HOME > 真田氏統治

海野長門守幸光と能登守輝幸の誅伐

海野兄弟吾妻郡代として活躍


 海野兄弟は、信州滋野の流れで真田氏の一族です。父は、羽尾景幸と言い三原の庄羽尾に住し、同羽尾城主であった。兄弟は五人有り長男は幸世(羽尾入道幸全)、二男を海野長門守幸光、三男を同能登守輝幸、四男を郷左衛門、女は同じ滋野の一族である大戸の大戸真楽斎(浦野氏)の妻となった。

 海野兄弟は剛勇で知られていて、特に輝幸は強弓を引き、荒馬を乗りこなし、更に新当流の使い手であったようである。若い頃上原能登守と名乗り武田に仕え、晩年羽尾に帰ったと伝わる。

 兄弟は、永禄の頃より斉藤憲広に仕え岩櫃城ないで屋敷を与えられていた。現在の殿屋敷と呼ばれているところは、長門守の屋敷跡だと言われている。

 真田幸綱(一徳斎幸隆)が武田の先陣としてこの城に攻め寄せたときに、鎌原、湯本、西窪、横谷、浦野、植栗などの諸将と共に海野兄弟は武田に与し、真田幸綱が岩櫃城を落とすと永禄九年に吾妻郡代となった。その配下は、前記の諸氏を除く地侍七十余騎を従えていた。吾妻郡代になった時海野長門守幸光は、五十四歳であったと伝わる。その後約十六年間真田のために、その生涯を捧げたのである。

 この約十六年間は、上杉、武田、北条の相剋の時代で、その間に信玄、謙信、幸隆の死等もありまさに激動の時代であった。

 武田勝頼は岩櫃城の戦略上の地位を重要視し、兄弟が堅固にこの岩櫃城を守ったのでその信頼も厚く、年頭の挨拶も免除したほどであったという。また、真田昌幸からも信頼が厚かったようである。

修験者としての長門守


 長門守は修験道を納め、その名を福仙院と号した。金剛院(現在原町の瀧峨山金剛院不動堂の院主)に師事し、祈願の道場を城中平沢に建て、永十貫文の土地を寄進している。厚く大峰(奈良県)を信仰し戦陣の間にも、鎧甲の上に頭襟(ときん)、鈴繋衣(ずずかけ)、袈裟を帯し馬上にあったと言われている。また、幸光は深く仏教に帰依して、敬神の念も厚かった。

 その事跡は

 一.長野原町雲林寺、羽尾宗泉寺の建立。

 一.鳥頭神社に鰐口奉納

 一.行沢観音堂の改修

 一.郷原薬師堂 幸光が持病の眼病平癒のため建立。

 一.郷原虚空蔵堂

 一.生馬観音堂、矢倉笹原薬師堂など

 また、切沢善導寺とも関わりが深く、幸光の娘を善導寺に葬ったようである。

海野兄弟没落の原因


 天正九年、沼田城に北条方が食指を伸ばしてきたのであった。このようなとき、昌幸は海野兄弟が岩櫃、沼田の両城を堅く守ってくれるならば吾妻一円は兄弟に与えると約定したのであった。

 ところが昌幸はその約定に反して郡内の諸処を給人に与えた。同年夏、長門守は違約であるとして家老渡利常陸介、佐藤豊後を使者として上田の昌幸に抗議した。昌幸は、鎌原、植栗、池田、浦野、西窪、横谷の七氏の領地を除き、その他の知は知行地として与える旨を約定してきた。

 十一月上旬、鎌原、湯本両氏は海野兄弟が北条氏に与して逆心のあること顕著である旨、前記七名の連判を持って昌幸に訴えた。昌幸大いに驚き、叔父矢沢頼綱に相談の上誅伐することに決めた。海野能登守の長男は、矢沢頼綱の娘をもらい三人の孫が居たが、「すぐに誅伐するべきである」と進言したようである。

 海野兄弟は、勇猛の士ではあるが態度が非常に尊大で、吾妻の諸氏の間で非常に評判が悪かったようである。多分この訴えの連署の諸氏に嫌われていたのではないでしょうか。

海野兄弟誅伐


 天正九年十一月二十一日、昌幸は弟壱岐守信尹に鎌原以下の諸将百八十騎と雑兵一千余人を付けて岩櫃城に向いしめた。同日正午頃岩櫃城に着陣し長門守の屋敷を包囲した。

 長門守幸光は老衰で目が見えなかったが、憤然として居間をのかず、すぐに鎧に身を固め、座敷にくまなく麻がらを散らし、音のする方へ三尺五寸の立ちを振って奮戦したが衆寡敵せず、居館に火を放ってはら十文字に腹かききって自刃した。

 幸光の妻(三十五歳)娘(十四歳)は越後が本国であったので、渡利常陸介はその場をのがすべく努力はしたものの、敵が十重二十重と取り囲んでいたので、なすすべもなく無情にも刃に掛けて殺害してしまった。

