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参考文献:「加沢記」「戦国忍者列伝」「境界争いと戦国諜報戦」「忍者の歴史」他

忍びの起源と戦国期まで

忍びの始まりと戦国時代以前の忍び

 間諜については、「日本書紀」の記述に始る。

 推古天皇九年(601年)九月戊子八日「新羅の間諜の者「迦摩多」がやってきてたので上野の国に流した。と記されている。
その他大化二年(646年)、天武天皇元年(672年)と間諜についての記述が見える。
また、忍びの起源については「伊賀問答忍術賀士誠」に聖徳太子が甲賀馬杉の人、大伴細入を使って物部守屋を倒したことから大使が「志能便(しのび)」と名付けたと言うことが載っている。

 戦国以前のことについては、源九郎義経の郎党で鈴鹿山の山賊とされる伊勢三郎義盛が作者とされる「義盛百首」にある詩からも忍びの実際が伺える。

 敵にもし見つけられなば足ばやににげてかへるぞ盗人のかち

 ここに忍びの重要な任務が、敵国の情報を見方に伝えることであり、見つかれば足ばやに逃げるのを第一としていたのが分かると思います。

忍びの語源と意味、その呼び方

 忍び(しのび)とは、隠れて目立たないという意味である。

 楠流忍術書「当流奪口忍之巻註」では、奪口、透波、風間などとかかれる。また、「甲陽軍監」下巻六には「大敵切所を構、永陣ハ味方大ニ勝、吉事也。必ズ其国郷談、スッパヲ用イル事」とある。

 その他の呼び方は、乱破、草、軒猿、やまくぐり衆など地域によって様々なようである。

「武家名目抄」の第二にはすっぱらっぱについて、あまり身分の高くないの武士であったり、強盗であったりした者を雇い諸大名が忍びの役を担わせておいた存在であるという。また、「関東にては大方乱破(らっぱ)と称し、甲斐より以西では、透乱(すっぱ)とよひしとみえたり。」とあり、地域によってその呼び名が違っていたようである。

戦国時代各地の忍び

 忍びの名は、夜盗、スッパ、軒猿、三者、饗談(きょうだん)などがある。それは各地によって呼び名は違い、ラッパ、草などの呼び名もある。

 出雲の尼子一族の盛哀を記した合戦記「中国治乱記」には、天正九年(1540年)九月二十二日条」には「尼子ハ青山三塚ニ陣ドル。毛利ヨリノシノビ兵ヲ出シ風越山ノ勢ヲ切崩ス。」とあるように安芸国吉田郡山城の戦いの時、毛利方から尼子方へ忍びが放たれ、兵とあるように集団で軍勢として派兵されたのが分かる。

 日向国伊東裕堯(いとうひろたか)の文安元年(1444年)十月十四日「一揆契状」には「一揆を結んだからには、お互いの城に忍びを放つようなことをやめよう。」というような取り決めがなされた文書が残されている。ここで言う一揆とは、同盟を結んだことであるので江戸時代の一揆とは区別されて理解している。

 結城正勝が弘治二年(1556年)に制定した分国法「結城氏新法度」第二十五条には「草・夜業」についてかかれている。
ここで言う草や夜業と言った者達は悪党で、行動の敏速な者達である。

 越前守護朝倉孝景分国法「朝倉孝景条々」には、

・器用、正直名ものに命じて国内を回らせて、民衆がどのような話をしているか聞いてそれに政治に反映させよ。

・諸国に目付を置いて常に状況を伺うように。

と言うような二条、文が含まれている。また、目付とあるが戦国時代諜報活動など忍び働きをする者を束ねていた者は、目付と呼ばれていたようである。

後北条氏の忍び

・永禄五年(1562年)三月二十二日北条氏康伴持には、
「葛西の要害、忍びを以て乗っ取り上げ申し付ければ、ご褒美として知行下さるべき事。」とある。
「下総と武蔵との境にある葛西城を忍びによって乗っ取って、北条氏に差し上げることが出来れば褒美として曲金、両小松川、金町の領地、代物五百貫文を同類にあげよ」という文書が発行され、実際に葛西城が落城して褒美が与えられたようである。

・年不詳十月十三日北条氏邦書状写には
「信濃からスッパ共五百程やってきて乗っ取ろうとしているので、用心しなければいけない。」と記してある。
 この事から、スッパは集団で来て武士の先頭に立って工作活動をする存在だったことが分かる。

