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加沢平次左衛門

参考文献:加澤記附羽尾記(上毛郷土史研究会業行刊)
     加沢記釈文(脇屋真一著)
     新釈加澤記(郷土文化研究会:田原芳雄著)

寛永5年(1628)~元禄5年(1692)

 沼田藩主真田信利の祐筆。寛永5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)沼田藩士。藩主真田信利(のぶとし)に祐筆としてつかえ,大笹関所番人などをつとめる。元禄(げんろく)5年5月28日死去。65歳。本姓は小林。
出自は中之条町の矢沢家(旧小林)、ここにも平次左衛門の墓がある。いったん小林家を継ぎ、加沢家には夫婦養子としてきたようである。
 天和元年に沼田藩は江戸両国橋の橋材納入遅延と圧制を咎められ改易となるが、平次左衛門はその時の勘定役七人の一人であった。翌年には幕府の命令で「天和元年沼田領品々覚書」を記して提出している。「加沢平次左衛門覚書」、一般に「加沢記」と言われている書の筆者である。この書は、沼田藩改易後川田に隠棲し完成させている。この加沢記は、二次資料であるが、戦国吾妻戦国の様子を記した貴重な資料となっていて、当時の様子を研究する貴重な資料である。


 加沢平次左衛門の墓は上川田にあり、角形の墓石で正面に『覚誉皈本居士』『覚誉持本大姉』左側面に『申五月廿八日 加沢氏墓』の刻銘がある。

 また、中之条町の矢沢家の墓所にも矢沢薩摩守の供養塔と共に平次左衛門の墓と言われている墓石がある。中之条町の矢沢氏も矢沢頼綱の末裔と言われているが、詳細は詳らかでは無い。

加沢記

一の巻 真田氏の出自


 海野氏は清和天皇(第五十六代)の第五皇子貞元親皇より出た滋野氏を基にしている。正平年間貞元親皇は勅命を受けて関東に下るが、そのとき滋野の姓を戴き、信濃の国司に任命された。その位は四品、治部卿である。信濃の赴いた滋野氏は小県郡海野の勝に住む。法名を関善寺殿と言い、真言宗秘密の道場を建立している。そして海野家では毎年四月と八月の四日を「白鳥」と呼んで祭りをしている。新皇には男の子が一人有り、海野小太郎滋野朝臣幸恒と命名されて海野氏が始まる。ある時幸恒は三人のわが子を連れ、武石山中に狩りに出かけた。そして千曲川のほとりに立って、領地を三人に分けた。長男を海野小太郎幸明、二男祢津小次郎真宗、三男を望月三郎重俊といった。法名を長男から前山寺殿、長命寺殿、安元寺と呼ばれ、それぞれ真言宗の僧を招いて寺院を建てている。

 その後の幸明の系図を見ると、孫が幸盛でその弟が下屋将監幸房である。この人は吾妻郡三原という所に住んで、鎌原、西窪、羽尾の三氏を出している。太郎幸盛の方は玄孫が海野信濃守幸親とその弟海野弥四郎幸広で、二人は寿永二年に木曾左馬頭義仲の幕下には入り、平家追討の宣旨受けると備中国水島に駆けつけ、追手の大将を承るが、その年閏十月一日に戦死している。その功により嫡男は左衛門尉を襲名して海野幸氏となる。

 その子が信濃守幸継(中善寺殿)で、六人の子があり上から海野小太郎幸春、会田小次郎幸元、塔原三郎氏広、田沢四郎氏勝、狩谷原氏重、光六郎氏頼と名乗る。この六人はいずれも信州で地頭となっている。また刈谷原に三子あって、氏治、氏陸、氏截と言う。

 長男幸春からずっと下って十一代に兵庫守幸則があり、その長男が幸義、二男が岩下豊後守と言う。幸義三世の小太郎は、鎌倉公方足利持氏公から生前の名の一時をもらい持幸となる。

 持幸から三代の地に海野小太郎棟綱が現れる。この頃になると都も地方も不穏で、どこも兵乱が絶えない有り様となる。そこで棟綱は小県郡砥石と上田原に城郭を築く。棟綱には四人の子があり、長男は海野左京大夫幸義、二男を真田弾正忠幸隆、三男を矢沢右馬介綱隆(後の薩摩守頼綱)、四男を常田出羽守俊綱(武石右京進)と名乗る。棟綱は領地を譲るが、二男幸隆には真田、小日向、横沢、原の郷、荒井在家三百貫文の土地を配分し、臣下には矢野、川原付けて与えた。幸隆は武運長久と子孫繁栄の吉相が見えていた。まず真田村に甲田と言う家並みを整えている。甲田はこの郷の鎮守、白山台権現が鎮座する地であった。

 ここで白山大権現の縁起というのは、我が国の元祖にあたる伊弉諾尊をご神体として、これを白山大権現と言って敬ったのである。

 これは信州浅間山、吾妻屋山の権現と一体をなす物である。真田の白山は信州の鎮守の里宮で、上州では吾妻郡三原の郷に同じ里宮がある。その二つとも幸隆の祖先貞元親皇が建立した物と伝えられている。幸隆はこの地を領有すると、鎮守をあがめ、自分は由緒のある家名を相続したことを名乗ってから末の繁栄が約束された。

 幸隆には五人の子があり、長男は真田源五郎であり、後源太左衛門信綱となり二男は兵部介信貞、三男を喜兵衛尉昌幸、四男が隠岐守昌君と名乗った。幸隆は文武両道に勝れていた。当時、公方は義□公の時代で、公方の命令に従う物もなく、国々は兵乱の時代となっていたおりである。幸隆は所々の城に攻めかけ、合戦には勝利を収めないことはなかった。

 其の頃、信濃国では、数多くの地頭が支配していたが、なかでも村上義清や木曾義昌、諏訪頼重、小笠原長棟らは、かの国の頭領で、彼ら四大将は領地争いを続け、大身は小身をかすめ取り、小身は細工を労して他の領地を奪おうと、戦を挑むようなときであったので、滋野の一族はあげて村上殿の幕下に降伏し、人質を渡しておいた。

 二の巻


 祢津宮内太輔覚直の一族に大塚掃部介幸実という人が居た。元を正せば祢津とは同族借谷源五郎の子孫で、そのとき水内郡大塚で地頭だった。幸実は村上頼平の頃から無二の村上の幕下であった。その年諏訪大社の参籠しては諏訪頼重に対面するなどの行動により、村上義清に怪しまれて、領地を没収されてしまった。

 幸実は小県郡に身を引いて浪人となる。これを見て村上義清は、この際滋野一族を退治しようとする。覚直はこれを聞いて、事態は容易ではないと村上方に先手攻撃をかける。まず葛尾を攻めることとなるが、海野幸象が惣領家にあたるのでこの事情を説明した。幸象は使いのおもむきを聞いて、「絶好の機会である。近年村上に横取りされて無念に思っていたが、どうしようもなく無力で是非もなかった。今こそ我にとっても好都合、舎弟幸隆は知謀の勇姿であるから意見を戴くこともできよう。」と、小草野孫右衛門を真田にやる。幸隆は上田まで出る。-そこに矢沢右馬介殿も来て、一族みんなで話し合った。