 岩櫃城落城伝説のところで述べている姫の宮伝説ですが 、基国公の時のことではなく海野長門守幸光の岩櫃城落城の時のことのようです。いつの頃か、伝説として間違って伝わったのではないのでしょうか。

 信伊は岩櫃の城に池田、鎌原、湯本をおいて同日夕刻吾妻を発って沼田の能登守を討つべく兵を進めた。能登守はこの事を察知して、無実を訴えようと子息中務太輔行貞と共に沼田城を脱出し、迦葉山に向い無実を訴えようとした。しかしその途中十二の森(女坂)において包囲され奮戦の末、父子差し違えて壮絶な討ち死にを遂げた。時に輝幸七十二歳、行貞三十八歳であった。

 この真田昌幸の海野兄弟誅伐は、封建制への移行期に起きた出来事で戦国末期の悲惨な事件だと思います。多分海野兄弟は、真田氏に従っていたが旧態依然のままの関係を維持しようとしていたのではないでしょうか。つまり半独立勢力として、吾妻の領主という立場を確保しようとしていたのかも知れません。この頃の諸氏は、被官化が進みこういう勢力が存在することが許されなかったのかも知れません。こういう時代の流れが分からなかった、海野兄弟の悲しい事件だったのかも知れません。この永禄九年は武田氏が滅ぶ前年で、武田の勢力の弱まった事を考え昌幸は自領の体制固めをしていたのでしょう。いずれにしても、この事件は、昌幸のでっち上げであった可能性も高いようです。また、海野能登の神の長男行貞の子は、後上原を名乗り沼田真田藩の家臣となっています。

織田信長の配下としての真田氏

武田氏滅亡後の真田昌幸


 天正十年(1582)三月武田氏は滅び、武田領の内駿河は徳川家康が領有した。甲斐、信濃、上野の旧武田領は織田の領有となり上野には、滝川一益が同年四月五日に甲府をたって厩橋城に着任した。このとき多くの書籍などに於て関東管領となったように書かれているが、一益が関東管領に就任した事実はない。このとき関東の諸将は、こぞって一益の元へ伺候したようである。このとき上信二国にまたがる領地を持っていた真田昌幸も、一益の元へ出仕してその幕下となったのである。このとき吾妻郡の諸将の内で、厩橋上の一益の元へ伺候したものは、大戸城主大戸直光(真楽斎と思われる)が見えるのみである。吾妻の諸将はおそらく大戸氏を除き、昌幸の幕下となっていたと思われる。

 この頃加澤記で、沼田城は北条氏が横領したように書いているが、武田の沼田城代で会った藤田信吉は越後に逃亡していることから、上杉景勝の物であった可能性がある。一益は甥の滝沢義太夫益氏を沼田城代とし、三国峠にて景勝軍と戦ったが敗れた。この頃昌幸は岩櫃城にいたようである。池波正太郎の「真田太平記」はこの頃のことより、物語が始まっています。

本能寺の変における関東



天正十年六月二日の明智光秀による謀反で、織田信長が殺された訃報は、同六月七日に関東に届く。滝川一益はこの事を諸将に知らせ、今後の援助と協力を諸将に頼んだ。滝沢一益は軍を西上させようとし、途中北条氏邦と戦ったが六月十九日神流川の戦いで北条氏直の援軍に敗れて軍をまとめて本領である伊勢桑名に引き上げていった。昌幸は信州佐久郡に真田信幸、禰津元直、矢沢頼綱の参照に兵を率いさせて一益の撤退軍を援護させた。一益はこの昌幸の厚意に感謝しつつ信州を去って行った。

 沼田城は、一益関東撤退によって空き代同然となっていた。それをいち早く察知した昌幸は、真田信繁(幸村)、真田信伊を出陣せしめ沼田城を取り戻した。

昌幸武田の遺臣を召し抱える

 真田昌幸は、武田氏滅亡後遺臣を多く召し抱えているその遺臣は

 小山田壱岐守(昌幸婿)
 原隼人の子 原三左衛門、原監物
 板垣修理
 内藤修理の子 内藤五郎左衛門
 瀬下若狭守
 大熊五郎左衛門
 加茂
 安中左近
 白倉武助
 丸山土佐守
 来福寺左京
 丸子三右衛門
 浦野源太郎
 室賀兵部少輔
 青柳清庵
 桜井勘左衛門
 小泉源五郎

・出浦対島守



信州更級郡坂城出浦の出身。村上一族で更級郡上平の城主となる。初め武田に仕え、その頃多くの忍びを預かる。武田氏滅亡後、海津城主森長可に仕えた。天正十年頃は上総守と言って功労があったという。天正十一年真田家に仕えるようになった。その後対島守と名乗り、天正十八年の小田原の役には忍城攻めにて武勲を立てた。後吾妻郡代、岩櫃城代など勤める。現在岩櫃城祉の殿屋敷の東側に出浦淵という地名有り、そこが出浦氏の屋敷跡と伝わる。原町顕徳寺はこの出浦氏建立の寺である。そこにある一番古い墓は、この出浦氏の妾の墓と言われている。

