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原町岩櫃城記録

参考文献:吾妻史料集録上巻 原町岩櫃城記録ヨリ

原町岩櫃城記録
天和三癸亥三月


 本原町岩櫃城記録表紙題上の肩に「天和三(1683年)癸亥三月」とあり又本文中伊勢町割の始の条下に「享保三(1718年)年までに六十八年になる」と付記してあり、本写本は初め原町の旧家湯浅氏(きくや)方にあり後神保氏の所有となったものである。著者は原町金剛院の法印円聖と推測できる。著者中老頃(即享保三年(1718年)五十五才)の自筆のものかと思われる。この筆跡「修験岩櫃語」よく似ているからである。天和三年(1683年)には円聖二十才にして起稿したものかどうか大方の御研究をまつ。

 この古文書は、上記の通り原町の湯浅氏(きくや)所有のものが後神保氏に譲られたものか。現在でも原町に湯浅氏(きくや)は多くの古文書を所有している。この記述はほぼ正しいと思われる。また、金剛院の法印円聖は自身の著書を多く残している。

原町岩櫃城記録


岩櫃山と言うこと 附り御城主代々の一件

一、昔当国岩櫃城主前吾妻太郎助亮と申してその器量他に勝れ、武勇の誉れ隠れなく源家の系の御武家である。その後城主吾妻四郎助亮(助光か)と申しいずれも岩櫃に在城して、あるいは吾妻傅書に人王八十二代の帝後鳥羽院の時、健久三年(1192年)春の末鎌倉将軍右大将源頼朝公当国浅間三原野の御狩の節、岩櫃山と呼ぶようにとおっしゃった。以前は高嶺山と呼ばれていた。
 当国に以前より住んでいた吾妻太郎御案内つかまつり、頼朝公三原にお越しになった。吾妻傅書に伝わる三原の内の名所旧跡あまた多し。鷹川と伝わる名所もある。時に頼朝公梶原を召し出してこの所鷹川と言うなれば雉は住めないであろうと仰せになった。時に梶原一首を詠む。

信濃なる鵜川にだにも鮎はすむ 鷹川とても雉もすまでは

といよいよご機嫌麗しく御狩をなさった。いさいは傅書にでている。さて、頼朝公鎌倉へお帰りの時大戸本宿に御守本尊薬師如来を安置たてまつり、吉岡山竪王寺と号す。

一、東鏡十八にいわく、頼朝公御上洛の時吾妻太郎助亮お供に召された。同書十八にいわく、実朝公の御前にて吾妻四郎助光弓の手柄有り、そのものはその後吾妻太郎助亮(助光か)は軍に出でて尾張国にて討ち死にしたという。詳しくは次のごとし。その時代は当国岩櫃城由来に拠れば、頃は人王八十六、四条院の世、天下の武将鎌倉将軍頼経公の御政道である。上野の住人吾妻四郎助光朝臣、岩櫃の城に御居館を構え家紋繁栄していた。その以後仁治年中(1240~1243年)の頃より岩櫃山に妖ゲツという魔性の祟り有りて助光に凶事が及ぶ。さらにいわく、妖とは天より来る化物ゲツとは地より出る化物であるという。前の吾妻伝書にいわく頼経将軍の御代に吾妻四郎助光という人岩櫃に在城、しかる後は彼山に化生住みなおも後々にはことごとく悪事をなして徘徊横領して助光滅亡した。
同伝書につたわる、久明将軍の御代に下河辺庄司住む藤原朝臣行家という人が居た。かの化生を討ち平らげそれにより当将軍久明公より吾妻の領地を拝領した。それまで下河辺に代えてその名を吾妻の在名を名乗り吾妻之庄司進と申して岩櫃の城に三代住んだ。前の吾妻太郎より後の吾妻太郎まで五代続いた。行家の子息吾妻之庄司の副幸重と申し館の内稲荷の城に住む。行重の惣領を吾妻太郎之太守藤原の行盛朝臣と言い、建武年中(1354~1337年)より岩櫃城に住す。これの後吾妻太郎という。時に貞和年中(1345~1349年)同国の住人里見兵庫守、弟里見兵衛之尉逆臣のため運命にあがないきれず御生害されたものである。

一、中代の昔は文明年中(1469~1486年)の以前にして、岩櫃殿の旗下稲荷城の要害には、大野修理の進が住していた。子孫明応(1492~1500年)の年来には岩櫃殿の婿大野主膳の正住しておられた。天文(1532~1554)以来大野新三郎正家在城していた。昔より総社石倉のあたりに知行があった。武州方面の地頭と争いがあり、大野どの打負け切腹する。八須賀伊賀の尉名字の侍七十五人一度に切腹する。前代未聞の出来事である。正家殿の霊魂稲荷城本丸に飛び帰り一社の神大野権現と奉られた。