 天文十年二月下旬のことである。右京大夫幸義、宮内太輔覚直舎弟美濃守信直は二手に分かれ、先陣は弾正忠幸隆、本陣と前備矢沢右馬介、鞠子藤八郎、村上土佐守、後陣は小泉常田と定め、六連銭の朽葉四方の大旗に州浜の紋章、白地に日の丸を染めた大旗を真っ先に立てて進み、その勢力合わせて二千余騎が、葛尾へと押し寄せた。

 一方義清のかねてからの用意の通り、高梨子信濃守を先陣に立て、石畳の紋を染めた大旗をかざして二千余騎の軍勢。義清は遙か後方に下がって進軍し、上田と榊の間に陣取ると、千曲川のほとりで備えを固めた。

 前の備えは室賀八代の率いる一党千五百余騎、後ろ備えは大室、清野、望月、覚願寺、小笠原、西条、下条4、松尾、芋川らが、また麓の備えは綿内、食品、草間、寺尾、赤沢、波浮、雨ノ宮、座光寺、八幡社主らが、後方に下がって、小丸山の方に陣を敷く。その軍勢はおよそ二千余騎、都合五千四騎が轡を並べて静まり替えている。

 先鋒幸隆は、敵陣丸山の状況について幸義に仰せになる。「村上方の備えを見れば、鶴が翼を広げたように兵を並べ、我が軍を包み込む配備を整えている。わが方の攻めをを待つように思われる。わが方が少しでもたじろぐようであれば、決って配備を崩し押し寄せるに相違ない。そのときはかねて山陰に隠しおく祢津の一勢で持て後を遮り、敵を討ち取ることができよう。我はそのときを見て、森の木陰から回り込み、義清の旗本へ攻め入り、有無勝負を決しよう。」と、軍法を定めあって備えをとき姿を消した。

 すると案の定高梨子はひるがえる旗の動きに戦況有利と見て、ホラ貝を吹き立てたので、戦陣後陣の兵はこの合図に「おう」とときの声を上げ、もみにもんで攻め立ててきた。大将幸義は辛抱強い方ではない。程なく引き返すが、村上はまだ本備えを固めて動かない。こうして幸義が誤算に気づいたときはすでに遅く、その結果高梨子と戦う羽目と成、激しく交戦してひとまず高梨子を山上に追いやるが、そこに後陣に回っていた室賀八代が、新手を繰り出してさんざん攻め込んできた。

 幸義の武運はそれまでであった。乗馬が堰溝に飛び込み、前膝を突き当てて倒れた。幸義は馬の後ろにどっと落ち、起き上がろうとしたが、多勢に重なり合って槍ぶすまを突き当てられ、脇下から乳のあたりを突き当てられた。

 幸義はこれまでとてにした槍を投げ捨て、太刀を抜き室賀の家臣芋川に挑み、真っ二つに切り裂いた。この勢いに敵はたじろぎ寄る者もない。そのうち見方の軍勢が駆けつけて敵を甥は追おうとするが、勝ちに乗じた敵兵は槍を突いて攻め立てるので、とてもかなわない。

 舎弟右馬介綱隆は、目の前で兄を討たれては末代の恥なりと高々と唱え、馬から飛び降り、海野重代小繋松の作と伝わる手槍をひっさげて立ち向かう。家臣の庄村、上原、山越、神尾も続いて、一気に攻めまくる。このとき綱隆は武勇無頼若者盛りであった。たちどころに付近の敵十三騎を打取って、気勢を上げたが、幸義はむなしく事切れていた。

 それより民家から板戸を借りてきて、春原惣右衛門、川原惣兵衛両人が遺体をかばって落ち延びた。

 一方山陰に隠れていた宮内太輔は、見方が敗れていた様子を見て幸隆に合流すると、一気に義清の本陣に押し寄せる。そこで幸義戦死の報を受けたのである。我ら生き残っては末代までの名折れと覚直は祢津相伝の橋返りの太刀を抜き払い、幸隆は、棟綱公より賜った三尺五寸もある厳物造りの太刀を真っ向からかざして、一文字に義清めがけて内かかっていく。

 これをみて、別府、小林、三宅なども続いて攻め立てる。村上方は一時危うく見えた。部下覚願寺信清は義清を討たせてはなる物かと、かけてきて立ちふさがり、綿内、大室、食品らの五百騎もこれに加えて互いに火花を散らせたが、夕暮れともなってどちらとも引き上げた。その日の戦いは終わった。幸隆は味方の軍勢を集める。その損害は一千余騎が戦死、残った大半も傷を負っていた。

参の巻 上州へ


 長野の案内で上野国緑郡平井にお出ましになった管領は、信州の戦陣で武勇誉れ高い真田幸隆に初対面したいと、幕下の大身ども、小身どもを招集して、書院で対面することとなった。

 書院は黒書院造りで上段には、釣り簾を掛け、左右の深紅の大房を巻下げてある。その内の座敷には高麗べりの厚畳を敷き、またけせんを上べりに掛けている。管領憲政はかけ烏帽子をかぶり直垂を着けておられる。

 太刀持ちは熊谷主殿也という。床の掛け物には牧溪和尚の墨絵の観音を掛け、卓上には鶴亀の香炉を置いて香を焚く。座に着いた大名には、左の座に白井城主長尾左衛門平憲景、その次の座には国峯の城主小幡上総介、同尾張守が並び、右には長野信濃守藤原顕重と次は白倉三河守、児玉党倉賀野淡路守、高山遠江守、深谷兵衛尉である。

 その他の面々にも挨拶をして、松の間の座敷で馳走になって小幡の取り次ぎでそれぞれの大名に面識となって帰宿した。

 それから幸隆は、嫡子源五郎信綱に「関東管領上杉憲政は、信州で聞いていたよりうつけ者だ。側近である上原、須賀の言いなりである。関東の諸将あれども危なっかしい物である。」と感想を述べた。

四の巻 村上義清、幸隆の武略に倒れる


 幸隆は武田の配下となって根城(真田の郷)へ戻れたが、義清を安穏としておくのが無念で、日頃から義清と一戦し、一度でいいからかって兄幸義の供養をしたいと心を燃やしていた。