・半田筑後守


初め越後箕冠城主。長野信濃守の一家。次いで武田信玄に仕え、父は羽田治部右衛門と言い甲州のでである。武田滅亡後真田家へ仕える。若い頃長野采女と名乗り、信之に仕えた。後吾妻郡代となる。

・禰津


禰津一無斎は小県禰津城主であって、真田氏と一族である。武田氏滅亡後、昌幸の旗本となった。子孫は真田家重臣となる。その子七左衛門(後の伊予)が惣領で、二男が志摩守である。岩櫃城跡平沢の志摩小屋の地名の所は、禰津志摩守の屋敷跡と伝わる。志摩守室は信之のお局である。志摩守惣領主水は、大阪の役にて討ち死に。


上記の面々が、後の昌幸股肱の臣となり領国経営などに尽力したのは言うまでも無いが、昌幸が偉大な武将であり、知勇兼備の人であったのが伺えると思います。

 信長死後の真田氏

第一次上田合戦までの動向


 天正十年六月二日、本能寺に於て織田信長は明智光秀に攻められ横死した。それに伴い上野の厩橋城に拠った滝川一益は、神流川に於て北条氏直と戦い敗走し、上方へ退去した。

天正壬午の乱


 そして、北条氏は甲斐、信濃に攻め込み天正十年七月十二日小諸城を落とした。武田の遺臣と真田昌幸は、北条に使者を使わし北条氏の軍門に加わった。徳川家康は甲斐に於て北条と対峙し、膠着状態となった。そのとき真田昌幸は徳川型に鞍替えし、上田城を築城するのである。。天正十年十月二十日徳川と北条は和睦して、甲斐の都留郡と信州佐久郡を徳川に割譲し北条は上野を取ることとした。その代わり北条は、利根、吾妻の二郡を北条のものとする約定をするのである。

 それに伴い徳川家康は、真田昌幸に対して利根沼田と吾妻岩櫃城を北条へ渡すよう支持し、その大が愛知については後日信州の内で与える旨を伝えてきた。これを不服に思った、真田昌幸は二男信繁を上杉景勝の海津城に人質として差し出し、上杉に従ったのである。ここに徳川と真田の第一次上田合戦が、行われることになる。この戦いは、承知のごとく真田昌幸の大勝利に終わる。

秀吉の台頭


 第一次上田合戦以降、昌幸は秀吉との関係を深くしていく。関東の雄、北条氏は信長の死後上野に食指を伸ばし、昌幸の領地である吾妻利根の二郡も伺うようになる。徳川家康は豊臣秀吉と敵対し、北条と同盟をする。一方家康から上杉景勝に乗り換えた昌幸は、上杉と同盟関係にある豊臣秀吉に近付いていく。

 北条の氏邦は、厩橋に進出して吾妻利根二郡を攻めようとしていた。しかし、吾妻は岩櫃城を始め郡全体が自然の要害をなしていて、攻めずらい地形をなしていた。天正十七年秀吉の調停により沼田城に入るまで、八年の長きにわたり攻勢を掛けてきた。しかし、いずれも沼田城代矢沢頼綱の武略により三度までも北条勢を撃退した。

 第一回目は、天正十年六月滝川一益が西上するや氏邦は白井の長尾氏を先方として、吾妻、利根に同時侵攻を開始した。そこで昌幸は岩櫃城を吾妻郡の根城として、北条を迎え撃った。岩櫃城には昌幸の叔父矢沢頼綱と長男信幸をいれ、吾妻の防備を固めた。しかし、北条の狙いが二郡の同時侵攻と知ると頼綱を沼田城の向わせた。頼綱は沼田城を良く守り、北条の侵攻を食い止めたのである。

 八月下旬北条氏は、白井長尾氏と内藤氏をして岩井堂城、柏原城を攻めたが真田は良く守り小競り合いに終始した。

 北条は攻め口を変え内藤、富永を将として多目、富永、小幡、半田を副将として五千騎を持って大戸手子丸城に攻め寄せた。大戸城主大戸真楽斎と弟の但馬守は、城を出た三の倉で迎え撃ったが衆寡敵せず、退いて大戸手子丸城に籠城したが、ついに城は落ち大戸兄弟は壮絶な討ち死にをした。北条勢は即日入城して、岩櫃城攻撃の準備に当たった。

 のど元に合口を突きつけられた岩櫃城主真田信幸は、弱冠ではあったが出浦、木村の策を入れ、鎌原、湯本、浦野、横谷、大熊の諸氏八百騎で大戸城に攻め寄せた。信幸は仙人窟に陣城を構え大戸手子丸城の攻撃を開始した。地の利を知り尽くしている真田勢は、激戦の末勝利をものにした。

 翌十月昌幸は上田城より岩櫃城に到着し、その戦況を信幸より聞き大いに満足し諸氏に盃、感状を与えたのです。

小田原の役と吾妻、利根地方

北条名胡桃城を奪う


 天正十七年十月、北条氏直は豊臣秀吉の調停を無視して突然、名胡桃城を攻め落とした。これがきっかけとなって、豊臣秀吉の小田原征伐となったのである。当時の名胡桃城主は鈴木主水であった。北条方の沼田城主猪俣邦憲は、鈴木主水の妻の弟、中山九兵衛を利を持って懐柔したのである。

