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 斉藤憲広と鎌原氏

 斉藤憲広が家督を継いで岩櫃城主となった時期は不明であるが天文年間であたろうと考えられる。妻は不詳であるが四人の子供があり、長男をを斉藤太郎憲宗、二男を四郎大夫憲春(または弾正左右衛門)次は女子で三島の地頭浦野下野守に嫁したが、のち羽尾治部入道に嫁いだ。末子を城子丸といい武山城に居らしめた。

 初めは、関東管領上杉憲政に属したがこれが越後に逃れると上州は群雄割拠の状態になり憲広も四方に領土を広げるようになる。この事が、沼田氏との不仲、鎌原氏とのいざかい、真田氏(武田氏)の侵略につながっていくことになる。
 三原庄の鎌原氏は、滋野一族で室町の中期ぐらいからこの三原庄を領地としていた。隣の羽尾の領主海野氏同じ滋野一族であるが斉藤氏と共同で、領土問題で鎌原氏と争っていた。追い詰められていた鎌原宮内小輔は、同じく同族である信州小県郡の真田幸綱(一徳斎幸隆)を仲介して、武田信玄の幕下と成って援を乞うた。信玄は、よくその旨を受け入れて、斉藤を討つ内示を出した。

 それを知って驚いた斉藤憲広は、羽尾入道と語らって鎌原城を攻めたが鎌原一族よくそれを守ってついに落とすことができず、和睦となった。そこで鎌原氏は子息越前守を甲府に人質に送って信玄の意向を聞きながら善後策を講じたのでした。
信玄は好機到来と大いに喜び、真田、甘利両氏に三千の兵をつけて大戸、三原の両口より岩櫃城を攻撃した。憲広は急をつかれ、援軍とてなく戦意を全くなくし「信玄にうらみなし」と言って善導寺の僧を中に立て和睦し、信玄の軍門に下ったのです。
 永禄四年十月下旬憲広は、羽尾道雲、海野幸光、富沢庸運、湯本善大夫、浦野下野守等の鎌原の一族を味方に誘い、六百騎を持って鎌原の城を攻めた。鎌原の兵は三原の赤羽の台に出撃してよく守ったが、大戸真楽斎の二百騎が万騎峠を越え、狩宿へ進出してくるという情報に接し、常林寺の僧を仲介に降伏した。
 永禄五年(一五六二)三月、信玄は倹史をだして羽尾、鎌原の境界を赤川、熊川の落合を限りと定めた。憲広はこの検地に満足の意を表したが、羽尾道雲は数代相伝の所領である古森、与喜屋などが鎌原領に成ったことに対して不満の色をを示し、憲広に訴えた。憲広は、その旨鎌原に伝えたが応ぜず、十月に成って鎌原氏は突如同地を引き払って信州佐久郡に落ちて信玄に苦渋を訴えた。そこで信玄は小県郡浦野領内において同高の地を与えた。
 かくして鎌原の所領はそのまま羽尾の手中に落ちたのであった。

 鎌原・羽尾合戦

永禄五年六月、羽尾道雲は万座の湯に湯治に出かけた。武田信玄の命を受けた真田幸隆は、その隙をうかがって居館を攻めこれを奪還してしまった。道雲は帰るにその家はなく仕方なく信州高井郷に落ちていった。
 道雲は同郷にあって、吾妻に帰還することを日夜画策し、ついに鎌原の老臣(親戚)の樋口二郎左右衛門を味方につけ、同年九月上旬五百騎をもって上信国境を越え三原庄に入り、米無山、石津の辺で戦ったが敗戦を喫し、憲広を頼って岩櫃城か平川戸に落ちていきました。
 かくて鎌原氏は武田、真田両氏の庇護を受け再び自分の居館に帰ることができた。
 信玄は謙信の憲広を助けるを非常に警戒し、信州より祢津、芦田、甘利の衆を派遣し、鎌原、長野原の二砦を堅く守らせ、ここを前線基地とした。かくして羽尾氏亡き後は鎌原、斉藤両氏の争いと成るのである。

 斉藤憲広、上杉謙信とよしみを通じる

 これよりさき道雲が信州高井郡へ落ちていった際、憲広はこのままの情勢ではとても信玄という大きな勢力に対抗できないと思い、上杉の一族である白井の長尾氏を通じて、越後の上杉謙信の配下となりその庇護の下信玄に対抗しようとした。
 そこで憲広は、白井城主長尾憲景の所へ、善導寺の僧、甥の斉藤弥三郎則実、唐沢杢之助の三人を遣わして、吾妻の現況を訴え、謙信に援助してくれるよう求めたのであった。
 長尾憲景はこれは謙信の吾妻にクサビを入れる好機であるとして、配下の中山城主中山安芸守景信に命じて謙信へ早速連絡するよう命じた。
 謙信は好機到来と非常に喜んで、斉藤憲広へ親書を遣わした。
 かくして斉藤、鎌原の争いは、上杉、武田の代理戦争と成っていったのであった。

 長野原合戦

 永禄六年(一五六三)九月下旬、武田の最前線基地長野原の要害には真田幸隆の弟常田新六郎俊綱を将として、信州勢が加勢として守備していた。
 憲広は白井長尾氏の援軍をえて八百騎の兵力を持って斉藤弥三郎、羽尾、海野を将として、王城山及び暮坂峠越しの二道より、この要害を責め立てた。ちょうど、城は農繁期であり、農兵はみな城をくだりて家にあったため、常田は意のごとく兵を動かすことはできなかった。城将常田はこらえきれず諏訪明神の前まで出陣し、須川、琴橋を切り落としてこれを防いだ。一方斉藤軍は王城山より大きな材木を切り落とし、須川を埋め立て攻め立てたのでついに常田は防ぎきれず戦死してしまった。城兵は、たまりかねて城を捨て鎌原の城に集結を余儀なくされた。