 ある日老臣ではあるが、武勇知謀勝れた小草野若狭守、春原(すのはら)惣左衛門の兄弟を呼んだ。

 兄弟の連れた侍達の居並ぶ前で、幸隆は仰せになった。

 「その方達の祖先は武蔵国の住人、遠くは宣化天皇の末孫にて丹治の姓を受け、熊谷、勅使河原、安保を併せて丹党を名乗りしが、熊谷の門葉分かれて草下、熊谷、春原の兄弟三家と相成った。世の中の浮沈に合い、関東より当国に来て以来、わが祖先に属して代々家臣となる。おのおの存じての通り、我らは義清を討って、亡き左京大夫殿の供養に封じ奉ろうと、度々合戦に及びしも、あいては大名なれば容易に討つことかなわず、年月を送るは無念至極。その方ふたりの命を左京大夫殿への恩義に報いるため、余に預けてもらいたいがいかがか。」

 と、すると兄弟は即座に

 「恐れ多いこと。我ら不詳の者に候えども、義清は主君の敵、その上君の仰せに、いかに背き奉るべきか。」

 と答えられた。

 それを聞いて幸隆公は機嫌良く、それならば手立てをつくして討つのが上策と、兄弟郎党に一計を授けた。春原兄弟は仰せに従うこととなった。

 ところが春原兄弟の侍達は奉公もままならないばかりか、家の法度にも背き、ある者は軍法を犯し、ある者は敵に内通するなど、謹告にまで隠しきれない悪逆を振る舞ったので、幸隆はとうとう立腹し、一族ことごとく彼らが、命がけで得た支配の領地を没収の上追放したので、兄弟は先住の地の関東方面に浪人したあげく、ここかしこの大名小名の家に奉公したが、すぐ浪人してしまった。

 その後は信州善光寺近くの川中島あたりに流浪を続け、とうとう村上義清へ奉公するはめになった。

 義清は初め合点がゆかず心を許さないで居たが、この者達は大敵真田の家臣であったはず、油断ならないことではあるが、何か敵の手立ての様子も聞けるかも知れないと、先を読んだ。弟の方の惣左衛門、なりは小男だが国中に勇名をはせた勇姿であるから、これもとりあえず抑えておくこととなった。

 兄弟は粉骨砕身、昼夜を問わず良く勤めたので、古くからの家臣をこえて、村上家では一二の忠誠の人と呼ばれるまでになった。兄弟はしてやったりとほくそ笑んだ。しかしこれで十分とはいえない。なを以前にも増して奉公に精励した。

 ここに村上の命運は尽きるに及ぶ。

 「義清は春原兄弟を密かに呼んで言うのに、その方の先の主君、真田を討って安堵いたしたいもの、兄弟のはかりごとによって易々と調議してくれまいか。」と。

 「それがしは砥石山にて誕生したので、真田家には旧友多く、折々には書状のやりとり酒の酌み交わしもしており、忍んで白山権現に参詣するふりをして、砥石山の城中に内通し、計略を巡らせましょうに、全く明日が待ちどうしい次第。」

 と言ってただ一人小県へ出かけていった。これらはすべてかねてから企んできたこと、夜中には丸山土佐、川原、矢野へ内通している。そして密かに幸隆公にご対面すると夜の内に引き返した。幸隆が満悦の表情を表したのは言うまでもない。

 それから春原は、葛尾の村上の方にかえって申し上げた。

 「それがしは白山に参詣いたし、敵の城中への通路を伺わんと、社中をしばらく潜み居ると、古き朋輩川原の惣兵衛という者また参詣にまえられしは、これぞ権現のお引き合わせというもの。元々川原と申す者は、武州七党の内にて私市の姓を名乗り我ら先祖とは共々信州にこし旧友。拝殿なさんとしてはたと行き会い申した。互いに懐旧の情、終日打ち解けて語り合うなかに、今日までの始終をも胸を割っての語り草。時に惣兵衛の申すに、そなたは真田にとっては代々の老臣、なのに些細なことで門葉ことごとく追放とは情けなや、明日は我らが身、危うきこと限りなし。思うに丸山、矢野、深井、宮下と譜代の面々今日限りの奉公なりと。明日に浪人せば、村上殿を頼り奉る考え、その方頼むと申されるので、さればそれがし、良き序でなりと存じ、かねてよりわが殿には、幕下に加わる者あれば、望み通りの所領を賜るべしと、仰せになる所と、すると惣兵衛満面情を和らげ話すに、我らも幸隆に恨み有り、人数繰り出して下され、夜中城中に引き入れ、安々幸隆公を討ち取り申さすべしと。」

 惣左衛門はまことしやかに、しかも事の内容を手に取るように、弁舌鮮やかに述べ立てた。

 義清は喜悦のあまり、日柄を選んで、春原の娘を人質に取ると、小草野若狭守、春原惣左衛門の兄弟を案内者にし、勇姿達七百余騎を選りすぐって、真田の舘へと寄せていった。

 かねてからの計略のこと、砥石では城門を開けておいたので、夜半頃安々と潜入できた。それから二ノ丸へ詰め寄ったとき、春原の合図で法螺貝を吹き鳴らし、後先の城門を固く閉ざしてしまった。慌てふためく敵兵を、物陰から弓矢鉄砲で一斉射撃した。

 寄せ手の七百余騎の兵は、瞬く間に五百騎ほど討ち取られ、夜陰にまみれて難を逃れた百四五十騎は、明けて巳の刻頃ようやく落ち延びていった。

 これを聞いた義清は、

 「中流船覆り、一瓢波に漂う。暗夜灯火を消し、五更の雨に向うがごとし。」

 心境を口ずさみ、後悔しても詮無いことではあるが、だと言って諦めきれず、預かっていた人質を牛割しにしてしまった。

 さすがの大名村上も最強の兵五百騎全滅しては、もはやこれまでと城に火を掛け、熊坂峠を経て、越後国に墜ちていった。そこで越後に所領下土地も上杉景虎へ渡して、この上はいつの日かもとの領地に帰ることを祈りながら、春日山の上杉家へとたよったのである。

 幸隆公の武略といい、春原兄弟の働きといい、世にもまれな戦いに、武田晴信公は至極ご満悦。

 幸隆公には異例の感状を賜り、春原兄弟には三百貫文宛の知行を与え、直参として召し抱えた。また亡き幸義公の跡目は海野太郎が襲名して、小心者ではあったが海野郷に住むこととなった。

 永禄年間、村上義清が越後に浪人して上杉景虎をたよった頃から、武田晴信は毎年のこと信州に出陣してきた。そのような時海野は晴信になじまない。晴信はこれを見て海野を誅断した。しかし海野は高家の跡目であるとして、侍どもへ左遷させ、晴信公の実子のおしょうどうを海野殿にならせたが、この子は盲目であったため、春原の兄、小草野若狭守を後見役に立たせたのである。