一、吾妻太郎の言い伝え、行盛の子千王丸という人榛名山に落居してそれより安中において母方の叔父齋藤五郎梢基の養子となりて仮名を斎藤太郎と申していた。そして上杉殿の烏帽子子となった。それ故、斎藤太郎は上杉管領に属す。延文年中(1356~1360)に父の敵、里見を討って本領吾妻を知行された。
その後、上杉憲顕公より憲の字を賜り斎藤太郎憲行と名乗り岩櫃にて栄えた。吾妻太郎藤原行盛は先年の合戦に負け立石の岩へ飛びあがり自ら御首をかききって、川戸の岸へお投げになった。これすなわち首宮明神と現し鎮守である。
その後斎藤太郎憲行、嫡男齋藤越前守、次に斎藤太郎次越前太守岩櫃に居住した。頃は延文(1356~1360)、貞治(1362~1367)、応永(1394~1427)、文明(1469~1486)その後文亀(1501~1503)、永正(1504~1520)、大永(1521~1527)、天文(1532~1554)、永禄(1558~1569)と憲行の子孫代々六代繁栄した。時に同越前守行連、同基国公齋藤の御家は信玄により齋藤一族は主に向って逆臣を企て、越後国へ落ちていったようである。吾妻伝書に永禄六年に越前守は武田信玄に討負け、御家滅亡となり越後国へ御浪人となると伝わる。しばらく後、御城主越前守藤原の基国公は一念の心忘れがたく霊魂大天狗となって本国岩櫃山へ飛び移り末代の衆生を守り給う。悲しきかな一家中逆臣の輩、すなわち天罰は逃れられず三年のうちに滅亡すると伝わる。
信長記に伝わる、当国岩櫃之要害を吾妻の城といいこれは岩櫃城郭のことである。或いは、甲陽軍監に信濃に吾妻之しろとあるのは持ち廊岩櫃要害のことである。永禄年中(1558~1569)武田信玄公岩櫃城郭吾妻領を手に入れられた。真田昌幸(幸綱、幸隆)に城代を預けられた。真田殿より海野殿へ城番申し付けられた。海野長門守滋野朝臣幸光城代として十八-九年間在城する。信玄公鎌原殿へ御朱印を下賜される。文言伝

齋藤横領之間於信州海野に替地出し候然所に齋藤依為に没落去る以検地如相改赤川之南表弐百貫文之所任先伴の旨に可被致知行者也
追而赤川熊川之山も同前

信玄御朱印
年 号 月 日

鎌原越前どのへ

一、沼田記に言う、天正七年(1579)卯八月武田勝頼公の時に沼田城を手に入れ信州真田安房守昌幸城代として預け置く。その年沼須の郷に要害を構えこれを移すと伝わる。ただし甲陽軍監には勝頼御領分になり沼田入内に信州先方西條治部少輔を置いたという。ただこれは異説である。

一、沼田記にいわく真田より海野能登守、金子美濃守、渡部左近を城代に置く。その頃勝頼甲州にて討ち死にした。時に海野逆臣の疑いがあり、昌幸の弟真田壱岐守信(尹カ)昌沼田野城代においていた海野能登守を討ち取り真田知行とする。能登守が兄は吾妻にて岩櫃の城主を相務め海野長門守幸光一族を天正十年(1582)午の八月真田安房守の方より討って吾妻の城乗っ取る。
それ故に昌幸の叔父矢沢薩摩守頼綱を岩櫃野城代とした。故に矢沢薩摩守屋敷どころを矢沢曲輪という。矢沢殿は吾妻と沼田の城代となり岩櫃城主各十五六代慶長年中頃まで四百二十余年の間なり。天正十年より真田知行となる。深井但馬、池田佐渡、出浦上総、同対馬守、大熊靱負、羽田筑後のものに真田信幸より下知として慶長十八((1613)九カ)年に岩櫃城を破却する。真田伊豆守信幸御家老出浦対馬守という奉行吾妻郡中の諸司代である。岩櫃城の次第は大方は以上のようである。