 猪俣は中山に対して、「お前は世が世なら中山城主たる身である。もし兄で鈴木を討って小田原に忠節を尽くせば、中山の本領はもちろん名胡桃・小川の領地までも与えるであろう。」この奸計に乗った中山九兵衛は、鈴木主水に偽の書状(上田の真田昌幸が、上田に来るようにとの書状)を渡して、「私がこの城を守っているから、兄上は安心して上田に向われよ。」言い、鈴木を上田に向わせた。

 鈴木の留守を狙い、北条沼田勢は名胡桃城から進軍が見つからないように権現峠城を経由して、名胡桃城に攻め寄せた。中山九兵衛は、北条の手が来るやいなや大手の門を開けて功城軍を城に招き入れた。そのため城はたいした抵抗のないまま、落ちてしまったのである。

 一方鈴木主水は、上田の途中岩櫃城に立ち寄り、そこの城代矢沢薩摩守頼綱に上田に呼ばれている事を告げた。頼綱は「これは敵の謀略である。」と主水に「すぐに名胡桃に戻るように。」と兵百騎を付けて名胡桃に向わせた。しかし時すでに遅く、城は北条勢は名胡桃に千騎の兵を入れ乗っ取り、牛のくそ、雨乞山まで兵を配置して近づけない。

 鈴木主水はやむなく沼田正覚寺に入り猪俣に会い、降伏したように見せかけこれを殺害しようとした。しかし顔色を見て悟られついに、正覚寺の庭先において無念腹という立ったまま腹を切って自害したのである。

矢沢急を上田に報告する


 岩櫃城代矢沢頼綱は、十月二十七日庄村右衛門尉、佐藤富之丞両名を上田に派遣したのである。当時昌幸は上京中であったので、信幸が上田城を守っていた。若く血気盛んな信幸はすぐさま名胡桃城を奪還するべきと一族家臣に図った。しかし一同は昌幸が上京中であるので慎重論が多勢を占め、まず岩櫃城に援兵を派遣することになり、祢津入道、鎌原、川原等五百騎を岩櫃に向わせた。そして、春原勘介、浦野兵部を使者として京都に向わせた。

 岩櫃城の矢沢頼綱は、北条軍の侵攻に備えて祢津幸直、鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、川原、横谷、西窪の諸氏と吾妻二十五騎の面々にも厳重なる命令を下し、籠城の体制を取った。

北条氏の岩櫃侵攻


 天正十七年十二月中旬、北条氏区には白井城に入城し、ここから吾妻郡侵攻を開始した。その数は一万とも言われ、箱島、小野子口、大戸口、中山口、大道口の五道から侵入しようとしていた。一方矢沢は、それぞれの出城にて敵をあしらいつつ北条勢を吾妻郡内におびき寄せ平川戸の館の内(吾妻川と山田川の合流地点)の断崖におびき寄せて、殲滅しようとする壮大な作戦を立てたのである。

・北条軍

 小野子・柏原口 長尾左衛門尉
 大戸口     多目周防守・内藤丹波守・小幡上総介・祢津□軒入道

 約五千騎

 大道口     留長助重等

 三百余騎

 中山口     猪俣(邦憲の子)・高力左近・竹内権八・山室助右衛門尉

 五百騎

・真田軍

 岩櫃城     矢沢頼綱・祢津利直・鎌原重幸・池田重安・植栗元信・浦野幸景
         その他信州の援軍

 市城口     祢津入道・鎌原・日置五右衛門尉

 七百余騎

 大戸口     真田昌君・池田・浦野

 六百騎

 中山口     祢津助右衛門尉・主膳兄弟・植栗

 三百騎

 大道口     川原左京・湯本

 二百騎

 十二月二十日頃、まず長尾勢が市城口より攻め寄せ、岩井堂の砦を破って乱入した。守備の兵はかねてからの作戦通り、中之条まで退却した。一方伊勢町小城の真田勢は、その側腹より只則の原へ出て長尾の兵と交戦した。他方中山、須川口の守りである横尾八幡の要害には北条勢の富永が、鉄砲を撃ちかけたがまもなく法螺貝を吹き須川まで撤退した。
 明くる天正十八年には北条勢の長尾勢が、小城を占領したが程なく真田軍が奪還した。
 この北条軍の吾妻侵攻が積極的に行われなかったのは、すでに京より豊臣秀吉による小田原征伐の情報が届いていたからである。

 ここで、矢沢頼綱と林昌寺について少し書かせて頂きます。林昌寺はおよそ五百年前の文安年中僧長馨の開山の寺である。戦乱のため大破したので、文禄三年(1594)矢沢頼綱が再建して真田氏の信仰が厚かった寺である。その昔は川原町に創建されたが、その後長岡の地に移転し、寛永元年町の移転に伴い現在地に移ったようである。現在の中之条町の町割は、矢沢頼綱の子但馬守の町割と伝わっている。矢沢氏についてであるが、矢沢頼綱の墓は上田市横尾の信綱寺にあるが、この林昌寺の場所も横尾である。これは何か関係があるのかも知れない。詳しくは中之条郷土誌を参照されたい。

