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武田氏の岩櫃城攻略と斉藤氏の滅亡


 永禄六年(一五六三)八月下旬、憲広は一族郎党を城中に集めて重要作戦会議を開いた。

 「最近における鎌原氏の動きを見ると、武田信玄に接近し、その援助を受けわが岩櫃城の攻略を画策している。更に大戸、浦野氏も鎌原と同調して信玄によしみを通じているようである。かくなる上は積極的に宿敵鎌原氏を、攻め滅ぼして吾妻郡を統一しなければならない。よいことにこの頃信玄は、北信濃(長野県北部)、駿河(静岡県)方面に信仰し二面作戦を進行中である。吾妻の地に兵力をさく余裕は現在はあるまい。この際上杉系の長尾氏、沼田氏の援助を受けて多年の願望を成し遂げねばならない。」と衆議わ一決した。

 しかしながら、利根郡の雄、沼田氏との間は良好ではなかった。おそらくお互いの領土問題の紛争が解決していなっかたのだろう。そこで、一族の中山城主中山景信を沼田にやり、沼田万鬼斎、憲泰との和睦調整に当たらせた。交渉は運良く成功し、さしあたりの敵は三原の鎌原氏(背後に武田信玄)だけとなり、白井、沼田の援助も取り付けたのであった。

 この報に鎌原宮内は大いに驚き、すぐに信玄に報告した。信玄は多難な時期であるにもかかわらず、甲府より武藤喜兵衛(幸隆の三男後の真田昌幸、信玄の近習として使えていた。)、三枝松土佐守を倹使として、真田幸隆を総軍の将とし、真田信綱(幸隆の長男)矢沢頼綱(幸隆の弟)鎌原、湯本、横谷等三千騎の兵を付け岩櫃城攻略の軍を起こしたのであった。

 第二次岩櫃城攻略戦


 永禄六年九月中旬、信玄の命を受けた幸隆は横谷・雁ヶ沢口、大戸口両方面より岩櫃城攻撃の火ぶたを切った。
 一方九月上旬沼田の加勢は沼田憲泰の弟朝泰が五百騎を引率し到着し、白井勢も長尾憲景が家老牧、矢野を将として二百騎同じ頃岩櫃城に到着した。

 憲広はこれに大いに力を経て、まず雁が沢口に沼田勢五百騎、斉藤則実、中山、尻高両氏、荒卷氏、その他に三百騎を添えて山々谷々の天険を利用して待ち伏せていた。大戸口の配備は二男の憲春、植栗氏を将として八百騎、白井の二百騎を合わせて一千騎を当てた。
 これに対して真田軍は一千騎、一族禰津、矢沢を将として須賀尾峠を越えて大戸城に進んだ。大戸真楽斎は弟、権田の地頭但馬守を人質にだして降伏した。

 九月十五日早朝、岩櫃をたった斉藤軍は大戸城を攻めたが、真田軍は裏山、榛名山居鞍嶽を越えて山上より大戸城に向かって進んだので、これに敵することができず、かえって茶臼の橋(長須橋を言う)及び郷原十二の森、三島四戸、生原に兵を引いて、守勢にたたらざるお得なかった。

 雁が沢口の斉藤軍は地の利を得て善戦した。真田軍は長子真田信綱を将として、長野原より間道火打ヶ花、高間山を越えて松尾の奥、南光の谷に進出して、その側面を突く勢を見せたのである。別働隊である昌幸、三枝松の軍を長野原より須川を渡り暮坂峠を越え、佐藤将監の守る仙蔵の城を一挙にほおむってここに西窪氏をすへ、昌幸は有笠山に陣取って、その形成を見ていた。この仙蔵の城の失墜は岩櫃城の背後を脅かし、それと同時に末子城子丸の守る武山城(末子城子丸及び池田佐渡守重安の守備)に対してくさびの役となった。

 幸隆は長野原より林、諏訪ノ森に本陣を前進して総軍の指揮に当たったが、必ずも真田軍の有利とは成らず、信玄の援軍も期待できなかった。

 そこで正面力責めの攻撃の不利を悟った幸隆は諏訪の別当大学坊、雲林寺の僧を使者として、善導寺の僧を中に立てて和議の話を進めることとした。善導寺の僧は憲広にあってその旨を伝えると、元々信玄公に何も恨みはないこと、敵は鎌原氏にあるので早速気のよい憲広はこの和議に同意してしまった。

 この和議の条件は、一つに仙蔵の城を斉藤氏に返還すること。二つに大戸、鎌原、浦野の人質を憲広に渡すこと、三つに沼田、白井の援兵を撤兵することの三箇条であった。

 鎌原宮内小輔は和議が成立するや早々岩櫃城に来て憲広にあった後、甥の斉藤弥三郎則実との密談に入った。その要旨は信玄の岩櫃城攻略は必至である。もし則実が内応するならば吾妻郡の本領は安堵されるであろうから尽力してほしいというものであった。また一方、幸隆は自らの一族である海野左馬允を斉藤氏の重臣である海野長門守、海野能登守の兄弟の元に遣わし、密かに内応工作に入った。一同は善導寺に密会して互いに連絡を取り、九月中旬矢倉鳥頭神社へ参拝と称して内応の連判起請文を整えて幸隆の弟矢沢頼綱に手渡したのであった。
これは真田の常套手段である内部崩壊を狙った老獪な策謀であった。

 第三次岩櫃城攻略戦と斉藤氏の滅亡


幸隆は十月中旬、突如岩櫃城攻撃を再開した。このたびは長男信綱に二千騎を与えて暮坂峠に進出せしめた。主力は武藤喜兵衛(昌幸)五百騎大戸真楽斎二百騎の計七百余騎をもって、大柏木より三島の裏山をこえて類長が峰に出て本陣を構え、岩櫃城を望んだ。また別働隊を萩沢のあたりに配置して、箕輪の長野氏の備えとした。

 そこで城の大手番匠坂に斉藤弥三郎則実、植栗氏に三百騎、搦手切り沢口には富沢氏を将として二百騎配置した。岩鼓の出城(柳沢城)には長子の斉藤越前太郎、尻高氏の兵三百騎を配置し、本城には憲広一千騎をみづから掌握し、海野兄弟、白井勢も組み入れて籠城の体制を整えた。

 裏切り者の則実は、角田新右衛門という忍者を敵陣昌幸の本陣に派遣して、岩櫃城内の配備を細かく密告し、昌幸から「帰ったら岩櫃城に放火せよ。」と命ぜられ金十両を褒美として受けとって岩櫃城に帰城した。角田は騎乗すると則実と連絡を取って、ついに十月十三日夜半本丸に放火した。

 昌幸(武藤喜兵衛)はこの火の手を合図に夜襲を決行、則実は木戸を開いて真田軍を城内に招き入れ、二の門に迫った。斉藤憲広は狼狽し自決しようとしたが、出城の岩鼓の要害(柳沢城)より帰陣した長子太郎に「今は自決するより、越後に落ち延びて謙信を頼り再起するが得策である。」と説得され越後に落ちていたのであった。ここでついに岩櫃城は真田氏のものとなり、そのまま江戸初期まで真田の領地と成ります。