・北条家の旧臣三浦茂正(浄心)が北条五代について書き記した「北条五代記」にも忍びに関する記述が見える。

「大名は乱破と呼ばれる国々の状況をよく知っている心横道なくせ者を雇って、夜討のときは道案内をさせ、敵国に忍び入ったり、あるときは夜討、待ち伏せをし、領国境で藪や草の中に隠れ敵の状況を伺っていた。」

「関東乱破智路の事」では乱破の記述の次に
「北条氏直は乱破を二百人扶持していた。その中の一番の悪名を風魔といい、風魔の中には四人の盗人がいた。また、風魔の頭の小太郎は大男で身長208cmほどで、手足の筋骨猛々しく、ここかしこにむらこぶがあって、目は逆さまに裂け、口は両脇へ広く裂けていた。牙は四本出ていて、頭は福禄寿に似て、鼻は高く、声を高く出せば5km以上先でも聞こえ、低く出せばしわがれた声でかすかで見間違える事はない。」
と言われていた。それはすさまじい形相で、恐ろしかったに違いない。また、風魔は敵味方を判別するためにある合図と共に、「立ちすぐり、居すぐり」という方法を用い、仲間でないと知れればたちまち殺されてしまうと言う。まさに恐ろしい集団である。後北条氏滅亡後には、江戸の町で盗賊をしていた向坂甚内、鳶沢甚内、庄司甚内の三甚内は、風魔の生き残りとして有名である。
ただし、文献によっては風間と書かれている物も有り、ふうまではなく「かさま」と呼んでいたという説もある。

真田忍者と言われる人々

出浦昌相

出浦対馬守盛清の出処

 この出浦氏は村上源氏の庶流と言われていて、滋野三家の祢津氏とも婚姻関係があったとも言われている。本拠は現坂城市の上平(出浦)城主出浦左衛門尉清種の次男とも三男とも言われている。
と言う事は、清種ー盛清ー幸久ー幸吉と続くのが正しい系図か?
この出浦城であるが、村上氏の本拠葛尾城の対岸、上平地区に有る三角山が本拠である。実名は昌相、また盛清、頼幸、幸久とも呼ばれているが実証は無い。また盛清と幸久が混同されていて、盛清の子が幸久という説が一番信憑性がある。そして原町の南町に出浦氏の墓があり、出浦幸久か半平幸吉であろうと思われるが信州に引き上げるときにその墓も持っていったという言い伝えがある。その詳細は不明であるが、もしかすると出浦盛清または幸久はこの原町の地で亡くなり幸久または幸吉が父の墓を信州へ持っていったのか。この辺はまだ言い伝えの域を出ないのであるが、調べてみる必要があると思われる。

武田家出仕時代

 一説には1548年の上田原の戦いで、真田幸隆に捕らえられたとも言われる。なんにせよ村上家滅亡(1553年)の時点では未だ8歳の子供でしかなかった。
以後は武田家に臣従して、甲州忍者(三ツ者)の頭領を務めたとされる。甲信地方は山がちな場所だけに、情報収集やゲリラ戦に優れた忍者の育成には力が入れられていた(望月千代女などが有名)。信濃北部を拠点とした戸隠流もその一角を構成していたとも。ただ、武田時代の出浦盛清の具体的な功績はほとんど知られていない。彼が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、武田家が滅亡してからである。なお武田信玄は祖父・信昌から取った「昌」の一字を配下武将たちに与えている。実名とされる昌相の名は、信玄の時代に与えられたものと見るのが自然か。

武田滅亡後

 582年に武田家が滅亡すると、他の信濃国人たちと同じく「鬼武蔵」こと森長可の配下となった。が、まもなく本能寺の変が発生。信濃国人衆はこれを好機として一揆を組み、長可に反乱を起こした。だが盛清はほぼ唯一森方に付き、信濃・美濃国境まで護衛として同行した。これには鬼武蔵の目にも涙。感謝の印として脇差をプレゼントされたという。
昌幸に仕えたのは、天正十一年(1584年)とされている。この年に昌幸から領地宛行状が出ている。多くの合戦で活躍し、天正十八年(1591年)の小田原の役の時には昌幸と共に参戦し武功をあげている。