小田原の役


 豊臣秀吉は天正十八年(1590)三月一日京都を発って小田原に向った。徳川家康、織田信雄は東海道より、前田利家、上杉景勝、真田昌幸は信州より上州方面へ、脇坂、九鬼、加藤(義明)、長宗我部らは水軍を率いて駿河清水港へ向う水陸両道より二十万を越える兵力による壮大な侵攻作戦である。

 四月三日、秀吉は有名な石垣山城を築き小田原城を長期包囲する作戦に移った。機内、中国、四国、九州を平らげた秀吉はもはや西には敵が居らず長期戦が可能だったのである。一方小田原の北条氏は、以前上杉謙信、武田信玄に攻められた時もびくともしなかった小田原城を頼り、籠城作戦に出たのである。しかし、包囲は四月より七月まで続き、関東の北条方の諸城は次々に落とされていった。万策つきた北条氏政、氏直はかの有名な小田原評定を続けていた。

 それに先立つ天正十七年十一月二十一日付けで、秀吉より昌幸に小田原征伐の内命があった。昌幸は岩櫃城に兵五百騎を増援し、岩櫃城代矢沢頼綱を中心に北条に備えたので、北条方も積極的には動かなかった。

 十八年三月下旬、東山道の総大将前田利家より案内を依頼された昌幸と信幸は、麗砂塚峠を越え鎌原に進出した。そのときの諸将は、信州の諸氏と利根より信州に集結を命じられた沼田の諸氏が中心であった。そしてついに昌幸は吾妻衆の小田原参戦部隊に出動を命じたのである。

 岩櫃城の留守部隊は、城代矢沢頼綱を中心に山田与惣兵衛、池田甚次郎、川合八左衛門、山遠賀五左衛門、蟻川入道等の諸氏が当たりその他は小田原参戦部隊に組み込まれた。鎌原から岩櫃に指示を与えると、小田原参戦部隊の諸氏はすぐさま出陣して大戸を抜けて松井田の北方細永原に集結した。昌幸も間髪入れず、浅間の麓より碓氷郡川浦の近道を抜けて吾妻衆と合流した。

 この松井田城の攻防はの吾妻諸氏の奮戦はものすごく、中でも割田下総、佐藤半四郎(折田軍兵衛)、富澤主水(和泉)の奮闘は身を見張る者があった。特に富澤主水は敵の副将由良信濃守を鉄砲で狙撃し、これを倒すという殊勲をあげ昌幸より感状と銘刀並びに金一封を賜っている。

 松井田城の攻防は翌月の四月二十日まで及んだが城はついに落ち、城将大道寺は降伏し後小田原で切られた。東山道軍は勢いに乗って安中城を抜き、更に四月二十四日西上州北条の最大の拠点箕輪城も、落とした。更に長尾政景の白井城を渋川方面より攻撃してこれを下し、政景は越後に逃れた。沼田城の猪俣は、いち早く沼田城を逃亡していたのでそこに富永助重を入れた。五月二十七日館林城を落とし、ついに上州三十八城北条方の諸城はすべて陥落したのである。

 東山道軍五万数千は更に、六月十四日北条氏邦の守る武州鉢形の城を陥落させ、同二十三日には八王子城を抜き、小田原城に迫った。

 秀吉は翌二十四日北条に対して降伏を勧告し、七月五日ついに小田原の北条氏政、氏直は降伏して天下の巨城小田原城も落城したのである。氏直は家康の娘婿と言うことで、高野山追放し、氏規もこれに従わせた。氏政、氏照は切腹となった。早雲以来、約一世紀続いた北条王国はここに完全に滅亡したのである。秀吉は関東の地に徳川家康を封じ、ここに小田原征伐は終結して、秀吉の天下統一がなったのである。

沼田藩の成立

小田原の役の後の利根・吾妻


 天正十八年関東王国を誇った、後北条氏は小田原の役で滅亡した。豊臣秀吉はこのときの昌幸の戦功により、利根、吾妻、信州上田の領有を認めた。晴れて昌幸は、豊臣大名として独立したのである。

 昌幸は上田に会ったので、沼田城は長子信幸に与えて二郡二万七千石を領有させた。この沼田藩は、天和元年十一月その孫伊賀守信澄(信利・信直)が徳川綱吉によって改易になるまで、五代九十一年の間、真田氏による沼田統治が行われた。

 慶長五年の関ヶ原の駅においては、信幸は東軍徳川家康に付き、昌幸と弟信繁は西軍石田三成に着いた。父子分かれた戦いは東軍勝利となり、信幸はその功により六万三千石(昌幸の旧領上田)を加封された。

 一方敗れた昌幸と弟信繁(幸村)は、信之(関ヶ原の後改名)の助命嘆願により高野山九度山に蟄居を命ぜられた。信之は父の遺領と共に、沼田も二万七千石から三万石に加増され、合計九万石の地を領有する事になったのである。