五の巻 真田幸隆と祢津信直の出家



天文二十年辛亥の年、二月十二日、甲府では武田信濃守源晴信公が、御出家されました。法名法性院大僧正機山信玄と改名した。

 それにあやかり、幸隆公も法衣をまとい、一徳斎良心と名を改めました。そのとき嫡子源五郎信綱は、信玄公の側近に仕え、源太左右衛門尉と名を変えている。

 幸隆の弟、矢沢右馬介は薩摩守の官位を授けられ、その上勝頼公からは、その一字を贈られたので、頼綱を名乗るようになる。

 祢津美濃守は一時、村上合戦の折、一時上州に逃れている。そこへ甲府からお呼びがかかり出向いたときには、法名を松鶴軒入道を唱えられて出家している。甲州で武田が没落の後、徳川に召し抱えられ、甲州、駿州に配置の上、三百五十貫文の領地を与えられたと聞いている。

 ちなみにこの官位であるが、はなはだ疑わしいそもそも信玄の子の勝頼は、京を押さえた織田信長のため無冠であったし、昌幸の安房守の受領時期もはなはだはっきりしない。そもそも頼綱の薩摩守は、武田氏から許可が出ただけでおそらく受領名出は無かったのが真実だと思う。

六の巻 岩櫃城の由来と吾妻三家


 岩櫃城、それは上野国吾妻郡太田庄平川郷に有る近国無二の山城である。郡保の内に山城が有り、西方から南方に吾妻川が有り東に向って流れている。その岸は岩石が峨々とそば立ち、高さは五丈から十丈はある。

 それとは別に四万、沢渡の山中から流れる山田川が北から南に向けて流れ、その岸も岩石が聳えている。

 二つの川に一カ所ずつ橋が架けられていた。吾妻川の橋が太田の橋、またすぐの橋が山田川の橋と呼ばれた。それ以外渡る瀬がなく、取りならでは通うすべなし。両川の間には沢渡、山田、平川戸、郷原、矢倉、岩下、松尾(現在の松下、松中)の郷村が有り、その戸数はおよそ八百軒余であった。

 山城の高さはおよそ三十丈。四面には岩窟がそば立ち、所々に松が生い茂っていた。東の口に一道が開け、木戸口は大岩が屹立し、三の木戸口は梯子を掛けて通行していた。用水は木沢山から取っている。要害のところが多い。

 これならば百万騎が立て籠もっても狭いとはいえない。

 城中町屋の北には岩鼓の要害があって、そこから他所にでる口が三カ所、すぐ近くが白井口の市城で、岩井堂の要害がある。渋川から箕輪に出る口は柏原の要害、大戸口には手子丸の城、沼田口には横尾八幡、大塚加べやの要害と尻高、中山の城がある。

 さてその他にでて北方には武山、折田、仙蔵、山田、桑田、高野平の要害、榛名山の口には、山田沢川戸郷とその他数カ所の要害があって、そこには選りすぐりの武士を配置して勤番していた。

 この城は、永享年間足利尊氏公の五代の孫、鎌倉公方持氏公に若君が誕生し、八幡二郎、八幡三郎殿と呼ばれたが素行不良で何ともならない。そこで執事の上杉民部大夫に・・・(以下解読できない)

 古河公方足利成争って上杉憲忠を処罰殺害する。憲忠の家臣白井城主長尾左衛門入道昌賢(景仲)は、上杉への忠節をつくして民部大夫の嫡子顕定を守り、この城を取って向い入れた。
 これを見た足利成氏は関八州の軍兵十万余騎を引率し、四方八方から押し寄せたが、堅固な城のため、数度の合戦に及んだものの利はなかった。成氏はいらだち、兵糧攻めを企て新たに五万四騎を加えた。合計十五万の大軍は、山々も里座とも蟻の這い出る隙間を与えず、稲麻竹葦の陣容で取り囲んでしまった。

 昌賢(景仲)は文武の達人である。これしかのこと考えに入れない武士ではなかった。そして四万の山木根通りに国境を越え、数千頭の牛を挑発してきた。そして嵐の夜を待った。

 好運にも時節はすぐに到来する。兵達は牛の両角にたいまつを結わえると、一斉に諸方に向けて追い落とした。動転した牛は、寄せ手の陣容へと飛び込み、十文字に駆け巡って暴れる。

 そのとき城中の昌賢(景仲)は攻撃を命ずる。嫡子左金吾正信、三男彦四郎昌明は八千余騎の軍勢を二手の分けて、押し太鼓を打たせ、わめき叫んで押し寄せていった。

 威勢を誇った鎌倉勢も、この勢いにつま先立ってたじろぎ、十五万の軍兵はそれぞれ、馬具から太刀、長刀、兵糧までことごとく、小屋小屋に置き去りにして、一目散に落ち延びていった。

 当の庄逢山の郷、円通寺に陣取っていたが大森式部太輔は、大手の攻め口を引き受けると、忠度橋を挟んで長尾の家の子、吉里金右衛門尉と向かい合った。しばらく戦いは続いたが、夜中のこと、太輔は涙ながら川を渡ろうとして、吾妻川の落ち合いに馬を乗り入れ、不運にも深みに溺れて、行方不明となる。

 これを聞いた円通寺の住職が、太輔を探して川筋を下る。ところが彼も水流に入って姿を消した。ただ太輔が溺死したと聞き、頼まれもしないことで命まで落としてしまったのである。世間では事理に反したことを「円通寺」と言うが、この事から始まったことであろう。

 ここ円通寺の由来を尋ねると、法然上人の九代目の弟子行学上人が、ここに来て仏利を開基、浄土宗を広めようと道場を作っている。そして数年の内にはもう揺るぎもしない霊境となっていたのだが、この兵乱の時代、住僧が溺死して、紺園はただ鳥獣の足跡が残るばかり、何とも哀れな話である。

吾妻太郎殿と吾妻三家


 吾妻太郎殿の由緒を見れば、大織冠鎌足内大臣が始めて藤原性を賜るが、その子で不比等から数えて三代目の乙麻呂公、その後七代の孫に当たる二階堂遠江守為憲が東国に下向になって武蔵国を領地として受けた。

 この為憲からさらに五代目の維光、その二男維元になってから吾妻の地を賜って、太田庄に居住すると吾妻太郎を名乗った。このときから子孫代々、吾妻郡太田、長田、岩山の郷を守護として栄えた。

 ところが、維元から四代の孫になる四郎助光の時に、承久の乱で北条義時の命で出陣して宇治川の戦いで溺死して果てた。

 それ以来吾妻家は衰え、主君を太田の城(現内出城)に据えたまではよかったが、うやむやの内に家臣の大野越前、塩谷日向、秋閒三郎が、領地を三分してしまった。

 秋閒は太田城二の曲輪に居住し、大野は平川戸稲荷城に、塩谷は中之庄和利の宮の城に住むこととなって、三家の領地のように見えたのである。

 この三家は、永享の兵乱の時はもっぱら地頭として聞こえも高かったが、文明の頃、由良信濃守源国繁が隆起して兵乱を起こすと、三家は利害関係から不和となり合戦に及んだのである。

