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岩櫃城搦手道の検証

岩櫃城搦手道の検証

 通常岩櫃城は追手を東側でバンショウ坂、搦手を切沢としています。これは、吾妻街道を中心に考えてのことだと思います。しかし、岩櫃城本城の一の曲輪へ向う追手道と搦手道を考えると、追手道への登城道は前記の通りであると言えます。今回は、一の曲輪北の枡形虎口に向う搦手道について私の個人的意見を述べさせて頂く。発掘調査により志摩小屋の虎口については、疑問符が残ることとなったが堀を埋めて虎口としたとも考えられるので、志摩小屋虎口から本曲輪北の枡形虎口に向うルートを仮定して述べさせて頂く。この意見は、あくまでも私個人の見解であると言うことです。

1.志摩小屋虎口

 
 平成25年度第一次発掘調査により、この虎口といわれている部分に 堀を埋めた跡が続いてあったことが分かった。しかし、この堀を埋めて最前面だけ残し虎口とした感もぬぐえないと思うのであえてここを虎口と以前の通りの解釈とする。また、この虎口といわれている部分の東脇には楼台と思われる高い部分も見られ、そこからは掘立穴の跡が見つかっている。
 
 前面の二重堀も、発掘調査では薬研堀と分かり通路とは断定できないがその位置を北を背に見ると折坂虎口のように見える。この虎口を、折坂虎口と考えるとこの楼台(櫓台)跡はまさに横矢掛りである。いずれにしても平沢集落からここに到るルートが存在していた物でしょう。その詳細については詳らかでは無いが、東の稲荷城から在下、在上、内野、平沢とこの岩櫃に通じる道があったことは確かで、岩櫃城の城遺構としての北端として位置づけられるでしょう。
 
 この虎口より南に進むと一段下がり、水の手したとなる。その沢添いに墓が有り、そこと反対側の水曲輪とはほぼ同じ高さである。ここに木橋を架ければ、北の枡形虎口に向うルートが見えてくる。

2.水曲輪下枡形

 
 先に紹介した志摩小屋は、祢津志摩守幸直(真田家重臣で、祢津家本流の祢津常安の系統上野豊岡藩が断絶となった跡はこの祢津志摩守の系統が本流として残る。)の屋敷跡があったと言われている場所であるがこの水曲輪も、ねつ曲輪、ねつくるま、水曲輪と変化して今に到るともいわれている。現在ではどちらに志摩守の屋敷があったかは分からない。とにかくこの水曲輪の東下、城口側に枡形と思われる虎口が存在する。
 
 
 この一段上にさらに平場が有り、そこから180°廻り斜めに北の枡形に向い登っていく。現在では道の跡は見られないがこの上、北の枡形虎口したに虎口受けと思われる平場が二段存在していることから、そこに向って道があったのでは無いか。そしてその虎口受けの平場のにめんして竪堀が下に向って伸びている。

3.虎口受け曲輪に向う斜面

 
 
 上の写真二枚が北の枡形虎口した、虎口受け曲輪に向うルートと思われる所です。道は無いが、比較的楽に上れるルートでは無いでしょうか。山城の登城ルートは、近世城郭と違い人一人が通れるくらいの広さでも十分で、防御しやすいように作られるのが通常である。この斜面を登るルートは長く、本曲輪から横矢が掛けられるようになっている。つまり、本曲輪の土塁の上から丸見えの状態です。ここを登り切れば、虎口受けの平場へと到着する。 

4.本曲輪下の虎口受け曲輪

 
 
 
 
  上の二枚の平場(曲輪)が虎口受けの曲輪である。この平場は二段となっていて、北側の竪堀に接している。つまり、竪堀を登ってくる敵兵に対しても対応できる位置にあると言うことである。竪堀は一ヶ所この平場の前で曲がり、横矢となっている。無理に切岸を登ってくれば、上と横から同時に攻撃できるよう工夫されている。これを見ると、二重、三重にして北の枡形、本曲輪を守っていることが分かると思います。

5.本曲輪北の枡形虎口

 
 
 このルートの終点は、北の枡形虎口である。岩櫃城の本曲輪には、南の枡形虎口と北の枡形虎口が存在する。南の枡形虎口はこの岩櫃城の象徴的な門があったと思われるが、北の枡形虎口もそれなりの門が存在していたのでは無いでしょうか。ただし、平成26年度の発掘調査でも確認できるが、この本曲輪では二段の石積みや掘っ立ての跡は見つかっているのだが、屋形があったという確認は出来ていない。これは岩櫃城が根小屋式山城で、麓に御殿があったかも知れないと言うことでは無いか。と言うと麓御殿は、この本曲輪から南側に延びる竪堀の先にある殿屋敷か?はたまた、天狗の丸にあったのかと想像させる。しかし、殿屋敷も天狗の丸も長年耕作地として利用されてきているので、発掘しても新たな発見は無いかも知れない。