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岩櫃城要害地区の北端志摩小屋

志摩小屋地区


 ここは、岩櫃城要害北端と思われる場所です。前面に空堀が二本あり、更にその北には自然の沢がある。この地区の西側の林業事務所の作業道の少ししたより、11段の平場が平沢集落の方へ梯郭式に伸びている。

志摩小屋の平場

 ここが、城としての遺構の最北端では無いだろうか。個々の中間の位置には楼台の跡と思われる四角く盛られた一角があり、小さいのであるがそれなりの建造物があったと思わせるに十分な姿をかもし出している。

楼台跡

 その前面の堀は、二重に掘られているのであるが、最初から二重堀として利用していたのか、あるいは一本の深い堀を掘ろうとして、工事途中で中止したものかは分からない。これは、そのさらに北に位置する北側遺構の堀などの構造物がほぼ完成していたように見えるので、二重堀という設定で構築されたのかも知れない。

堀の上部


 一見二重堀にも見えるが、堀かけの堀という見解を述べるかたもおりはっきりは分からない。通常は、深く大きい一本の堀を設けた方が戦略上は有効と思われるので、堀かけの堀かもしれない。

 その堀の上部は、さらに山の方へ突き刺さるように伸びていたかも知れない。この作業道の上を見れば浅いへこみが見られ、それが堀の跡だったのかも知れないと想像させる。
この曲輪の中段の所、そこには虎口と思われる所も存在しているのであるが、発掘調査によりその虎口から志摩小屋の内側に向って埋められた堀が発見された。これはどういうことか。堀として使用され、岩櫃城廃城の時埋められたのか、それ以前に途中まで埋められ虎口として使用していたかについては分からない。いずれにしても今後の課題という事だろう。

中段の平場にある虎口


 この虎口であるが、前面東側に楼台跡と思われるところがあると言う事から虎口跡と言われてきた。しかし、発掘調査によりこの所から南に向って切岸添いに薬研堀が続いていた事が分かった。この事を考えると、虎口という解釈には疑問が残るところである。

祢津志摩守幸直


 岩櫃城跡の志摩小屋地区は、この祢津志摩守幸直のこの祢津志摩守幸直の官途名から来ている。

祢津氏略系図

 

 幸直は、式部、介右衛門、志摩守を称した。もちろんこの祢津氏は、傍流ではあるが滋野三氏の祢津の一門である。真田信幸の乳兄弟であったという。ゆえに早くから真田に仕え、妻は吾妻郡の国衆海野能登守輝幸の嫡男幸貞の娘である。幸貞の妻は矢沢頼綱の娘であるので、より強い血縁関係を真田氏と持っていたと言えるだろう。祢津の嫡流は次男常安(政直)がついだ。この系統は武田家が滅ぶと上杉に従い、その後最終的には徳川家康に仕えた。天正十八年(1590年)徳川関東移封にともない、上野豊岡(現高崎市)に入部した。その後子息信政が慶長五年(1600年)加増され一万石となり、豊岡藩が成立した。その後、政次、信直と続いたのであるが寛永三年(1626年)信直が無嗣断絶寛永三年(1626年)に改易となる。これで祢津氏は、真田家の家臣となった幸直の系統のみとなってしまった。この豊岡藩は、鷹匠として祢津流として今に伝わる。常安の嫡男月直は天正三年(1575年)の長篠の戦いで討ち死にし、常安の弟信忠の子昌綱が常安の養子となり祢津の嫡流をついだ。昌綱の子信秀は真田昌幸の一族、小山田茂誠も娘を娶ったことなどから昌幸から大事にされていた事が分かる。一方常安の次男、信政に繋がる系統は前に説明した通り上野豊岡藩である。常安の弟信忠次男がこの岩櫃の志摩小屋に関係する志摩守の系統である。志摩守幸直、主水幸豊の系統は、信之上田、松代転封の後も沼田に残り、沼田藩家老として現中之条町、東吾妻町などを領地として戦国で仕えたという。おそらくこの志摩小屋の由来は、祢津志摩守幸直の舘があった所と言う事だろう。幸直の嫡男主水幸豊は、慶長二十年(1615年)大坂夏の陣で討ち死にを遂げている。なほ、幸豊の子宮内は、沼田藩主真田信直に仕えたという。わが吾妻には、祢津の本流から分かれたと思われる、根津を名のる家がある。そのもとは古谷地区にある、巌下山潜龍院が深く関わっていたでしょう。 

