上げれば川中島の合戦の折、武田方に捉えられた。そのときは、わずか八歳であったという。その後元服し、富田郷左衛門と共に武田スッパを差配、養成する役割を武田において行っていたと言われている。しかし、幸久は真田家では家老級の人物である。小田原の役の時昌幸と共に、忍城(おしじょう)攻め出活躍したのを誤って忍び(しのび)として活躍したと伝わったのではないかという説もある。武田家滅亡の後、鬼武蔵と恐れられた織田家の森武蔵守長可に仕え、本能寺の変(天正十(1582年)年六月二日)によって信濃にとどまれなくなった長可を、信濃国衆の人質を楯に取り本国美濃へ無事に落ち延びさせたという。そのとき鬼武蔵にも涙、感謝され脇差しをもらったという。その後、天正十一年(1583年)より真田昌幸に従ったようである。通称は、「主水佐」「上総介」「対馬守」である。真田家における初見の文書では、「上総介」であるがその後の文書では「対馬守」となっている。父である盛清も「対馬守」を名乗っていたようであるのでそのことが、幸久と盛清の混同をもたらしたのではないか。当町でも「真田丸」にちなんで出浦昌相ののぼり旗を作ったのであるが、出浦昌相(盛清)と書いてあるがそれはまちがいである。出来うるのであれば、出浦昌相(幸久)としてもらいたかった。
 この盛清から続く系統は、昌幸、信之に信頼され真田家代々に重用されている。また、天正八年(1580年)の昌幸発給の文書の中にも出浦氏の記述が見え、武田氏時代から昌幸の寄騎としてしたがっていたのではないかと思われる。我が町では、出浦対馬守が原町の町割をしたと伝わっている。慶長19年(1614年)正月六日幸久は、「吾妻職方」を命じられている。これは同時に「沼田職方」を命じられた、大熊靭負尉が真田家の家老として重きを成していた事を考えると、この幸久の地位が高かったのが伺える。幸久は吾妻の統治に専念した訳ではなく、沼田城蔵米の管理や上田の検地にも関わっている事から、信之の信頼も高かった物と思われる。また、「黒印状」の発行も認められていて、信之の代理で文書を発行できた事なども考えると、真田にとって重要な人物であったのは間違いないようです。またこの幸久には、特に信之からの文書の数が、大変多いのも特徴です。
 さて原町の町割ですが、現在の原町の東の「槻木(大欅)」と岩櫃山の「子持岩」を結ぶ一線上に街道を作りその両脇を区画して、現八坂神社を鬼門としてここを迂回して町を作ったようである。町の東西には門と柵を設けたと原町誌の江戸時代絵図には載っている。そして現原町日赤の所に郡奉行所、それに隣接して信之が上田と沼田を往来するときの宿泊所「御殿」を建てたとある。ここは地名を、現在でも「御殿」という。岩櫃城城下町「平川戸」からこの「原町」への移動は急ピッチで進められ、およそ二年で完了したといわれている。その年代は慶長十七年(1612年)、慶長十八年(1613年)、慶長十九年(1614年)、元和二年(1616年)と四説あるが、慶長十九年から移動が行われ元和二年に完了というのが一番信憑性があるでしょう。その後沼田藩主の信吉に仕え、信吉が松代藩主となったときに付き従い信州へ移った。原町の町中にある「顕徳寺」にはこの出浦氏の過去帳、妾の墓などが残されている。
 「顕徳寺」は吾妻職方を給わった出浦対馬守幸久が、岩櫃城廃城と共に城下町上野宿から観音原へ町を移動したとき、町の北一町の所に奉行所を建てた。そのとき出浦氏の菩提寺として役所の東一町を隔てて円翁海老上人を開山年専念寺という浄土宗寺院を建立した。これが「顕徳寺」の始まりである。現在の顕徳寺は、「真言宗」である。元和八年(1622年)信之松代転封の時に出浦氏も松代に移った。その後大檀那のいなくなった「専念寺」は次第に廃れていく。元和から万治の頃まで四十五年間続いた専念寺であったが、大檀那のいなくなった寺は荒れていく一方であった。そこで、字稲荷城の小庵に住む僧「宥範」という真言法印が嘆かわしく思い、その頃不要となった郡代役所をもらい受け木樽氏他その他諸氏の支援のもと、領主真田信利(信直)の意向もあって、宗旨を真言宗に改め顕徳寺として再興した。
 この顕徳寺には、出浦氏の過去帳がありその写しが「原町誌」の中に載っていたので以下列挙する。
この過去帳であるが、出浦対馬守幸久から始る。