信之の時代

 沼田藩主真田信之に時代には、岩櫃城代、吾妻郡奉行をし、元和二年(1616年)には徳川幕府による一国一城令により岩櫃城の破却、城下町平川戸から原町新町に町を移転している。現在原町日赤のある場所(地名御殿)に郡奉行所と信之が上田、沼田を往き来するとき宿泊する御殿を奉行所と隣接して建てたという。この時代は幸久と名乗っていたか、盛清からこの幸久に代が変わったかである。この出浦氏を研究されている方が居り、その方の結論は盛清と幸久は親子であったというのが有力であると言うことです。原町顕徳寺の出浦氏の過去帳では「元和九年八月十八日出浦対馬守幸久七十八才卒 円光院殿泰山宗智大居士」と記されてる。
この過去帳を真実とすれば、出浦盛清はこの原町の地で無くなったと捉えても良いかと思う。また現原町の南町に出浦氏の墓があり、信州に引き上げるときにその墓も持っていったという伝承がある。これは真田信之が元和八年(1622年)松代転封になったとき盛清(幸久)の子半平幸吉が、松代に墓石を持っていったのか?と言う事になる。この半平幸吉であるが、信之の信頼厚く松代藩にて1050石の領地を賜りまさに家老の席に列せられている。この事を考えるといかに出浦氏が真田氏に対して貢献していた事が伺える。

出浦渕(でうらぶち)

 出浦昌相の屋敷跡。出浦氏の岩櫃城代時代の屋敷跡と伝わる。発掘調査でこの岩櫃城も石積みが発見されているが、唯一表に出ていて確認できる石積みである。この積み方を確認すると、折れが二カ所有り明らかに後世耕作地のために積まれたのでは無いのが確認できる。間違いなく出浦氏岩櫃城代時代の石積みであろう。この付近には岩櫃城にとって非常に重要な西の木戸(門)の跡があり明らかに重要な場所である。よく長野からみえられる方に「いでうらふちでは無いのか」と指摘されるのであるが、出浦氏がこの原町にいた当時、地元の住民は親しみを籠めて「おでうらさま」と呼んでいたという。この名残りなのか分からないが、なぜか「でうらふち」なので有る。

原町の町割

 原町の町割をしたのが、出浦対馬守幸久である。平川戸町の移転については、「吾妻原町記(江戸時代中期に成立)」慶長十九年(1614年)移町の命令が下るや奉行出浦対馬守は時を移さず観音原(現原町)に地取りをして金剛院東学法印をして地鎮祭起工式を行い農閑期を利用して翌元和元年(1616年)にかけて急ピッチで家屋移転をさせたらしい。
 当時の観音原の東端に当時にあって既に五百年から八百年を経た欅(けやき)の老樹がうっそうと茂っていた。町割はこの木を起点に岩櫃山の中腹にある筍のようにそびえる子持岩を見通し結ぶ一直線上に、七町の地を広く取りこれを本町区域とした。その先は屈曲してまた屈曲して西に向う道となる(現原町駅前)。本町の約中央を北へ一町引き込んで四方百間後を区画して御殿と町奉行所の敷地とした(現原町日赤一帯)。本町の東西端には柵を設け制札を立てたと記してある。

郡奉行所

 奉行所のあった場所であるが、現原町日赤一帯に奉行所があったという。前述したが、百間四方(一間1.82メートル)の敷地だったという。そこには奉行所と、信之が上田と沼田を往き来するとき宿泊する御殿も建てられていた。これを持ってその地は現在でも御殿という地名である。現在の原町日赤は平成十三年開院であるが、旧原町日赤と南波製材の間に水路があった。その水路の石積みが大変古く、郡部行所があった当時の石積みではないかと言われていたが、現在では原町日赤病院が拡張されたため取り壊されてしまった。非常に残念な事であった。

岩櫃山の由来

 右府源頼朝は鎌倉幕府を開いたときに浅間山の麓の三原野に鷹狩りに来ました、岩櫃山は以前、高嶺山と言われていたのだが、源頼朝公がこの山を見て「まるで岩で作った櫃のようだ」と言った事から岩櫃山と呼ぶようになったと言われている。この頼朝公の三原野の鷹狩りであるが、鎌倉期に成立した「吾妻鏡」には狩の事のみ書かれている。室町期に成立した「曽我物語」には詳しく記されていて、吾妻太郎助亮が案内を勤めた事などが記されている。また江戸期に成立した「吾妻郡略記(上原政右衛門代完著・現原町バイパスの藤井屋さん所有)」では、さらに詳しい由来なども記されている。

ただし、頼朝が吾妻を通ったのは鷹狩りの帰り道であったようである。そう考えると、三原野(浅間山山麓)、狩宿、卍峠(万騎峠)、大戸と来れば当然倉渕を抜け高崎に出て、東山道を下り鎌倉へ帰るというのが当然であろうから、はたして頼朝が岩櫃山を見たのかというのは少し疑問の残るところでもある。