一、昔岩櫃五代の城主吾妻太郎の太守藤原の行盛の時代、人王九十三代嘉元年来(1303~1305)の中昔平川戸の町内において吾妻殿根元の市を立て初め往古代々慶長十九年(1614)甲寅までは毎年六日市日盛んに三百有余年続いた。
天正十二年(1584)真田昌幸より市場右京の進に御書付下され問屋をした。しかるところに慶長十九年(1614)甲寅年原新町を立て岩櫃城下平川戸を引っ越し原町にて昔のごとく毎月市を立てる。ただその後寛永九年(1632)壬申年又脇の宿にて六日市を立てる。
両町に市が立ちその町の人々で争論があった。寛永年中(1624~1643)真田河内守殿知行の時富澤外記という人が吾妻郡中の奉行を致し右二箇所の位置を月番にすると裁許された。昔の言い伝えに武州熊谷の市と上州岩櫃の市は町が出来たときから始ったという。


一、伊勢町之事、古をさかのぼるに人王百十一代慶安三、四(1665、1651年)年庚寅辛卯 に町が始る。享保三(1718年)まで六十八年になる。

一、斉藤越前守岩櫃に在城する。
一、新羅左衛門助大戸に在城する。
一、武藤刑部左衛門岩井堂の城に居す。
一、三河守尻高在城。
一、長尾左衛門入道白井在城。
一、永田伊賀守西中之条在城。
右、吾妻七旗と言われていた。

一、原町岩櫃城主斉藤越前永禄六(1563年)亥年羽尾左衛門殿内妻にて田村甚右衛門、高野半六欲心が出てだまし討たんとするところ、迯落田村矢をつがえたところ越前大変驚いた。二人前後にいたので、そのまま越前殿越後に逃れ牢人した。

一、そもそも吾妻郡を信玄公が手に入れたときの事。羽尾跡継ぎ、海野入道嫡子跡継ぎ亡くなる。鎌原大和、西久保治部、湯本源次郎、山元九兵衛、横谷惣左衛門、その五人信玄公に味方したので、彼ら羽尾十郎、海野能登守、沼田横塚にて切腹、海野長門守殿は岩櫃にて切腹、子息三原作重郎と名乗り伊豆守殿へ二百石にて仕えた。

一、永禄三(1560年)申年高野半六、田村甚右衛門越前守より相談致し、西中之条城にいる永田伊賀守の所に両人出かけて対面し色々だし斉藤殿亡き者のとなったと謀りとがりやのふもとまで伊賀殿を引き入れ、そのところにて前後より打ち殺した。伊賀殿内室女性であったが、気丈にも嵩山へとお移り理なった。家来蟻川図書と言って大変剛の者御前へ付き落城の時図書の働き騎馬十一人まで切り落としその身難なく高井太郎左衛門の馬を奪い取りその馬に乗り下野佐野へ逃げる。

一、三島浦野利右衛門孫平兵衛、進言公のの旗下に着き、永禄六年(1563年)岩井堂富沢伊予守、割田下総、蜂須賀伊賀守他七人甲州方に付いた。信玄公より海野長門守を岩櫃の城代に任命された。

一、大戸新羅左衛門も降参して信玄公の旗下となった。

一、永禄七年丹下山口織部、山田興惣兵衛、青山湯本九左衛門、厚田一場太郎左衛門、中之条鹿野志摩、中沢越後、平割田隼人、村上富沢治部、折田佐藤豊後、山田高野半六

一、岩井堂城主武藤刑部左衛門弟村上掃部跡継ぎ、沢渡富沢出羽守三男治部跡継ぎ村上に在ったという。武藤殿甲州方へ逆臣し手引きするによって、武藤殿かかる二名を二太刀に斬り殺し信玄へ注進する。これにより信玄公より御朱印が下された。

今度之忠信に依於上野之内九拾貫文之所出置者也彌可忠切者也
永禄七(1564年)丑年三月十一日          □井山城守奉之
富沢治部少輔殿

一、治部少輔駿州長篠にて討ち死にするによって、甲州より富沢伊予守、唐沢玄蕃を岩井堂城代にする。これの御状甲州より届く。

一 書申遣候今度治部駿州長篠大手前にて被打申候弟右右衛門尉を治部跡目に可指置候為  其如此申遣候恐惶謹言
天正三(1575年)亥年六月二十七日        真田壱岐守
富沢出羽守殿
之により左衛門尉を治部跡目にした。後に平方右近、野村彌平次、飯塚出雲三人にて酒盛座敷にて左衛門尉打ち殺し、次に岩井堂に押しかけ富沢伊予守を鉄砲にて打ち殺した。唐沢玄蕃は城を逃げ出し、右近、彌平次追いかけたが飯塚主水はじめ市城の者が防いだため逃げ延びたそうである。