一、元和九年八月十八日  出浦対馬守幸久八十八歳卒(顕徳寺過去帳では七十八歳)
  月光院殿泰山宗智大居士
二、寛永十八年巳二八日  出浦半平幸吉 六十一歳卒
  明鏡院殿台翁玄高居士
  寛永八年より信州松代城主真田伊豆守家臣となる行年六十一是より西上州顕徳寺に納  る。
三、慶安三寅年九月二五日 出浦織部幸生四十一歳卒
  実相院殿直入一超居士
四、慶安五年九月五日   出浦新四良十一歳寂
  宝林院殿露華秋白居士
五、延宝五巳正月二十日  出浦五左衛門安豊六十五歳卒
  自覚院殿不伝元心居士
六、享保十七年七月十七日 出浦半平成悦八十歳卒
  覚良院殿関山本鉄居士
七、元文四未年十一月二十八日 出浦半平守庸五十三歳卒
  阿轆院殿輪翁英機居士
八、宝暦十三癸未年正月二日  出浦半平苗福
  金苗院殿黙翁大然居士

 伝承ではあるが原町の南町には出浦氏の墓があったのであるが、信州へ引き上げるときその墓も持っていったといわれている。この事から、信之の松代転封は元和八年であるので幸久の父盛清と幸久の墓を半平幸吉が松代へ持って行ったと言う事も考えられる。その実証はされていないのであるが、興味深い事である。出浦氏の墓、供養塔が在ったのは事実かどうか今後の検証事項としたい。

水曲輪

 一の曲輪北側に広がる梯郭式の曲輪群を、水曲輪という。この曲輪の語源は、水の手だったのでこう呼ばれていたとも、禰津曲輪がなまってねずくるわ、ねずくるま、みずくるわという風に変わったともいわれている。この曲輪群の一番下の部分には、枡形虎口らしきものがあり、その上部には一の曲輪北の枡形虎口の虎口受けの平場が二段付いている。この事をふまえて推測すれば、この水曲輪に付く枡形虎口と上部に続く二段の虎口受け、さらにその上、一の曲輪の北側に付く北の枡形虎口に続く導線が見えてくる。現在の城見学道であるが、沢通り登山道より北の枡形虎口に向うのに竪堀を三本横断しているので、この通路が城の正式道でないのははっきりしている。つまり城跡という史跡から見ると、完全に破壊道と言うことである。その辺はこの城の国指定化に向けた過程ではっきりしてくるのではないか。この水曲輪の役割は、水の手を守る、あるいは志摩小屋地区から一の曲輪に抜ける間のクッション的な役割を担っていたのかも知れない。

水曲輪

詰曲輪(西曲輪)

岩櫃城詰丸(西曲輪)

 岩櫃城一の曲輪の西上、峰通り登山道に詰丸(西曲輪)は存在している。三段の梯郭式曲輪と一段の腰曲輪を備え、北面には土塁をもった横堀、更にその横堀は下にさらに伸びその下で三方に分かれたにに落ちている。その曲輪とその北の下の馬出しのように堀を構えた曲輪は、まさにその下にある水の手と思われる場所を守るように縄張されているようである。上にある土塁をもった横堀はまさに火点と見え、そこより下に向って弓、鉄砲出攻撃するにうってつけの構えである。これは志摩小屋の上の山の斜面を抜けて、水の手に迫る敵兵を迎え撃つ仕組みだと思われる。ここを訪れる方は、よくこの辺を踏査されたい。