武田の三堅城

 この記述は、武田流軍学書「甲陽軍監」の中に書かれている物で、駿河の久能山城、甲斐の岩殿山城と共に岩櫃城も記されている。これは、武田信玄時代に海津城主であった高坂弾正が言った事を記しまとめた物である。現在その初本は発見されていないが、江戸時代初期に小幡景憲がその初本を写し甲陽流軍学書としてまとめた物である。この事をふまえ、岩櫃城跡をたどってみればこの吾妻に似つかわしくないほど城域は広い。また、竪堀を多用している事、その堀のほとんどが薬研堀である事から武田式山城と言われている。しかし、廃城の時に壊されてしまったのかも知れないが武田式の特徴である丸馬出しは見られない。武田時代には軍配者と言われていた来福寺左京、祢津長右衛門なども城番としてみられ、この地には横谷左近、割田新兵衛、唐沢玄蕃などの忍者と呼ばれていた人達も居り、最後の城代は出浦昌相であったことを考えると、岩櫃城は真田氏の情報収集の拠点であったという仮説も成り立つのである。良く岩櫃城のことを武田の三名城と紹介している本、サイトなどあるが正しくは三堅城である。また、岩櫃城のことを「甲陽軍監」では信州岩櫃城と紹介している。岩櫃城というのが信州には無いので、当然この吾妻の岩櫃城のことだろうと言うことで多くの書物、サイトで紹介しているのだろうと言うことを一言、記しておく。

嵩山

 中之条町では、嶽山を霊山として売っている。ここには戦国時代山城があり、真田幸綱(幸隆)にせめ落とされている。永禄六年十月岩櫃城を落とした幸隆は吾妻斉藤氏の最後の拠点、嵩山城を落とそうと狙っていた。永禄八年(1565年)二月、斎藤兄弟は揃って嶽山に入城する。斉藤方は、尻高、中山両氏と沼田、白井の長尾氏に救援を求め兵力を整え岩櫃奪還を狙っていた。しかし知将真田幸隆は少しも慌てず、まずは和睦を求めた。人の良い斎藤兄弟はその求めに応じ、簡単に和睦してしまった。そこから幸隆の謀略が始る。まず援軍である尻高・中山、沼田の小川可劉斎、白井長尾の軍を撤退させるのに成功する。そして斉藤方の重臣である池田佐渡守を内応させるのである。永禄八年十一月ここはチャンスと幸隆は一気に攻勢に出る。まずは五反田台出合戦し、斉藤方に勝利して嵩山城に押込める。嵩山城は堅城であるとし、正面攻撃では落とせないと幸隆は策略を巡らし、夜襲をかけるのであった。真田軍は竹束を付して何処と言わず斉藤軍に食い下がった。一の木戸もぬかれ、もはや最後と斎藤太郎憲宗は腹十文字にかっきって自決する。弟城虎丸は本城の天狗の岩に駆け上り血路を見いだそうとしたが、真田に隙間無く囲まれどうしようも無く意を決し天狗の岩より飛び降り自決した。また一族郎党女房までもことごとく岩の上より飛び降り自決したと言う。また嵩山城跡を訪ねると中腹に洞穴がある、落城のさい穴に潜伏していたのを見つかり下より火を放たれ全員焼き殺されたという。その洞穴を今「骨穴」という。