 そして秋閒備前は大野に打たれ、太田は大野の領地となった。また塩谷の方は門葉が広く勢力があったため、大野も手を出せずにいたのであった。

 ところが塩谷掃部介秀治には一人の息女がいて、それを甥の源二郎元清に嫁がせ、仙蔵の城に住まわせた。時は文明五年の春のこと、かの夫婦の間にもめ事があり、娘はたちまち離別された。しかし、父掃部介は立腹して娘を引き取ろうとしない。

 そこで困惑の末、大野の家へ逃げ込んだのだった。これこそ天の声と思い、家の子斉藤孫三郎、富澤勘十郎をよび、心の中を告げた。

 それから蜂須賀伊賀に預けて、本城を増築して住まわせた。その名をマロウド殿と言った(マロウド殿とは賓客という意味)。この姫は懐胎していたので、その様子を塩谷側に知らせるために、居城の追手に産屋を立てたり、大釜を据えて出産を待ちわびていた。あたる月に男子が誕生したので一門、家の子喜悦して、その名を一場二郎と名付けた。

 さて塩谷は息女をとらわれ、その上二郎の男子が大野の家で生まれたこと気力を失い、つまりは大野の幕下に祗候するに至った。

 これから大野下野守義衡は嫡子を越前太郎憲直といい、二男を一場二郎として、一郡の地頭を命じ、家臣斉藤孫三郎憲実、富澤勘十郎基康を側近にして守らせていた。しかし大野はなお塩谷掃部介を殺害する計画で、塩谷の一族である蜷川、池田、尻高と、その家臣の割田、佐藤、中沢らに内通して、ついに掃部介を殺してしまうと一群を思うままに平らげ、源国繁へ出仕して栄えたという。

 そうこうして、大野殿は繁盛の中で、岩櫃の城に居て、斉藤、蜂須賀両臣に諸事を執行させていた。

 ところが先の主君吾妻太郎殿の門葉に植栗河内守元吉という人がいて、太田の庄の内を領有して、大野の幕下に入っていたものの、ちょっとした子細があって、元吉を退治する企てが立てられ斉藤孫三郎憲次に討手を命じた。

 しかし斉藤は大野に恨みを持っていた折柄、これは幸いなことが巡ってきた物と、すぐに居城岩下に立ち帰り、家臣の富沢但馬守基幸と話し合い。植栗を討つと言って植栗の舘に虚偽の軍を進めた。

 元々元吉も斉藤とは近い関係にあったから、元吉と一緒に組んで大野舘に軍を進めた。
 戦況は思いの外うまく運んだ。そこで大野は原十文字にかっきり、城郭に火を掛けると、門葉一族、一度に炎の中に飛び込んで全滅してしまった。

 それから憲次は岩下へ引きこもり、鎌原、湯本、西窪、横谷、羽尾、浦野、蜷川、塩谷、中山、尻高、荒卷、大戸、池田らの人々に使いを送って、事情を伝えた。それには、「このたび子細があって、主君大野を打ち奉ったので、各方々においては、わが幕下に加わってもらいたい。」というのであった。

 それを聞いた先の諸武士は、知謀に長けた斉藤の元にはせ参じて臣下に入る。「大将こそあなた以外にはない。」とあがめたのである。憲次は、それまでの岩下の城を富沢但馬守に渡して、岩櫃の城に入りそれから自ら上杉方へ出仕して勤めたので、安定して繁昌したのである。

 斉藤がこのように繁栄している折、富澤の家では男子が多く、老後になってまた男子をもうけたで、主君の斉藤は喜んで富沢但馬を呼んで「その方は老衰してもなお一子をもうけし事、斉藤家も長く続く吉相である。さらば名を改めて付けるがよい。」それは気狂いじみたもてなしようであった。

 但馬は答えて、「これは老後の子、行く末を思うと気が重く、また生きようなどと大変なこと、これにて我が子の末子とするからには縁起よく末は唐沢がよかろう。」と、その後唐沢杢之助と苗字を替えて命名した。

 杢之助は成長して文武両道の勇士となった後、猿渡の郡を知行として受け、そこの住むようになった。その頃から富澤、唐沢両家に分かれて斉藤の重臣となったのである。

 大永の時代と聞いているが、斉藤憲次の嫡子である越前太郎憲広は出家して、一岩斎入道と称した。次が娘で大戸但馬守真楽斎入道の妻で、憲広には四人の子が生まれ、長男から太郎憲宗、四郎大夫憲春、次が女子で三島の地頭浦野下野守に嫁ぎ、後に羽尾治部入道の妻となったのである。末子が城虎丸、こちらは武山の城に差し置かれている。

 斉藤殿はまた岩櫃の城山に松の植樹をさせている。それは百姓役として家並み毎に人別松植えさせ、苗木一本に一銭宛渡してやった。銭高で樹数を知ろうというわけで、およそ十万本余植樹したのである。

七の巻 沼田築城と家伝


 桓武天皇の皇子、一品葛原親王ふたりの御子があり、兄が高棟王、弟を高見王名付けられ、西同院の流れである。高見王の子息高望王が始めて平の姓を賜り、以後子孫は平という武家となった。嫡孫清盛は、悪行があったので、寿永年間に源頼朝卿が立って源平合戦の末、平氏ことごとく滅びて断絶した。

 高望王の末為道は三浦長門守と号した。為道から八代目の孫である三浦景泰は、上州利根庄を領有すると、利根、薄根の両川を前に見る沼田の庄に、城郭を構えて住んだのである。これから見て沼田景泰こそ沼田氏の元祖である。

 北条9代の時諸国にあって大番役を務める者があった。沼田八騎の沼田上野介、発知薩摩守、久屋三河守、下沼田豊前守、岡谷平内、石墨孫三郎、小川河内守、川田四郎幸清入道らである。後醍醐天皇皇居勤めと聞いているが、大番役を務めた賞としてそれぞれ授けられたものがある。

 沼田は鞍あぶみ造りを願い出て許された。代々がこの道の名人だったことから、沼田の居城を鞍内という。発知は龍田の紅葉を一本戴き持参してそこに天神の社を立てたので、そこを龍田という。岡谷は岡谷村で守護不入の特権を与えられている。下沼田は、こに真言宗の僧を招き、高野山北の房の浄心院を分院して住持となるようお言葉を受けた。今の世になってもしも沼田氏がこれを続けているという。小川は馬焼金一本を戴く。この焼金を病気の馬に当てると、すぐに回復するという奇妙な器であった。久屋は鉈一挺、この鉈はどんな木でも切ろうと当てると、どんな木でも倒れるという物であった。川田は一人娘をもたれた。その名は円珠と言い、歌人であった。この歌を宮中へ差し上げたところ願いが叶い、その中の一首を天皇におあげしている。

「龍田山 紅葉を分けて入る月は 錦に包む 鏡なりけり」

と、この歌をご覧になって、

「かみつけや 沼田の中にまどかなる 玉の有りとは たれかしらまし」の御返歌を戴いている。

 その頃天下は不穏であった。諸国の郡司は次々に下向していった。上野国那波郡へは、後醍醐の第六の皇子成良親王が、征夷大将軍に下命され下向された。

以下中略

 景泰から何代目か、上野介景康の代になり、長禄二戊虎年、利根、薄根両川が落ち合う岸辺に、利根郡惣鎮守である武尊明神宮の社域があった。この地方では無類の要地と考えられた。

