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小田沢の砦

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小田沢の砦縄張図

小田沢の砦の解説

所在:群馬県吾妻郡東吾妻町大字岩井字小田沢
城域解説
 現在安楽寺の跡であって、あがつま共同霊園の所である。下の写真は、安楽寺跡の石碑でここ一帯が城跡と言える。





 城跡は、共同霊園の造成工事によって破壊されているので、上の縄張図とは地形は大夫変わっている。まず、東側に小田沢という沢が流れ堀を形成していて又、前面の道も堀の跡である。西面には山の方へ続く道があるのですが、これも堀の跡と考えると、この辺り一帯を堀がぐるりと回っていたのが容易に想像が付く。城域は東西170m、南北250mである。下部の平城部(共同霊園)は、東西170m、南北60m位で形成されている。その中央部分が、安楽寺跡と言われている。細かい切岸は失われているのであるが、大まかな段差はなんとなく残されていて確認できる。



 上部、2写真は安楽寺宝塔で町指定史跡になっている。この宝塔は、立派な五輪二騎に挟まれ石扉が付いた石の宮がある。元和三年(1617年)と刻まれていて、そこの五輪宝塔に戦国時代の落書きがあるといわれているが、現在では風化によってはっきり分からない。この部分は古代の古墳の跡と思われるが、廻りの堀、土橋等確認できるのでここも砦の一部として当時利用されていたのが分かる。

 上の写真は、この宝塔の解説である。

沿革

 この小田沢の砦は、榛名湖峠口の押さえとして築城されたものである。天正十年(1582年)北条氏による第一次岩櫃城攻撃計画のあった時、真田氏により塩谷将監、唐沢玄蕃、富沢又三郎、宮下左衛門、田中四郎左衛門、伊能孫五郎を配している。天正十八年(1589年)には唐沢玄蕃允、田中四郎左衛門、田中越後を配して北条氏による吾妻侵攻に備えている。以上「加沢記」の記述である。

安楽寺由来

 安楽寺は天正の初年には、群馬県吾妻郡東吾妻町須賀尾にあった古い寺で、吾妻伝説(「吾妻郡略記」「吾妻記」「続吾妻記」によると天正八年(1580年)故あってこの地に移ったという。以下その伝説を記述する。
 天正八年(1580年)大柏木(羽田城)城主海野行康は海野幸光、湯本等真田勢に攻められ城は攻略された。羽尾は須賀尾に落ち延び、その途中ひどい凍傷になってしまった。安楽寺僧からやけどの妙薬の調合を、大戸の大戸真楽斎が知っているという話を聞き、その薬を真楽斎からもらってくるよう頼んだ。ところがかえってその荘はわざと毒薬を調合して、羽尾を毒殺してしまった。そのため僧もそこにいることができなくなり、岩井に浪人して一寺を建立した。これが岩井安楽寺のはじめであるという。

安楽寺宝塔

 この等は、左右に五輪の塔を配し中央が石宮となっている。戦国時代の落書きがあると言うが、この五輪の塔に刻まれた年号は元和三年(1617年)である。関ヶ原の戦いが終わり、徳川の幕府体制ができた頃である。それを考えると、戦没者の慰霊塔と考えるのが妥当では無いか。又この位置が古代の古墳の跡のようであるのも、気になることではある。ここは、古代からそれなりの勢力のある豪族がいたのが分かる遺構である。