忍者について

 そもそも忍者という名称は明治時代以降に出来た用語で、忍術等も江戸時代に出来た用語である。忍術でも伊賀流、甲賀流などと言われているが、そもそも忍術の書「万川集海」が出たのは江戸時代であり、その実態は定かでは無い。しかし、「しのび」という言葉が見られるのは聖徳太子の時代だと言われている。信濃では戸隠流と呼ばれる集団が居たと言うが、はなはだ疑問の残るところである。有名なところを西から上げれば、毛利の「世紀一族」尼子の「蜂屋衆」そして後北条氏の「風魔一族」である。蜂屋衆は京の都で盗賊をやっていたのを尼子が雇ったという。また風魔一族は箱根の山で通行人を襲って盗みを働いていたという。風魔一族は特に凶暴で、その族長の風魔小太郎は、身長二メートル以上で、目はつり上がり馬にまたがれば地面に足が着いたという。北条氏康の川越夜戦で活躍したこの一族は後に江戸の町で、盗賊となり徳川家康を困らせたという。さて、戦国の忍者であるが、名称は武田では「素波」「乱破」と呼ばれ、今川では「三つ者」、上杉では「軒猿」と言った。特に武田信玄はこういう人達から、坊主、商人までを取り込んだ情報収集の集団を作り上げていたという。その数千人を超え、そのため武田信玄は足長坊主と呼ばれていた。武藤喜兵衛尉を名乗り信玄の旗本としてそば近く仕えていた真田昌幸は情報収集の重要性を学び取っていたでしょう。そこに「真田不思議なる弓取り」と呼ばれた所以があるのでは無いでしょうか。そもそも吾妻と真田地方は鳥居峠の四阿山信仰を共有した地域です。この四阿山信仰は真言密教と深く結びつき、修験道として発達してきました。吾妻の地侍達も、ほとんどがその修験道を極め特殊能力を身につけていたものが多く居た。山にあっては天気をよみ、道なき道を進み、時にはの山に寝泊まりする。そんな人達を束ね、優遇したのが真田昌幸という人です。ドラマで出浦昌相が素っ波の頭領として活躍していますが、この出浦氏は「素っ波」の目付で、自分の家臣では無く昌幸から寄騎として預かっていて指図をしていたのでしょう。吾妻の地にも、この昌相と真田において双璧をなしたと言われていた横谷左近という人が居ます。彼も一般的に忍者と呼ばれています。しかし、出浦氏が江戸時代松代藩で1050石、横谷左近が沼田藩で446石二人とも大身です。そんな事を見ると、情報収集を行うのと、戦場にあっては武勇に勝れているを両立している二人のような気がします。

武田信玄より岩櫃城搦手の守りを命ぜられた者

来福寺左京(原仁兵衛)


 吾妻郡は、東(白井)、南(箕輪)からは後北条氏、北(沼田)からは上杉謙信の侵攻を受けていた。信玄は、富田郷左右衛門、出浦上総介をして忍者を養成し、さらに修験者、商人もその中に組み入れた。これは、各地に戦国大名が台頭し、情報収集活動が重要になってきた為だ。来福寺左京は、はじめ原仁兵衛と名乗り武田信玄に軍配者として仕えていた。原は入道して、来福寺左京と名乗り修験の名を千蔵坊と言った。まれに見る軍配者であったので岩櫃城搦手の守備を任されていた。そんな関係で、武田氏滅亡後には真田昌幸に仕えたのでしょう。当時信玄の命を受けて、郡内修験者の総元締めを務めると同時に忍者の要請にも心を砕いた。当時信州、上州の透波、乱波は千人を優に超えていたという。武田氏滅亡の天正十年三月、同じく軍配者の禰津潜竜斎昌月をもって潜龍院を開いたのも昌幸が、情報機関としての機能を重視してのことだと思う。また、潜龍院跡には、来福寺左京物見の岩があり彼が岩櫃城にいた証拠ともなっている。天正十三年の信州神川合戦(第一次上田合戦)では禰津氏と共に左京は、昌幸の参謀を務めている。また、岩櫃城は以上の事をふまえ諜報活動の拠点であったという説もあるのである。

吾妻の忍者と言われる人々

割田新兵衛重勝(下総)