平成25年度 第一次発掘調査 志摩小屋地区

 志摩小屋地区の虎口跡と言われている周辺の発掘調査を、東吾妻町教育委員会でとりおこなった。平成28年2月26日、教育委員会で「東吾妻町史跡 岩櫃城跡 平成25年度 第1次発掘調査概要報告書が発行となりました。その概要を、ここに説明したいと思います。
 第1トレンチ、第2トレンチ、第3トレンチ、第4トレンチと四本のポイントを設定し、発掘調査を行った。トレンチとは、発掘する場所を細長く設定した場所でそこを基準に発掘していく。関東の多くの地域では、関東ローム層まで掘り下げる事によりそこに遺構があるかないかがだいたい判明するのである。

第1トレンチ

幅3m、長さ14mにわたり西側の物見と思われる所から南に向って設定された。掘っ立て建物と思われる掘立穴の跡、柱穴、土杭等の跡が見つかった。土杭の跡は、おそらく柵列であろう。掘っ立て建築があった事を裏付ける柱穴も見つかり、完全な形にはならなかったものの、ここに建築物が有ったのがうかがえる。柱穴の深さは20cmぐらいであったので、簡易な掘立建築であったのでは無いか。柱穴については、物見の後であろう。

第2トレンチ

 このトレンチについては、虎口と言われているところの前面の堀のところを掘削している。地表面上の観察では東側より進入し、志摩小屋虎口を折坂として縄張されているように見える。しかしこの部分の掘削により、堀がこの部分も二重にあり薬研堀となっていた。通常城の進入路に向う堀は、箱堀が使用されるのが通常であるので、薬研堀であったと言う事は敵を遮断する目的で作られたのであろうから、今まで虎口と言われているところが虎口であるがどうかの疑問点が発覚している。その回答は、第4トレンチで発見されているので、第4トレンチの所で申し述べたいと思う。

第3トレンチ

 このトレンチは、第1トレンチの東側に設定され幅3m、長さ17mで、設定された。ここからは、掘立建物3棟、柱穴7基、土杭3基、溝1条、畑畝などが確認されたようである。このトレンチの東側では、近世または近代に耕作地として利用されていたようで、このような場所からは中々中世の遺構は現れずらい。この部分でも建物は掘立建築であったのが分かりました。ここの名称は志摩小屋と呼ばれている区域であるが、少なくとも祢津志摩守の舘はここではなかったと言う事は分かりました。というのは、通常、舘の場合礎石群が出てきてしかるべきであるがここでは発見されていない。

第4トレンチ

 第4トレンチは、第3トレンチの東端に挟むように設置され南側では薬研堀の跡、北側では矩形の石積みが発掘されている。この南側で発掘された薬研堀が前述した虎口跡と関係してくる。堀は幅4.5m~5m、深さ2.8mの深さである。進行方向に対して断面にトレンチを掛けたのであるが、推定するとその西延長上には虎口跡と言われている場所と続く。この事と第2トレンチの堀が薬研堀で会った事を考えると、この虎口跡と言われているところは虎口では無い可能性が非常に高くなってきている。むしろ、北側で見つかった石積みの所に木戸があった方が高い可能性が出てきた。この辺は今後の課題となるでしょう。

全体の感想

 この発掘で分かった事は、この部分は城としての防護を中心に縄張されれ、志摩小屋の名前の由来になっている祢津志摩守の舘跡はここでは無いという事である。これは結論づけても良いと思います。むしろもう一つの伝説である水曲輪、「ねづ曲輪」→「ねづぐるま」→「水曲輪」という風に変化していって現在の水曲輪となったと伝わる所の方が可能性としては高まったと言っても良いような気がします。この今回発掘した沢を挟んで反対側の曲輪には、切岸の上に20cm~30cm位の土塁とは言わないまでもそれらしい遺構も残されている曲輪が存在している。教育委員会の発掘調査もまだ何回も続くでしょうから今後の成果を期待して行きたい。時間をかけて岩櫃城跡の詳細を解明していってもらいたいものである。

東吾妻町埋蔵文化財発掘調査報告集 第23集

東吾妻町指定史跡
岩櫃城跡
平成25年度 第一次発掘調査概要報告

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