 慶長二十年五月の大坂夏の陣では、信之は出陣せず信吉と信政を大阪に向わせて、大いに戦功があった。特に豊臣に組みした真田信繁は、島津に「真田日之本一の強者なり」と言わしめるほどの武功をあげたのである。

 戦終わって元和二年、信之は上田に入り、沼田は長子信吉に統治させたのである。

沼田統治下の岩櫃城


 天正十八年の小田原の役には、岩櫃城は北条氏との最前線基地としての役割を果たした。現在残る岩櫃城の遺構は、このとき拡張されたものだろう。それ以前は、志摩小屋の虎口あたりが城の北端だったと思われる。

 小田原の役後は、吾妻統治の中心となったのである。この城に城代を置き、吾妻郡奉行所をこの城においた。城代は、池田佐渡守や出浦対島守などの名前が見える。現在の出浦渕は、出浦対馬守の屋敷跡と伝わる場所である。関ヶ原の役においても北国の押さえとして、重要な役割を担っていたと思われる。

 大阪の役で豊臣家が滅び、徳川の天下が確定した後野岩櫃城はその役割を終え、一国一城令と共に元和二年破却された。このとき城の主要部は城割によって、作事され城としての機能も失われたと思われる。このとき吾妻の中世以来の城郭も破却されたのではないでしょうか。

 元和二年岩櫃城破却までの二十年間は、出浦対馬守が城代として吾妻の地の統治を任されていたようである。現在吾妻、松代に残る古文書により確認できる。岩櫃城破却後は、「原の新町字御殿(現在の日赤病院)」に原町陣屋が設けられ、一郡の政務を取り仕切っていた。現在の原町日赤建替え前には、この病院の西側に石垣と水路があり当時の面影が残していた。また、上田、沼田を信幸が往来するときに宿泊する御殿も隣接して立てられ、これが語源となって地名となっている。

関ヶ原の戦いと岩櫃城

会津征伐


 慶長三年(1958)豊臣秀吉は亡くなり、天下の実権は五大老筆頭の徳川家康に移ろうとしていた。五大老の一人上杉景勝は、秀吉没前越後から会津に移封になり秀吉没後に新領地の統治を固めるために、会津に下っていた。

 家康は、度々景勝に対して上洛するように命じたがその命を聞かず、家康に対して反抗的な文書を送ってきた。「直江状」である。

 家康はついに伏見を発ち、慶長五年(1600)七月二十一日江戸を出発して上杉討伐に向った。徳川軍と合流すべく、その頃真田昌幸父子は、栃木県佐野の犬伏に到着していた。この真田の陣に石田三成から、密書が届き西軍加担を誘った。父子三人は犬伏において軍議を開き、協議の結果昌幸、信繁(幸村)は秀吉の恩顧を主張して西軍、信幸は家康の恩顧を主張して東軍に付くこととなった。

真田の関ヶ原


 昌幸、信繁(幸村)は七月二十九日急拠上田に帰陣することとなった。上野に入った昌幸は、沼田に到着した。沼田は信幸の留守を小松姫が預かっていた。昌幸は沼田城を占拠するつもり居たようだ。昌幸は使者を城内に使わし入城を申し入れた。しかし気丈な小松姫は、「たとえ舅であっても今は敵味方である。」と入場を拒否して、城下正覚寺を宿舎としその労を厚くねぎらったのである。

 かくして昌幸は沼田入城を諦め、赤谷川から須川へ出て大道峠を通り岩櫃をさけ沢渡に出て、暮坂の手前から高間を抜けて横谷に出た。此処の地は吾妻峡の天険を守って、横谷左近が居住していた。昌幸と左近は、永禄以来深い関係であったので、昌幸の軍隊の吾妻通過を格別に便宜を図った。これに感謝した昌幸は、左近に感状を与え、礼として松尾村と林の一部で九十貫文の土地を与える書き付けを与えている。この書き付けの日付が、慶長五年八月一日になっているので、おそらくこの頃此処を通過したと思われる。また左近の弟庄八郎重氏はこの時昌幸に従った。

 昌幸は長野原から大笹を抜け鳥居峠を越えて、無事に上田に到着したのである。ここに、第二次上田合戦となるのである。昌幸は巧みな戦術で三万八千にも及ぶ徳川秀忠軍をわずか三千で翻弄し、秀忠軍を関ヶ原の合戦に間に合わせなくしたのであった。

 しかし、天下分け目の関ヶ原の合戦は徳川方がわずか一日で勝利し、西軍は敗れて昌幸、信繁は高野山に流罪となったのである。おそらく昌幸は、関ヶ原の合戦がもっと長引く物と思っていたのかも知れませんし、また世は戦乱に戻ると昌幸は見ていたふしが見える。昌幸の領土拡大の野心は、未だ衰えては居なかったようである。

