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参考文献:「岩島村誌」「戦国大名領国の権力構造」「戦国領主真田氏と在地世界」 他

戦国時代の領地制度と貫高制


 従来、領地統治の実態はあまり注目されてきませんでした。戦乱の世の合戦、城など軍事的研究が一般的で、領国体制など戦国大名の日常生活などは一般の人々からは興味を示されてきませでした。ここでは、戦国大名の領地政策など実例を入れて解説していきたいと思います。特に関東の覇者後北条氏には数々の資料が残り、「戦国大名の権力構造(吉川弘文館)」「戦国領主真田氏と在地世界(六一書房)」「小田原衆所領役帳(東京堂出版)」他を参考に私見を含め解説していきたい。特に真田氏については、各地方の小豪族の領地支配の参考になると思います。

貫高制



土地の価値を計る単位として、石高と貫高がある。戦国時代にさかのぼれば、西国では既に石高制になっており、東国では貫高制が中心になっていた。しかし、量る升等各地方により大きさが違ったりして、正確な領地の把握は「太閤検地」を待たなければならない。

 そもそも貫高制とは、土地の穀物の取れ高を何貫文と銭で評価した物である。わかりやすく言えば、石高制は現物表示、貫高制は銭で表示と言うことだ。兵役の割り当てには、この貫高制の方が当時計算がしやすかったという事情もありそうである。

 この貫高制は、良く大名(武田や北条)の当時の記録などにしばしば登場する。当時の東国の常識と言っても良いと思う。ここで武田信玄から発給の文書に天を紹介する。

 天文十八年(1549)に真田幸隆は望月源三郎に武田信玄からの朱印状を渡している。これは信玄が源三郎に対して七百貫文の所領安堵を約束した朱印状である。この源三郎は武田信虎が滅ぼした望月氏の生き残りで、武田氏帰属後は望月信雅として信玄の弟信繁の娘婿となり、武田家御親類衆に列せられた人物である。これが、武田家において真田幸隆が最初に登場する文書になる。

 その翌年(天文十九年)には信玄から幸隆に対して以下の約束状が発給されている。

「その方年来の忠信を喜ばしく思っています。そこで本意を果たした暁には、諏訪形で三百貫文、横田氏の旧領地と合わせて一千貫文を進上しましょう。」

 これは、信玄が幸隆に対して村上義清を滅ぼした暁には一千貫文を与えると約束した書状である。実際のちに幸隆が、信州小県の天文二十年(1551)に砥石城を奪ったときにその約束は果たされている。

また、戦国大名は合戦のことばかりクローズアップされるが、軍人と同時に政治家でもあった。北条氏康の場合など、通貨の流通を安定させる「鐚銭流通の禁止令」なども出されていて興味深い物である。

 この貫高の石高への換算であるが、後北条氏の記録におおよそ一貫文が四石としてあるので紹介したい。皆さんのなじみある石高に直してみて下さい。

貫高制に基ずく軍役



この貫高制に基ずく軍役も詳細に定められていた。後北条氏では、五十貫文に付き五人(騎馬武者1人、旗持1人、鉄砲持1人、槍持2人)と決められていた。その他非戦闘員として馬の口取り一人、鎧櫃持1人で計七人の行列となる。

 ここに、上杉謙信が越後国衆にかした軍役が分かっているので紹介したい。総動員数は五千五百人、内武将クラスは39人、騎馬武者は556人である。以上が戦闘員で、その他小荷駄、陣夫の非戦闘員で構成されていた。総人数は、一万の兵を動員したとか表現された文書を拝見するが、実際の戦闘兵力はその半分ぐらいにとどまっていたのではないか。

 また、兵糧であるが1日一升の玄米が支給されたことが当時の文書で確認できるが、また、乱取り(遠征先での物取り)、人取り(人さらい)などもされていたようで、ものを盗む、食料を盗む、人をさらい売って金にする等も行われていたと記録にあるように、食料の支給も完璧という訳では無かったことがうかがえる。戦国の世というのは、歴史ドラマのように華やかな部分だけでは無かったのがよく分かると思います。

 ちなみに江戸時代の大名の兵役は、一万石に付き250人ぐらいであったようです。

後北条氏における検地政策


 後北条氏は、検地において5代伊勢宗瑞、北条氏綱、氏康、氏政、氏直の百年、一定の貫高で検地していたようです。その内容は、

1.一反あたり基準貫高を、田地五百文、畑地百六十文(秋成百文・夏成六十五文)としていた。

2.検地奉行を派遣して郷ごとに検地を実施し、田畑面積×基準貫高・郷別の貫高=検地高辻を決定していた。

3.検地高辻より引方(公事免、堤免、井糧、代官給、定使給などを除き定納高=年貢高を算出して、年貢増分は北条氏が没収していた。

4.永正十七年(一五二0)小田原、鎌倉周辺、天正十一・十二年(一五四二・四三)相模国中部、武蔵国南部で検地がおこなわている。これは代替わりの時と同じ年で有り、前者は、宗瑞から氏綱へ、後者は氏綱から氏康へ変わったときである。