 社人・・・宮は、髙井但馬を招いて城を築きたいと乞うた。そこで明神の社を根岸にお立て替えになり、城郭を新たに築いたのである。それ故明神の社石に残った大石は、この地方の人々から敬われ、後にはこの石を指さすだけでたちまち罰が当たる殺生石などと言い伝えられた。

八の巻 沼田了雲斎入道の繁栄


 永享十一年、鎌倉公方が権威を失うと、都も地方も安堵の日がなかった。関東では、乱れに乱れて、至る所で合戦が続いていた。時に利根地方は上野介長忠の時代となっていた。法名を舒林院殿と号し、武略に長けた人であった。沼田地方城主を幕下に加え、嫡子勘解由左衛門尉顕泰の代になると、吾妻地方まで領土を伸ばし勢力を拡大した。

 顕泰は、上野守護上杉民部太輔顕定に従い、その一字を戴き顕泰を名乗った。奥方は、長野信濃守の娘である。

 長子上野介殿は、京に上って義輝公の近侍となり大見に領地を戴いた。このため二男三郎が嫡子に立って平井城に出仕する。やがて上杉憲政公より一字をもらい憲泰と言った。
 彼は十八歳の時上杉氏の重臣、長尾伊玄入道景春の婿となっているが程なく逝去してしまった。

 野州佐野宗綱野一族で赤見殿という顕泰の妹婿がいた。事らは女子一人のため婿取りして三男六郎を立てたのであるが、そのとき、赤見は六郎殿のお迎え役に、家臣兵藤駿河守という侍を立てて沼田城へやっている。

 四男弥七郎は、沼田(倉内)城主であったが、前橋城主北条や五郎の婿となっている。また弥七郎の妹は長野信濃守の仲人で、碓氷郡安中の城主である安中越前守に嫁いでいる。

 顕泰は後に出家し、萬鬼斎と名乗り弥七郎に倉内の城を譲り、また末の子平八郎へ領地を三分の一分けて、一緒に下川場の郷に屋敷を構え隠居のみとなった。

 弥七郎は幼名を米童と呼ぶ。三歳の時吾妻郡須川郷の箱崎城にいて、池の原という所に諏訪大明神を立てている。そこではお茶坊主の慶伝を山伏にして、この男を出陣の共にもつれていた。子孫は光学院と言って今も別当に当たっている。

九の巻 鎌原の忠節、信玄吾妻に入る


 信玄公は天文年中、信州をうかがい始めた。十六歳の時、平賀玄心法師を討ち取ると、その後は上州にも手を伸ばし始めた。分けても永禄の初めになると、出兵の数が増えている。

 ここに鎌原宮内少輔(みやうちしょうゆう)が登場するのである。鎌原は清和天皇のお血筋を引く、二十八代目の孫になり、信州から上州国の境、浅間山麓三原の庄を数代にわたって領有してきた地頭であった。彼はそれより前文明の頃、管領上杉民部太夫(みんぶだゆう)顕定(あきさだ)候の配下に入り、関東で仕えていた。

 天文年間になると、管領憲政(のりまさ)の権威は失せて、方々の城主の気性はとげとげしくなり、先を越して武力に頼り大身は小身をかすめ取る情勢にあった。当時鎌原は吾妻の太田の庄岩櫃の城主齋藤越前守(藤原憲廣入道一岩斎)に、近辺まで押し込まれて、やむなく従っていたが、世上の動きを見ると信玄公の威勢は日を追って大きくなっていく。この際信玄公に付いておかなければと、明け暮れ時節を待つようになっていた。

 同じ係累に伝わる真田幸隆が本領に帰って、今小県郡に住んでいるのは幸い、これにたよろうと嫡子筑前守と相談して幸隆に伝えた。幸隆も喜んで、それならば小諸の城主に仲介してもらうのがよい。

 小諸城主の甘利左衛門尉は、信玄公の無二の臣であると、たちまちその手立てが整った。走行して信玄公が信州に出馬する頃を待つうち、永禄三年の春、そのときをえた。信州平原の陣屋で、筑前守父子はうやうやしく臣礼すると、小諸城主がご披露になる。信玄公は喜悦満面、なにとぞ計策を巡らせて、斎藤を討ち取ってもらいたいと仰せになった。これを機会に、鎌原らは日々はかりごとに明け暮れるのだった。そして翌年十一月、信玄公は西上州に出向いてきたとき鎌原にも立ち寄っている。その新書には。

 調略故其許宣可然様に候哉本望候、其表追日任存分候、就中昨日高田降参、今日は休馬
 、明日向于国峯可及行候、近日分人数其筋へ可遺候條、彌相調候様無油断計策専一候

                                   恐々謹言。  十一月十九日                    
                                  信玄(花押)

と。鎌原がこの文書を謹んで拝見したのはもちろんであるが、斎藤方とも無縁となったのではない。しかし斎藤方からは不忠とみられ、憲廣入道も半信半疑に思っていた所、三原の庄の内にいた羽尾道雲入道が、鎌原とは同姓の一族であるのに近頃不仲であると知り、斎藤方はこの羽尾に鎌原を討たせようと評定で決めた。そして塩谷将監入道と羽尾入道は両方から挟んで、鎌原の舘に攻め寄せていった。

 戦況はこの舘がなにぶんにも勝れる要害の地、その上一族の浦野下野守、湯本善大夫、横谷右近らが鎌原に味方して斎藤の陣中を横切るなど威勢を見せたので、斎藤方もたまらず、大戸真楽斎(おおどしんらくさい)を頼んで和議を申し入れたのである。

 そのことがあって、斎藤も鎌原にとがめ立てする様子はなかったので、鎌原の方も表向き敬信しているかに見えた。だがしかし鎌原はこの間情勢を見極めて、謀略を練っていた。

 斎藤の家の子に富澤但馬守行連(岩下の地頭、富澤の惣領)がいる。これは横谷左近太夫の姉婿に当たるが、鎌原はこの富澤を利用することとした。富澤は斉藤入道の甥、斉藤弥三郎にうまく近づき、斉藤入道には決して二心ないと言わせておき、その上で岩櫃の城を攻め取る算段を弥三郎に申し入れた。

 この計略は図に当たり、一方入道は心をほぐしていた。さて其の様子は早々甲府に向けて、注進に及ぶ訳だが、この役黒岩伊賀が受け手密かに出立していった。信玄公は感じ入って、お礼状をしたためている。

 翰礼被見其谷之模様被申越候、何も不屈無詮議候、殊に密々之儀得其意候、

 然者草々著府待入候、委曲自甘利所可申越候、恐々謹言

 六月二十七日
                                  信玄(花押)