 そして信之は、家康により沼田に五千石加増になり三万石、上田(昌幸旧領)六万石と合わせて九万石の大名となったのである。この信之の真田家はその後松代十万石に転封になるが、明治の廃藩置県の時まで生き残るのである。
 この親子分かれて東軍、西軍に属し戦ったことであるがどちらが勝利しても良いようにわざと分かれたとの説もある。真田家だけでなく、田の大名でもそう言う例が存在しているのであながち嘘では無いような気もするのである。

関ヶ原の戦後処理

先駆けの軍令違反の処理


 牧野康成(大胡城主)及び旗本七騎が上田合戦の軍令違反により、岩櫃城に幽閉されたとある。牧野康成は、この忠政とその部下が軍令に背いたことにより岩櫃城に幽閉された。数ヶ月の後に罪は許されたのであるが、その後も岩櫃城にとどめおかれ慶長九年三代将軍家光(竹千代)誕生による大赦により許され五年ぶりに大胡に帰ったとある。

 上田七本槍とは、小野次郎左衛門忠明(柳生但馬守と共に将軍家剣術指南役、後に失脚)、鎮目半次郎惟明、中山勘解由照守、土田半平光正、辻左治右衛門久吉、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣長の七人である。翌慶長六年四月には、戸田半十郎重安も岩櫃城に送られた。旗本では軍令違反で、この八人が岩櫃城に送られたようである。軍令違反の罰として岩櫃城の守備を命ぜられたことは、興味深いことである。

 この事についての伝説が二つあり、「修験岩櫃語」等に記されているので紹介したい。

1.八人岩屋の伝説(修験岩櫃語)


 白いの鉄砲隊の者達はその新兵器を自慢して、この山の天狗であろうと鉄砲の前にはどうすることも出来ないであろうと誇示した。ところが不思議のことに山中がしきりにあれてきて、その夜の内に八人が取り殺されて、岩屋の内に投げ込まれてしまった。今でもそこには白骨があると言われている。そこを八人岩屋といって土地の人は恐れをなしている。

 これはこの八人の旗本が幽閉された岩屋のことが、誤って伝わったものであろう。

2.妖怪の出没(吾妻記)


 この頃岩櫃山はことごとく荒れ、光り物などが飛び渡り、大石、大木などをなぐる音が絶え間なく聞こえてきた。また千人ばかりがいっぺんに笑う声などがして、ものすごい有様であった。そうして多くの人々が絞め殺されたり、その他不思議なことがあって言葉では言い尽くせない。

 この伝説は、昌幸が自分に味方する武士、百姓達を集めて岩櫃城を背後から撹乱したゲリラ戦法のもようが、伝説的に伝わったものであろう。

 こういう伝説の中にも、真実が隠されている。伝説がすべて絵空事として捉えず、こういうものの中からも歴史的事実が抽出出来るように思います。

3.現在に残る地名


但馬屋敷   深井但馬守の居住したところと伝えられている。

祢津曲輪   祢津志摩守幸慶の屋敷のあったところと言う。現在の水曲輪で、祢津曲輪が「みずぐるわ」となまって現在に至っている、と伝わっている。

 この祢津志摩守の屋敷跡と伝わる一説であるが、現在管理者が遺構周辺を見た感じだと、志摩小屋の虎口の南側に屋敷跡と思われる平場があり、その反対側(沢を隔てて)現在の水曲輪の平場の一郭に土塁の跡のある遺構がある。想像するに志摩小屋の平場と、水曲輪の平場が木橋などで繋がれ、その二郭が一つとなって祢津志摩守の屋敷跡として岩櫃城の防護の一郭となっていたのではないかと思われる。(管理者意見)

道秀曲輪   これは桜井道秀という医師の屋敷があったところと伝わるところである。ここは沢の名前が、どしょう沢として地名が残っている。(管理者未確認)

 以上、伝説や地名の解説をした。このように伝説の中にも事実が隠されており、伝説だと簡単に片付けられないと思います。また地名についても、多くのことが残されている。その小字、またはもっと狭いところの地名も時代と共に忘れ去られようとしているのは残念なことである。こんな事、在所の名前にも時代のヒントが隠されているのではないでしょうか。

戦後処理


 関ヶ原の戦いの後、昌幸、信繁父子は死罪と決まった。しかし、長子信之の歎訴に拠って死罪を免れて紀州九度山に蟄居となった。はじめ高野山に蟄居だったのが、昌幸の奥方山の手殿や信繁の奥方竹林院(大谷刑部吉次の娘)をともなっていたため女人禁制の高野山には入れず、やむなく麓の九度山となったと思われる。ここに置いて昌幸は十一年の後、慶長十六年六月多彩な一生を終えた。このとき信繁に、大坂豊臣家勝利の秘策を授けたとも伝わっている。一方信繁は、大阪の役の折、豊臣秀頼の招きに応じ大阪城に入城。真田丸の構築により徳川軍を撃退するなど、最後の死闘を繰り広げ慶長二十年(元和元年)五月、徳川家康の本陣を脅かすもついに壮絶な討ち死にを遂げた。その武勇は薩摩の島津家をして、「真田日本一の兵」と言わしめた。