 次に検地を記録した文書であるが、「役帖」には「検地辻」「検地増分」「検地増」「増分」「検見辻」などが記載されている。これらにはほとんどに干支が記されていて年代がはっきりしている。

(1)初見が、永正三年これは伊勢宗瑞の代に行った検地だと思われる。この役帖の記載は二つしか無く、一つが小田原衆南条右京亮の所領で「八十一貫九百文」西郡宮地 此内廿三貫三百文とあるのと、北条氏家臣遠山直景の菩提寺延命寺への寺領寄進状である。
(2)次が永正十七年で、これは宗瑞死去に伴う、氏綱に代替わりしたときと思われる。これは相模西郡一帯と鎌倉寺社領で実施されている。

(3)天文元年の検地ではすべて相模国内で、三浦郡浦郷、西郡沖之郷、中郡落畑、東郡本郷木曾分で、四ヶ所とも「増分」があるのが特徴である。

(4)天文五年の検地では、江戸柴崎一跡丸子分と江戸一木貝塚の太田大膳亮所領の二カ所が見える。

(5)天文十一・十二年の検地は、氏綱が死去して氏康へ代替わりしたときである。これは、代替わりに伴う領域検地であると思われる。

(6)天文十九年の検地は、一カ所しか記載がない。これは個別的見地であると思われる。

(7)天文二十一年の検地は、今井郷・西郡今井郷の二カ所の検地である。

(8)天文二十二年検地は、深大寺屋敷分・符田郷新倉与七郎分の江戸廻りから多東郡にかけての三カ所と、東郡吉岡の一カ所が見られる。

(9)弘治元年の検地は、川越三十三郷・入東郡・入西郡・比企郡・吉見郡と言った武蔵国中部における領域検地である。川越夜戦に勝利した氏康は、上杉方の拠点松山城まで接収した。其の新領地の検地である。

(10)弘治二年、弘治三年、永禄元年の検地は、伊豆月ヶ瀬、西郡吉田島、川越仙波日影分の一カ所ずつであるので、個別検地と思われる。

 この後北条氏の検地記録を見ると、年代において領土の範囲が広がっているのが分かると思います。また、個別検地においては田畑の開墾などにより、生産量が増えたと思われる所を検地していったのかも知れません。代替わり以外の検地は、新しく領地を接収したときに行っていたようです。

 これは戦国大名後北条氏が、領国統治において他の関東の諸氏より進んでいたのではないでしょうか。他の関東の諸氏においては、相変わらず自己申告制で貫高を決めていたようです。

 この検地をもとに軍役も決められていたことを考えると、非常に重要な事柄だと思います。後北条氏に関しては、五十貫文に付き五名の兵役を課していたようです。これに非戦闘員で馬の口取り、鎧櫃を背負う人を加え、だいたい七名になっていた。また、寄親からの命令で近材で徴兵される足軽なども伴っていたでしょうからさらに人数は多かったでしょう。

一揆と地衆


 一揆とは江戸時代の百姓一揆のことでは無い。鎌倉時代から室町時代全般にかけて、同族により一つのグループを作り一つの勢力を作っていた。代表的なものに、藤氏一揆、白旗一揆、平一揆などがある。藤氏一揆は、藤原の流れを汲むものが集まって一つの集団を作っていた物です。この吾妻の伝説の人、吾妻太郎藤原の行盛もその一人である。それに関東管領で上野守護の上杉氏も藤原勧修寺家の出であるので同族と言うことになるし、秋間の斉藤梢基も藤原の系統である。白旗一揆は源氏である。源平合戦の頃、白旗は源氏、赤旗は平氏と言うことでこう呼ばれていた。平一揆は自ずと知れた平氏出身者の集まった集団である。これの代表が秩父平氏を中心に固まった、武蔵七党であろう。白井の長尾景春が山内上杉氏に対して反乱を起こしたとき、秩父の入口の鉢形城で挙兵したのは長尾氏が平氏で秩父には長尾氏の飛び地(領地)もあり、鉢形城の奥、山間部には多くの秩父平氏が居たのも根拠となっている。これをきっかけに、関東の旧態の統治制度は崩壊していく。
 地衆とはその地域の大小豪族が固まり一つの集団を作り、その中から盟主を立てゆるい関係でまとまって他地域の侵攻を防いだり、有利に事を運ぼうというグループである。この吾妻では、「三原衆」「岩下衆」がある。この二つの集団が、永禄の頃の対立の火種となったのである。前項では小田原の後北条氏についての領地統治を簡単に説明下のあるが、未だこの吾妻では半農半士の者達が固まっていたに過ぎないのが分かろう。この地衆がゆるいつながり故、武田氏が吾妻に攻め入ってきたときには多くが武田側に付いたのではないか。地衆と言っても、その個々の人達は領地を安堵してくれればどちらえでも転ぶ、つまり江戸時代の封建制のような考えでは無いと言うことです。