一、尻高三河守は古城に在城していた。嫡子源次郎尻高に在城。彼源次郎妹白井長尾権重郎内室になっていたので、長尾殿小田原へ鞍替えしたので河原田又右衛門、林新助二人尻高逆臣ある事を矢沢薩摩守殿へ報告、よって富澤豊前守、割田下総、同興左衛門、同隼人、山田興惣兵衛、植栗安芸守、神保加賀守、渡部茂右衛門、合わせて都合九十人古城に押し寄せた。三河守城は尻高に落ち延びた。下総、隼人追い打ちをかけ小塚にて討ち取った。豊前、興惣兵衛二人は八幡の要害へ攻めかかり追い落とす。富澤豊前、山田興惣兵衛は八幡の要害にとどまる。古城は五郎明神の方より浦野平兵衛、蜂須賀伊賀、田村雅樂之尉その他都合百人鉄砲を撃ちかけたので、城中の人々川西のがけへ飛び降りたところを渡辺茂右衛門十六才二十数多の役を渡辺茂右衛門に任せ、富澤豊前八幡の要害に尻高の押さえとしてとどまらせた。尻高源二郎は会津に落ち牢人となった。

一、中山地頭中山右衛門介津久田の要害にて討ち死にの後、家老の阿佐美左衛門が中山を預かった。

一、中山城代阿佐美左衛門小田原へ心変わりした事を金井外記 甲州へ注進し、矢沢薩摩守大将で、浦野平兵衛、富沢伊予守、割田下総、植栗安芸守、神保加賀守、蜂須賀伊賀守他総勢五百人にて阿佐美左衛門をせめ則左衛門切腹、その代わりを中山右衛門之尉を城代とする。天正十七年(1589年)に命じた。天正十八(1590年)小田原滅亡になったため、赤見山城守も真田伊豆守殿へ三百石でお召し抱えになる。

岩井堂 富沢伊予守  三島 浦野平兵衛  山田 富澤豊前守  沢渡 唐沢玄蕃
沢渡  富沢出羽守  横尾 割田 下総  蜂須賀伊賀

右吾妻七騎   その他


一、折田  佐藤 豊後   一、反下  山口 織部   一、四万 山田興惣兵衛
一、青山  湯本九右衛門  一、中之条 鹿野 志摩    一、   中沢 越後
一、    植栗 安芸   一、    神保伊賀守   一、   割田 隼人
一、植栗  伊能 采女   一、厚田  一場太郎左衛門 一、高津 割田 興左衛門一、横尾  割田 興兵衛  一、中之条 伊能 左京   一、   二宮 勘解由
一、大岩  関 勘解由   一、嵩山  富沢 主水   一、折田 大河原 下総
一、澤渡  関口太郎左衛門 一、湯原  田村 新右衛門 一、四万 島村 茂右衛門一、五反田 田村 雅樂之尉 一、中之条 鹿野 右門佐

別而奉公祝着之至之間本五貫弐百文少地之所差添出置者也

 天正十年(1582年)壬牛八月七日                幸朝 印

田 村 文 助 殿

今度留主中別而相稼之由候條鍛冶一跡丹下下之内松村喜家貳メ文如此出置向後彌奉公候はゞ可令重恩者也

 天正十年(1582年)壬牛九月三日                昌幸 判

山 口 善 助 殿

一、京都御普請に付御供被仰付九乄文此永出置候

 天正十三年(1585年)乙酉七月朔日               昌幸 御朱印

田 村 雅 樂 尉 殿

今度知行御改鶴本三貫文之所八貫廿文雖令検使年来奉公之間如前々出し置彌向後可抽戦功候

天正十八年(1590年)寅十二月九日               北能登守 奉之

山 口 織 部 殿

今度知行御改候所本五貫弐百五拾文之所所為吾妻郡之内と九貫弐百文難検使年来奉公之間如前々出置候向後可抽戦功者也

天正十八年(1590年)寅十月廿日                奉之 北能登守
                                信幸 御朱印

田 村 雅 樂 助 殿 

今度唐入に付為重恩於吾妻四拾貫文之所出置候猶依奉公可新恩者也

文禄元年(1592年)壬辰正月二十八日              奉之 出浦上総
信幸 御朱印
田  村 雅 樂 助 殿       木 村 渡 右 衛 門

一、尻高三河守殿家来塩原源左衛門右治部と申伝候源左衛門は横尾八幡之城主御座候

一、三河守殿は右武田とあり一説は鳥見とあり武田摂津守と御朱印被下候其節御奉公取りたる者には伊能市之助に被下候

一、伊賀守始は兵吉殿と申五十(千石か?)石にて小河に御住居明暦三年(1657年)丁酉真田伊賀守と申沼田御城主となる。元和元年(1615年)辛酉羽州山形奥平小次郎殿へ御預けに相也申候。二十五年在城也。