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岩櫃城跡北側遺構群遺跡


 発掘調査報告書の題名で分かる通り、岩櫃城跡の志摩小屋地区より北側の高である。平成四年に現コニファーいわびつ(杉並自然村)建設にともない吾妻町教育委員会で発掘調査を行ったものである。この報告書は現在では手に入らないのであるが、要害地区以外の遺構としては非常に興味深い。コニファーいわびつの本館、グランド、キャンプ場などではもう遺構はこの報告書以外では分からないのであるが、本館に上る階段は発掘調査で分かった位置に上の幅を合わせて堀のあった位置に作ってある。しかしまだコニファーいわびつ周辺では遺構を確認できる。まずコニファーいわびつに登る道、グランドの反対側には空堀の後があり、本館、ログハウスの上には発掘で明らかになった一番長い堀、薬研堀の上部幅が5,6m、深さ4,5メートル、長さは330mが確認された。キャンプ場の上では、北浦林道に沿って二重堀が現在でも確認できそれがキャンプ場の南側を通り、さらに平沢の集落に続いているのが確認できたのである。この報告書では、縄文時代の住居跡、土器も出たのであるが、ここでは中世の岩櫃城跡の解説であるのでそれを中心にしていきたい。まず、A地区、B地区、C地区と三箇所に区切った。A地区は本館部分、B地区はキャンプ場部分、C地区は多目的広場である。A地区の長い薬研堀であるが、C地区と合わせて前に述べたように現ログハウスの上の部分の堀の跡から、不動沢に向って330mに渡って竪堀があった事が確認できた。これが岩櫃城跡、一番北の遺構である。B地区についてはキャンプ場の南側の部分で、二重堀が見つかりこの堀はキャンプ場の上、北浦林道に沿って二重堀が確認できるのであるが、それに繋がっていてさらに平沢集落の上に残る二重堀とつながり下に伸びていたのが分かった。しかしこの部分は拠点となる平場が存在していないことを考えると、明らかに要害地区の遺構とは使用用途が違うと考えられる。一説によると天正十八年(1590年)の小田原の役の前、つまり天正十七年(1589年)頃真田氏によって急拠造成されたのではないかという説もある。ただ信州上田からの出役と吾妻の出役だけでこれだけのものを、急拠作れたのだろうかという疑問もある。常識から言えば、年数をかけ段々作ったと考えるのが妥当なのかも知れない。
 この遺構全体を見るとこの北側遺構、要害地区、天狗の丸と上之宿、を使って現平沢集落を囲うように縄張されている。以前はこの城は陽の縄張と言われてきたのであるが、やはり陰の縄張であるというのが妥当か。この事を考え作戦を練れば、敵を平沢集落に誘い込んで一気に殲滅する事が可能であろう。これを見れば明らかに真田得意の、ゲリラ戦に持ち込み完全勝利は出来ないものの負けない戦術が可能となる。まさに真田ならではの縄張のような気がしてくるのである。