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 武山合戦並びに海野城代時代


 斉藤氏を越後に追い落としたので、信玄は大いに喜び幸隆を吾妻守護に任じ、鎌原宮内少輔、湯本善大夫、三枝松土佐守の三人を城代とした。
 武田方に寝返った内応の武士の処遇は、斉藤弥三郎、海野長門守、海野能登守の妻女を岩櫃城の天狗の丸に人質としておいた。後、下曽根岳雲軒の館に置くこととした。

 かくて、斉藤弥三郎にはわずか川戸上村にて斉藤憲広の直轄地の五分の一の土地を与えられたのみで、海野兄弟も真田に預けられ、信州佐久、小県郡においてわずかの土地を与えられただけであった。

 武山合戦


 武山において越後へ同行できなかった末子城子丸は、重臣池田佐渡守、同甚次郎、山田与惣兵衛以下諸氏がこれを守護し、一門である中山、尻高両氏も援兵を送り上杉謙信に属し、再起の時が訪れるのを待っていた。そして、度々真田氏と戦闘を交えたが、戦局に進展はなかった。よく永禄七年三月雪解けと共に謙信は、柴田、藤田の両将に二千騎を与え三国峠越しに兵を進め、武山城を援護した。

 驚いた幸隆はすぐにその刺信玄に伝えたので、信玄は川中島決戦の最中であったにもかかわらず、川中島城主清野刑部左衛門、曽根七郎兵衛尉に一千騎の兵を率いさせ幸隆救援に向かわせた。戦いは膠着状態であった、五月下旬、信玄は更に松井田城主安中越中守憲家並びに三河衆に三百騎の援兵を与え兵力を増強した。

 幸隆は長子信綱に五百騎の兵力を与え、沢渡・伊賀野山に控えさせ、禰津以下の諸武士に兵七百騎を率いさせ岩櫃城に急行させた。

かくてこの年も何事もなく暮れた。翌永禄八年(一五六五)十月下旬、斉藤憲宗は上杉氏の加勢並びに、白井・中山・尻高・小川各氏の加勢二千騎を引率し一挙に岩櫃城奪還をはかったのである。これに対して幸隆は岩櫃城攻めの教訓を生かし、まづ斉藤憲宗と和議を整えた。ここにおいて上杉の加勢二千騎に余る兵力を帰らせることに成功したと同時に斉藤氏の内部崩壊の方策として十一月十日武山の重臣池田重安を引き抜いて岩櫃城に連れ帰った。

 十一月十七日、幸隆は鎌原・西窪・横谷氏を先兵として、まず武山城を指呼の間に望む折田仙蔵城を奪取し、五反田の台において斉藤軍と交戦、双方とも相当の戦死者を出すに至った。夜に入って斉藤軍は武山城に籠城した。この籠城は斉藤軍が地の利を得たつもりだったが、狭い岩山の城内に閉じ込められる結果となり、かえって真田軍を有利に導いたのである。

 幸隆は同夜武山城を包囲夜襲に転じたので斉藤軍は逃げ場を失い、憲宗・城虎丸以下一族郎党は四周より攻撃を受け壊滅的損害を受けて憲宗、城虎丸以下は自決し、女子供は岩より飛び降りてことごとく自ら命を絶つ凄惨なものであった。この戦いで、斉藤氏の吾妻奪回戦は幕を閉じ、斉藤氏は自滅した。

 永禄九年(一五六六)武山戦も終了したので、幸隆親子は信玄に海野長門守、海野能登守両氏を推薦して岩櫃城代とした。しかし、鎌原、湯本、横谷氏の所領はこれを除き吾妻七十余騎のものを与力としたのである。その後は武藤喜兵衛尉昌幸が年一度岩櫃城に出張して政務を見ることとした。