一の曲輪から伸びる一本の竪壕

南の竪堀

 一の曲輪と二の曲輪の堀切から南側下に延びる竪堀は、殿屋敷の下まで続く。規模はあまり大きくないが、幅3m程深さ2.5m位はあったと思われる。一の曲輪と二の曲輪の堀切からはじまり、二箇所の横谷を経て岩櫃城の一番西側を200m位下まで伸びた薬研堀の堀である。この堀は途中から岩櫃城の中央竪堀に横堀で繋ぐ。その堀は、竪堀三本と横堀を備えた碁盤の目状平場となる。現在藪で一部しか確認できないが、ここも興味深い遺構である。

碁盤の目状平場


中央竪堀


 中央竪堀は、南の竪堀と繋がり二の曲輪下側を通り、三の曲輪にぶつかり曲がりを二箇所つけ中城西側を下に走っている。この竪堀には横谷が三箇所掛かり、防護を固めている。幅3~4mで深さは4m程度はあったと思われる薬研堀である。この堀は実城の中では一番長く、下に向って300m以上伸び吾妻川の方へ伸びている。

北の竪堀


 この竪堀は岩櫃城実城の中では、一番規模が大きい薬研堀の堀である。二の曲輪、三の曲輪の堀切りの北側下からはじまり、一箇所の横谷を経て、二箇所矩形に曲がり橋台跡の下にある自然の谷間に落ち込んでいる。そしてさらにこの堀は三の曲輪の下のあたりで分岐して西北に横堀となって向い、矩形に折れて下に向って落ちている。更にその堀は、現在の岩櫃山登山道を通り南に延び、橋台跡の所と繋がる。つまりこの堀はぐるっと巡っていることになる。この堀の規模として広さ5~6m、深さも同じ位あったであろう薬研堀である。 

本丸北の枡形に続く通路


 本丸北側の直下には、枡形のような遺構がある。ここは水曲輪があるしたの方の南側である。この遺構を見ればここが枡形で南の方に抜け、北の竪堀を渡ればこの城の三の丸から本城に抜け南の枡形にも抜けられるような気もする。またここから北へ本丸東側の切岸を北の方へ斜めに昇れば、北の枡形の下の二段の平場(虎口受け曲輪)に抜けるように見える。もしこに枡形虎口があったとすれば、志摩小屋、水曲輪、本城という通路が見えてくる。

枡形虎口と見られる遺構


南へ続く通路


北へ続く通路


 上の写真を確認すると、まず一番上の写真が枡形虎口と見える。そしてこの虎口から南へ向えば三の丸前の平場、北へ向えば本丸北の枡形虎口下の虎口受け曲輪あたりへ出られるような気がします。ただしこれは今後の検証も必要でしょうし、場合によれば発掘調査も必要になるかと思います。

水の手と水の手を守る遺構


 岩櫃本城北側には、水の手といわれている石積みを持った遺構がある。この石積みの所が、水の手であったという可能性は高いと思われるがこの石積みが当時の石積みであるという確証はない。ただこの水の手と思われる場所の北には志摩小屋地区があり、その南には堀を巡らしたところがある。さらにその上には詰めの丸、つまり本城西の曲輪群があり、南には土塁をもった横堀がありそれはまさに火点にも見える。水の手の南北にこのような遺構があるという事はやはり、ここが岩櫃本城(要害地区)の水の手であったという理解で良いのではないかと思う。

水の手


水の手南側の遺構




 上の写真の一番上は、岩櫃山登山道を進み沢通りにでると見える遺構です。下の二枚は、この水の手を中心に南側にある堀の跡です。これをよく見ると、水の手を北の志摩小屋地区と南のこの遺構と詰めの丸(西曲輪群)とで守っているようにも見えます。