 加沢記に伝わる伝説。
吾妻の地では有名な忍び、真田昌幸に仕え活躍した。群馬県吾妻郡中之条町横尾の長久保に彼の墓は現存している。前面にあるのが後世に立てられた供養塔、後ろにある舟形の墓石が割田下総重勝の墓である。2016年NHK大河ドラマ真田丸の放送の決定により、以前は笹藪に被われていたのであるが、中之条町により現在はきれいになっている。この割田重勝は、吾妻の文書に良く出てくる吾妻七騎の中の一人であり、その技は古今無双であったと言われている。一般に忍者と言われているが、伊賀、甲賀と違いこの地方でははっきりと組織化されていたという記録は無い。ただし、信濃の小県と同じく「修験」が盛んで、ほとんどの地侍が修験で修行して特殊能力を持っていたと思われる。岩井堂城、大戸手子丸城、嵩山城などこの地で重要な城の守備についていたのも武芸兵法に勝れていたのが分かるでしょう。この割田は非常に剛胆なもので、幾つかの逸話が残されている。
 天正十年(1585年)九月、北条は白井の原まで軍勢を進め陣を敷いた。これは、沼田城攻略を狙った行動である。天正十年六月には「本能寺の変」がおき、織田信長が明智光秀によって攻め殺されている。これがきっかけとなり、信州、上野では北条、徳川、上杉が三つ巴となって戦った天正壬午の乱が起きた。そのときの真田昌幸は、はじめ北条に付き、次に徳川、最後に上杉について自領を守り抜いた。北条氏は上野統一が悲願で、利根地方の沼田に攻め込んできた。このときの逸話である。
 その頃、吾妻利根各地の砦で北条と真田の小競り合いが続いていた。割田は仲間に言う。「戦場働きにはよい馬がほしい。しかしわしらは金もなく馬の鞍からしてみすぼらしい。明日敵陣の白井の原に行き、良い鞍と馬を奪って見せようぞ。」明くる日割り多は鎧を着、鎖頭巾をかぶりその上に蓑を着込んで、弐尺五寸(約75cm)の刀に藁を巻き隠し、馬の餌大豆を苞に入れ背負い、大豆売りに化け白昼堂々白井の原北条軍の陣地まで出かけていった。
「馬の餌、大豆はいらんかね。一升鐚銭十五文。」
と足軽小屋の前を大声を出して売り歩いた。すると若侍が、黒毛の名馬に金覆輪の鞍をおき庭乗りを楽しんでいた。
「良い馬じゃ。鞍も見事なものじゃ。あれをそっくり頂いてやれ。」
そう決めて若侍に話しかけた。
「良い馬と鞍でがんすね。いったいどちら様の馬でがんすか。」
「松田尾張守様の軍馬よ。」
「はあ、あの有名な松田様でがんすか。これほどの名馬、是非乗ってみたいもんでやんすな。」
割田が若侍の庭乗りのうまさを褒めながら、おそるおそるそう言った。若侍は褒められたうれしさに、大豆売りにはもったいないと言いながらも、馬に乗せてくれた。若侍には魂胆があり、馬に乗せたところで一鞭入れて大豆売りを怖がらせ小田原への土産話にしようとしたのである。またがったのは良いが、怖じ気づき怖がる大豆売りを笑いながら一鞭入れた。
 すべては割田の演技である。名馬はドット走り出した。そのとき割田の表情が一変し、藁包みの刀を取り出して引き返し、大音声で言い放った。
「我は真田房州(昌幸)の臣、割田下野守重勝なり、良馬を賜りかたじけない。明日の戦場にてお礼を申す。松田様によしなに。」
割田は片品川を渡り帰城すると、訳を話して金覆輪の鞍を昌幸に献上したという。
以上加沢記の記述であるが、沼田に帰城して昌幸に鞍を献上したという事である。しかし、この頃沼田城を預かっていたのは、昌幸の叔父矢沢薩摩守頼綱である。この頃昌幸は上田城の築城で忙しく沼田には来ていないであったろう。こんな所が、加沢記が今ひとつ信用されていない原因の一つになっているのだろう。
 さて、時代はくだり元和元年(1615年)大坂夏の陣も終結して世の中が平和になると割田のような微禄の郷士の活躍する場所がなくなっていた。戦乱の世であれば、領地は少なくても手柄を立てれば、褒美ももらえるので何とか食べていける。しかし平和になると、足軽として仕えるか、帰農するしかなくなってしまった。割田は出身地である中之条町高津に住み着き、食うために時々盗みを働かなければならないほど落ちぶれてしまっていた。
 一方割田のかつての上司、出浦対馬守幸久は真田信之に仕え吾妻郡奉行になっていた。
ある日善六という男が、割田の盗みを郡奉行出浦対馬守に密告したのである。幸久はかつての配下、割田の捕縛を命じ討手を差し向けたのである。割田もいつかこのような事になると覚悟はしていたのであるが、元は名もあり腕に覚えのある忍者である。簡単には捕まらず、斬り合いになったが力尽き鹿野和泉なる侍に討たれた。
 この一見を幸久から聞いた真田信之は、「割田の盗みは割田にあらず。我よりいたさせたものである。」と悲しんだという。時代について行けなかった忍者の末路である。元和四年(1618年)九月下旬の事である。こういう微禄のものの末路は、浪人するか微禄の足軽として仕えるかの選択肢しかない。悲しいものである。また、戦果を上げ領地を給われば大身として出浦氏のように生き残る事も出来ようが、戦働きだけの人間は世の中が平和になれば働き場所がなくなるのは必然であろう。多くのものが、このように落ちぶれていった時代であったのでしょう。