 と言うものであった。黒岩はこの返事を持たされると、再び忍んで最初に帰ってきた。宮内少輔は其の労をねぎらって、黒岩の在所の今井の郷では池川の魚類等の捕獲を一切許されたのである。それから長男筑前守を甲府にやって出陣に参加させた。信玄公もことのほか喜ばれ、色々褒美を授かり斎藤の様子をいちいち訪ねられた。

 かくなる上は討手を差し向ける好機と、幸隆公それに甘利左衛尉を大将に旗本検使に曽根七郎兵衛、その他信州先方芦田下総守、室賀兵部太夫入道、相木市兵衛尉、矢沢右馬介、祢津宮内太夫、浦野左馬允ら合わせて三千余騎がこの年の八月大戸口と三原口に分れ押し寄せてきた。

 不意を突かれ恐れをなし斎藤は、善導寺の住僧を使者にし人質を入れて降参してきた。かくして勝者は一戦も交えず陣を引き上げたのである。

鎌原と羽尾の合戦


 羽尾治部少輔景幸は海野の末裔である。景行の長男は治部入道道雲(幸全)、次男が長門守幸光、三男が能登守輝幸と言った。いずれも無双の有志であった。特に能登守輝幸は、兵法の達人で上原能登守とも名乗った。

 あるとき羽尾入道が岩櫃の城へ出仕した折、斎藤越前は言った。昨年秋には信玄から討手を向けられたが、あれは世習に従って降参したまで、それというのも鎌原にだまされたもの、鎌原には何とも腹の虫が治まらぬもの。羽尾入道の手立てによって鎌原を討ちたいものと。羽尾もそれは心がけていたところ答えて、有無心を通じたのである。

 そして永禄三年十月初旬、羽尾道雲は海野長門守、富澤加賀守庸運、湯本善大夫、浦野下野守、同中務大夫、横谷将監ら六百騎を率いて、鎌原の要害に押し寄せたのであった。
 鎌原の方もかねてから用意していた通り、嫡子筑前守を赤羽の台にだし、西窪佐渡守を大将に立て、家の子今井、樋口を鷹川の古城山へ登らせ、自らは要害の中で指揮を執っていた。

 そこへ羽尾入道と海野長門が、鎌原越前の陣所へ攻め寄せた。攻防は一進一退で、なかなか決着は付かなかった。

 そこへ、大戸真楽斎の舎弟但馬守が二百騎の手勢を引き連れ万騎峠より狩宿を経て、羽尾の加勢に進軍してきた。この急を聞き鎌原は、常林寺の僧を仲介に立て和議を申し立て、この和議は受入れられた。

 そして鎌原はその仲裁を信玄に頼み、永禄五年三月に、甲府より三枝松善八郎と曽根七郎兵衛、室賀入道を使わしてその鎌原、羽尾の境界を決めた。斎藤越前は「信玄公に恨みなし。」と言って満足したのであったが、羽尾入道は数代伝わっている古森とせきやの両村が鎌原の地になったのが不満であった。

 斎藤越前は、羽尾の不満に答えるため山遠岡与五右衛門尉と一場左京進を使わして羽尾の言い分を伝えたのであった。追い詰められた鎌原は、一族引き払って信州佐久郡へ退去した。これで羽尾は、自領と鎌原領を手に入れたのである。

羽尾入道は風流好きで、いつも赤根の小袖を着て、浅間の山麓で猟をするやら加沢の湯など入って安楽に暮らしていた。鎌原は、信州で信玄公から領地を頂いていたのだが、羽尾の噂を聞くにつれ故郷鎌原の地に帰りたいと日々願っていた。

 そこへ、故郷のかつての恩義を受けた農民から知らせが届いた。六月から羽尾入道は万座の湯に湯治に出かけているという。そこで鎌原は早速幸隆公(真田幸綱)や祢津覚直、甘利左衛門尉に願って加勢を受けると、鎌原城に攻め寄せた。留守の兵は、小勢だったので鎌原の攻撃を受けると羽尾勢は、早々と城を明け渡して逃げて言ってしまった。鎌原勢は、一戦もしないで故郷の鎌原城に返り咲いたのであった。

 羽尾入道は、万座の湯から返るに帰れず信州高井に落ちていった。これを聞いた斎藤は、甲府の加勢が来る前に鎌原を討ち取るのが得策であるが、何しろ小勢では、なしがたく上杉謙信公へ随身して助けを得ようと画策した。まず長尾左金吾入道に使いを送った。

 この使いは、善導寺の僧、斉藤弥三郎、唐沢杢之介である。彼らに長尾は深くうなずきすぐ、中山安芸守を間に入れて頼もうとしたのであった。斎藤は甥の斉藤弥三郎、富澤但馬守に権田作りの矢根千、熊の皮二枚を持たせできる限りの礼を尽くし謙信公に謁見した。謙信公は快諾し、使者への褒美として白布二十反を贈られたという。

 羽尾入道は、信州高井で計略を練り鎌原の老臣で、羽尾とは親類の樋口に内通するように使者を送った。内容は、「鎌原を討てば鎌原領は貴殿に進ぜる。」という内容であった。斉藤入道と海野長門守も同様な使者を送ったので、よくにかられた樋口は高井戸の羽尾に返事を送った。

 羽尾入道は高井戸の加勢五百騎を引き連れ、万座山から干又そして米無山に陣取った。樋口は大将となって二百騎引き連れ鉄砲の名手二十名程度引き連れて出陣した。やがて鎌原は、黒成馬に銀幅輪の鞍を置き黒糸脅しの鎧に身をまとい出陣した。かねてよりの約定通り「黒成馬に黒糸脅しの鎧をまとった鎌原めがけて、鉄砲を撃つように」連絡していた樋口は、この約定通り事が運ぶと思っていた。

 しかし鎌原は、要害を出て髙井川を渡るときに馬が前足を折って伏せてしまった。これはさい先が悪いと、樋口の芦毛の馬に乗り換えた。やむを得ず樋口は鎌原の乗った黒成馬に乗って鎌原の後に付く。

 そのまま進むうちついに討手は、鉄砲で黒成馬に乗った樋口めがけて撃ちかけた。放たれた鉄砲の弾は、見事に樋口の胸板を貫き絶命したのでした。鎌原を討ち取ったと思った羽尾は、弁当を取り出して酒盛りの準備を始めた。そこに鎌原がどっと押し寄せたのであった。草津からの加勢の湯本善大夫、浦野義見斎も加わった。そして羽尾入道に属していた善大夫の嫡男、三郎右衛門も寝返っている。これはたまらず、羽尾入道は岩櫃平川戸の落ちていったのであった。

 注進を受けた甲府では、「斎藤が謙信に属するからには小勢ではかなわない。」として加勢を送り、兵糧は信州小県よりまわそうと、祢津、芦田、甘利衆を警護に就かせ、鎌原、長野原の城に立て籠もらせた。兵糧は幸隆公から続々運び込まれていた。

