吾妻渓谷の新名所(猿橋)

 

吾妻渓谷へのアクセス

 
 

猿橋の再建

 
 猿橋は長さ十二間、幅十二条余りで三島、横谷村(現在の松上)の自普請橋である。橋材は猿橋御林と言うことは近在で調達し、掛替人足は千五百人。これは三島、横谷村では足らず、隣村の川原湯、川原畑村にも頼んだという。
 
 一番古い記録では、延享四年(1747)卯ノ四月「上州吾妻郡三島村横谷村信州往還刎橋御普請出来形帳」である。この延享の年代であるが、浅間山大噴火の天明三年(1783)の36年前のことである。おそらく浅間山大噴火の時の泥流でこの橋も流れてしまったと思われるので、わずか36年間しか架かっていなかったことになる。現在再建された猿橋については、大正時代に架かっていた位置といわれているのでこの橋の最後の位置となる。以後現在渓谷遊歩道となっている旧国道145号線が作られてくると思われる。中世よりこの渓谷は難所であり、容易に通行は困難であったろう。また、橋については江戸時代になってからかけられたと思われる。真田丸で脚光を浴びた吾妻であるが、その当時は道陸神峠はあったが橋は無かったようである。この猿橋は、三度にわたって掛け替えられ現在の位置となる。最初は、現鹿跳び橋のあたり、二度目はもう少しした、三度目が現在位置となる。新しくはあるが、大変趣があり平成29年3月27日午後より完成式典が行われ、午後3より一般のかたも開通となり、27日以降は吾妻渓谷には入れるようになります。

猿橋遠景

 
 

猿橋全景

 

猿橋の下

 

猿橋より渓谷上流

 この川は、元々鉄分が混じった酸性の川でした。この地の古老に聞くと「この川で泳ぐとふんどしが赤く染まった」そうです。八ッ場ダムの計画に伴い、中和工場が出来て石灰を混ぜて中和して現在の川の色になっています。現在ではこの渓谷でも、魚の姿が見えるのですが昭和30年代までは「死の川」と言われていました。八ッ場ダムの当初の計画は、この猿橋の少し上側に作る予定だったそうで、その当時試掘りした横穴がよく見ると確認できます。江戸時代、野口円心がこの渓谷に道を作りそれ以前は、渓谷を北に迂回して川原湯に抜ける道陸神峠がありました。人間が越えるのにも難所で、馬などとても通れなかったようです。この野口円心が空けた道ですが、旧JR道陸神トンネル手前より山に登ると道があり石垣などを確認できます。

 

猿橋より渓谷下流

 
 

 以上猿橋に関係する写真を5点載せてみた。紅葉時期には、また景色も素晴らしいので是非多くの方に訪れて頂きたい物である。