 一方信之は沼田二万五千石を三万石の加増と共に、上田三万八千石を加増されて沼田上田を合わせ領有するようになった。

 なほ岩櫃城は、ある時期まで徳川の管理下に置かれていたのだが慶長六年四月以降真田に返されたと思われる。

岩櫃城廃城

大坂の陣と平川戸の市


 慶長十九年江戸の徳川家康と大坂の豊臣秀頼の間は風雲急を告げて、一触即発の状態であった。秀頼は太閤恩顧の大名に密使を送りその協力を求めたが、誰もこれに従う者はいなかった。大坂方は、やむなく諸国に散在していた浪人を集めた。それでもその浪人衆の中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、壇団右衛門など名だたる歴戦の勇士もおり、その数は十万にも及んでいた。

 そんな折、岩櫃城下の平川戸では室町以来「吾妻市」といって郡内一カ所の市が開かれておりなかなか賑やかであった。慶長十九年、吾妻市は盛大で城内に集まる在所の百姓、武士は、大手バンショウ坂、搦手の切沢口より集まり活発に交易が行われていた

 当時の沼田城主は真田伊豆守信之で、大坂にいち早くはせ参じた信繁実の兄である。信之を信用していた家康であるが、この事を考えると幕閣が信之を疑うのも無理からぬ事である。信之は痛くもない腹を探られるのを嫌い、当時の吾妻郡代で岩櫃城にあった出浦対馬守に命じ、平川戸の町を現在の原町に移すこととなった。対馬守は平川戸の町を絵図にして、原の新町の屋敷割りをして段々移した。

 当時の原町は田畑はなく、芝野であり、観音原といった。この頃の観音原に「いちようや」という名所があり、そこに「光原寺」という寺があった。この光原寺に立派な観音像があり、夜な夜な光を放っていた。土地の人達はこの寺を「光原寺」と呼び、また原の名も「観音原」といったという。この観音像は約七十五糧の正観音像で聖徳太子の作といい土地の人の信仰も厚かった。後原の新町が出来てからは顕徳寺内に移された。ちなみにこの顕徳寺は、出浦対馬守の建立と伝わっていて、現在でも出浦氏の過去帳が残されている。

岩櫃城の破却


 前記のように平川戸の町を、原の新町に移した後信之は岩櫃城を破却したのである。家康に疑われて岩櫃城を信之が破却したように記述する書もあるが、大坂夏の陣が終わると家康は一国一城令を出した。これに従い、信之は岩櫃城を破却したと思われる。

 吾妻の地には戦国の時代から多くの大小の城や寄居があったが、「小田原の役」の後、吾妻の地において昌幸は岩櫃城のみ残し、ことごとく破却していた。当時沼田藩の領地は、利根郡と吾妻郡でありそこを一国といっていた。そこで一国一城令に従い、沼田城のみ残し岩櫃城破却したと思われる。

 慶長二十年(元和元年)に破却を開始して、元和二年になり完了したと思われる。岩櫃城破却の後、原原町日赤の地に吾妻郡奉行所を新築した。この奉行所は、本殿と役所があり、本殿は信之が信州より沼田に行く際の休憩所として使われ、役所は吾妻郡の政治を司るところで沼田藩の吾妻郡奉行所のおかれたところである。現在その地は、「御殿」という地名で呼ばれている。この地名は、前述した通り奉行所に隣接した御殿(信幸の宿泊施設)に由来している。ちなみに原町バイパスのセブンイレブンのある信号は、「御殿」とその地名を明示している。この岩櫃城破却をもって、吾妻の地でも戦国の世が終了するのである。

おわりに


 岩櫃城廃城には諸説あり、慶長十八年、慶長十九年、元和二年とある。東吾妻町では慶長十八年説を取り上げ、原町町割四百年として催し物をした。しかし私は、元和二年を以て岩櫃城廃城とする説をとる。岩櫃城の歴史は、この元和二年の破却完了を持って終了する。このような山城は、封建の世になれば政治の中心としては不向きで必然的に現在の原町、御殿の地に移った物と思う。しかしその残った遺構から、その堅城ぶりはうかがえます。又廃城と共に城跡は、「御林」といって郡奉行所立ち会いで無ければ入れないところとなった。これは、城跡を反乱、一揆に利用できないように幕府からの指導の下管理されていたのではないか。実際に九州島原の乱に廃城となっていた「原城跡」を反乱軍に利用されて苦慮した事などを考えると、幕府によって厳格に指導がされていたのでは無いでしょうか。
 現在の岩櫃城の遺構は廃城による城割(廃城による破却)の後の遺構なので、その全容を見るには無理があります。藪の中に埋もれた遺構や、壊された遺構などからその城の作りを想像し城の全容を作り上げていくのもこれからの人に託された役割かも知れません。時間がかかっても、人手がようでもこれは地元の人達の役割であろう。現在において、城跡のみではなかなか観光資源にはならず、岩櫃山やその周辺を入れ登山、也自然観察など色々取り入れた活用が必要になるだろう。いずれにしても、行政と町民が一緒になって考えなくては前には進めないような気がする。