 この頃鎌原宮内、西窪佐渡守、湯本善大夫は武田方、横谷は斎藤に味方していた。

第十七の巻 金の馬鎧


 天正の始め、尻高、中山は白井に従っていた。その上尻高、中山両城は天然の要害で吾妻勢は大変手を焼いていた。こんな事から吾妻勢は、忍びをの者を入れて焼き討ちをかけようと考え、唐沢玄蕃にその役を命じた。玄蕃は承知して舅の割田新兵衛と相談し、まずは尻高に忍び入って焼き討ちに成功する。続いて中山へ忍び入った。中山安芸守は皷を打って酒宴の最中であった。この中山の皷は下手で有名で「百一つ(百回打って一回しか鳴らない)」と言われるほどであった。その夜はみなよって眠り深く、警戒もおろそかであった。玄蕃は中山の納戸に忍び入って探している内に、金の馬鎧を見つけたのである。火を放てば逃げ場を失うほどの要害であるのでこれを断念し、金の馬鎧を盗み出しまんまと引き上げたのである。
 玄蕃は、一本気の若者でいざ出陣となるとこの馬鎧をかけて出るので、その年信玄公西上州へ主張した折、玄蕃は真田の配下として出陣、信玄公の目にとまった。信綱を召して、「かの馬鎧は、珍品である。先年信州松山の合戦の時みたような覚えがしてならぬ。いまは乱世のことゆえ金の馬鎧などないと聞いているが、いったいあの人物は誰か」と訪ねられた。信綱も驚いて、「彼は唐沢と申す者です」と答えた。これ以来唐沢の名は思わぬ事で功名をあげたのである。

第十八の巻 湯呑の溺愛、万鬼斎我が子を暗殺


 天文年中(1532~1554年)のこと、顕泰公は利根郡東小川の温泉に湯浴みに出かけ追貝村の名主金子某の娘を寵愛した。湯呑と名付けるほどの愛唱で、かりそめに召し使いされたが、その腹に男子が生まれる。
 名を平八郎と言い、守り役には母親の兄金子新左衛門と三橋甚太郎という武士をそばに仕えさせ、倉内城二ノ丸に住まいさせていた。
 この平八郎は十一才の時川場の郷の吉祥寺に手習いのため入れられた。彼の器量は並々でなく、大柄であった為十五才で元服、沼田平八郎平景義(沼田氏は相模三浦氏の流れで、三浦氏が平氏であるため姓は平である)と名乗った。
 この頃安田という兵法の達人が当国にやってきたのを沼田へ招いて兵法の師としている。平八郎はとても敏捷で力量は並ぶ物なし、兵法の誉れ魔利支天の生まれ変わりかと評判された。
 時に永禄九(1566年)年の事、平八郎こそ跡目という起請文を安田に書かせ、同じ日景義も血判を押して起請文を安田に送っている。起請文の中身は「永禄九(1556年)年丙寅閏八月五日、沼田平八郎景義」と書かれている。この起請文は我が家(加沢平次左衛門の自宅か?)で、昔侍筋の男の持ち物の中にあったのを見たことがあるが、世間に言い伝えられているのとあっているので興味深い。万鬼斎は平八郎を寵愛するあまり金子新左衛門を美濃守泰清と名乗らせ、知行と永楽銭八十貫文をたまわり屋七郎殿の家臣に付けたのである。この身分は老臣や一族の中で破格の役付けで、和田掃部介と同格であった。平八郎寵愛と外戚の登用は、沼田氏滅亡の原因をなしたもので、みなこれを痛く悲しんだのである。
 さて、景義の母は我が子平八郎を沼田の総領主につかせたい物と常日頃考えあぐんでいたところ、兄金子美濃守の出世から、その機が熟したと悟り、内密に相談を進めたのである。まずは嫡子弥七郎殿を亡き者にしようと万鬼斎に讒言して仲違いを謀った。またそのためには和田掃部介を陥れようと思い弥七郎の奥方と密通したと、まことしやかに万鬼斎に密告した。万鬼斎は心安まらず、掃部介を川場に召し出し詰問した。掃部介は気丈夫な男であったが、濡れ衣の言訳は難しく上沼田の屋敷を密かに抜け出し、高野山に入り僧籍に入ったのである。永禄十一年(1568年)、これを聞いた平八郎の母公、金子美濃守はこれで本望を遂げたと思った。明けて永禄十二年(1569年)巳正月五日には万鬼斎の命を受けて吉祥寺の僧は久屋斉藤三河太郎入道の子孫になる塩野井又市郎をお供に、弥七郎のもとへ出かけることとなった。その書札には、

近年不幸之旨和田為業也、聞今以後悔無其益、掃部在所退去之上者無子細、早我館え参向侍所也、委曲塩野井又市郎可申述候謹言

正月五日                             万鬼斎入道顕泰沼田弥七郎殿

 としたためてられた。この書状を手に塩野井は早馬を仕立ててその日の丑の刻頃には、倉内の城に着き、恩田越前守、金子美濃守、岡谷平六左衛門を通じて弥七郎殿に申し上げた。弥七郎殿は吉祥寺又市郎に御対面、三度押しいただいて御覧になった。「それでは明日にも出仕致そうと」ご返答になり、塩野井にお盃をたまわりまた泰重が鍛えた太刀を給わったのである。弥七郎は翌朝、明けるのを待ちわびるように、倉内の城を出立するのであるが、お供揃いはわずか五十人ほど、騎馬武者は岡谷平六左衛門、下ノ源次郎の二人だけで川場の舘にやってきたのである。
 万鬼斎はかねてからの用意の通り、星野図書介を生品の里まで差し向けて出迎えた。図書介は下馬して遥か下座にひかえている。弥七郎は図書介を見るなり下馬して、「珍しいな図書介、余は何者かの讒言によってこの二、三年の間父のお顔を拝することも成らず、むなしく年月を過ごしていた。この度は恩赦に預かり、いま参上できるはひとえに神仏の御加護のいたすもの、うれしいぞ図書。」と言葉をかけられ弁当の酒を取りだし、三献飲み干し図書介に回された。それより下川場の館へ入られたのである。
 そのとき、恐るべき事が待ち受けていたのである。次の間と言わず、廊下まで抜刀して待ち受ける舘の武士達。弥七郎殿は夢にも知らされず袴、肩衣で出られたのだがただ一太刀で討ち果たされたのである。見るも無惨なことであった。享年三十六才、継母の讒言にあって打たれたとは、昔から今に到るまで継嗣継母の間柄、このようなこともあるのかと人々は強く知らされたのである。そのとき何者が詠んだか分からないが、狂歌が一首、川場の舘と倉内城の大手の橋際に立てられたのがあった。
「罪とがのむくひもしらずほがひして ひいるさなぎになるはあきやす」と書かれてあった。