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天狗の丸


 天狗の丸は、この岩櫃城の出丸と言われているところである。城口に建つと現在は道があき、広めの舗装道路となっているのであるが、この道が出来る前は歩くのみの細い道があっただけだという。と言うことは、天狗の丸がもっと西面に張り出していてその前面の堀脇にまで及んでいたと考えるのが妥当である。もしかするとここにも虎口があったのかも知れない。この天狗の丸は東に延びていき岩櫃神社まではほぼ平面である。その先は段々の平場があり、岩櫃城城下町に続く。伝説では、ここは忍者が居たということになっているが恐らくは上級武士団の屋敷跡とみるのが妥当なところだろう。また、この曲輪の北には100m以上にも及ぶ薬研の横堀がある。この城の全体の縄張を見ると、この薬研堀、本城、志摩小屋地区、北側遺構など全体を見れば平沢地区を囲うように作られている。これは、上田市真田地区にある真田本城と天白城のように馬蹄状に縄張されており、真田の城との共通点もあり興味深い構造である。

天狗の丸北側の薬研堀




 上の写真は天狗の丸北面の、薬研堀である。この堀の上部の広さから想像すると、おそらくあと3mは深かっただろうと想像させる。

岩櫃神社

 岩櫃神社は、真田に攻められ越後に落ちていった、斉藤基国公を祀ったものだといわれている。永禄6年(1563年)10月中旬、真田幸綱は突如岩櫃城への3度目の攻撃を始めた。この頃には、海野長門、能登守兄弟、斉藤弥三郎、富澤行連、蜂須賀伊賀などの家老級の内応、その他多くのものの内応を取付ついに岩櫃城に攻め寄せ、ついに岩櫃城を武田の城としたのである。城主であった斉藤基国公は、いつか吾妻の地へ返り咲こうと願い、越後の地に落ちていった。しかしながらその願いは叶わず、越後の地で亡くなったのである。しかし、死してなほ吾妻の地の鎮守になろうと、基国公は大天狗となり岩櫃山に舞い戻ってきた。それを哀れみ地元の人が、城下平川戸に小さな祠を建てた。これが岩櫃神社の由来とされている。江戸時代、岩櫃神社は大宮神社と合祀されて大宮岩鼓神社となった。第二次世界大戦後、分祀され現在の岩櫃神社となった。岩櫃神社は、岩櫃山の鎮守であり毎年五月五日が祭祠の日と決められお祭りが行われている。登山者の安全も願って、祭が行われているという事も含まれていると思う。良く城の屋敷跡などに神社が建つのであるが、ここが城主の麓御殿であったのかも知れない。

岩櫃神社

岩櫃城の城下町平川戸と追手バンジョウ坂


 この町は、宿場として元和2年(1616年)まであったという。慶長19年(1614年)の頃、徳川家康と豊臣秀頼は手切れとなり一触即発の事態となっていた。豊臣方は、豊臣恩顧の大名がはせ参じると思っていたのだが、誰一人従う者はなかった。しかしながら大坂方には、多くの浪人衆が集まり、名を上げると薄田兼相、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛基次、塙団右衛門直之など総勢10万にも及ぶ軍勢が集結した。その頃、岩櫃城下平川戸には室町以来「吾妻市」といって、郡内唯一の市が立ちなかなか賑わっていた。折しも真田信之の弟信繁は、大坂城に入城していた。そのこともあって、家康から浪人衆を集めていたのではないかと疑われたのである。明敏な信之は、そのことを察し岩櫃野城代出浦対馬守幸久に命じ原の新町に移す事を決めた。出浦は平川戸の町を絵図にして、原の新町の屋敷割りをし、段々移したという。
 当時の原町は観音原と呼ばれ、荒れた芝野であった。この頃の観音原に「いちようや」という名所があり、そこに「光原寺」という小寺が在った。この光原寺には立派な観音像が有り、夜な夜な光を放ちその寺の名を「光原寺」と呼びその辺一帯を観音原と人々は呼んでいたという。

岩櫃城の廃城


 このようにして城下町平川戸は、現在の原町に移された。続いて、岩櫃城廃城のための破却を始めたのである。上記の文章は、「原町誌」を参考に書いたのであるが、実際は大阪の夏の陣が慶長20年(1615年)5月終結すると、家康は「一国一城令」を発布した。一国とは、大名の領地ごとに城を「藩主のいる一城のみにせよ」という命令である。これにより岩櫃城は、破却、廃城となったものであろう。この岩櫃城は、小田原の役(北条征伐、天正18年)に岩櫃城を除く城、寄居は廃城となっていたので、吾妻最後の城であった。これにより吾妻から城、砦、寄居など一切無くなったのである。その後は、「百姓一揆」、「国衆の反乱」等に使われないよう、「御林」として城跡は郡奉行所によって厳しく管理された。これは原町に残る古文書に、江戸時代原町祇園祭に使う竹を奉行所手代立ち会いの下、切りに行ったとある。当時、岩櫃城が非常に警戒されて居たのがよく分かると思います。

大変賑わいでいた平川戸


 岩櫃城城下町である平川戸は、室町の頃より大変賑わいでいたという。当時、城内を吾妻街道(草津裏街道)が通り交通の要衝であった。町屋は60軒あり、大きな町であったと伝わる。現在東京電力原町発電所貯水池から、その先に続く地域である。そこの字命は、上之宿と呼ばれる。ここには、東の木戸跡と北の木戸跡の二つの虎口跡がある。また、この街道は東の木戸と西の木戸で遮断され、緊急時にはこの平川戸おも守るように縄張されている。この地区を見れば、はたしてそんなに町屋があったのかと思うほどの広さは無い。また多くの方の疑問点、「水のないところに人家は建てない」という事で平川戸じたいを疑問視する人も中にはいる。ところが、この地区に住む古老によると貯水池が出来る前、南側で水が湧いていたという。これを信ずれば、水の問題も解決するのでやはり町はここに在ったと思われる。この地区は、貯水池、耕作地であるので発掘調査によっても全容は分からないでしょうから、今では検証できないのが残念である。

平川戸東側(貯水池)


平川戸西側(耕作地)

バンショウ坂


 バンショウ坂は、岩櫃城追手道である。近年の発掘調査により現在の道の上に、江戸時代、江戸時代以前と思われる道の跡が発見されている。その道は、三段にわたって踏み固められていた。と言う事は、一番上が近世で二番目と三番目が中世または、一番上と二番目が近世、三番目が中世という仮説が成り立つ。登り口は、壬申の塔が途中に在る事から変わらないと思うが、その上の方は明らかに現在の道と違っている事が分かる。現在の道は、昭和12年落成の原町発電所貯水池建設のために作られた作業道ではないかと思われる。そのことはほぼ確実であろう。そうすると、一部昔の街道は分かるのであるが、その入口、不動沢を渡った1などは再検証しなければならないようである。

現在のバンショウ坂




中世、近世のバンショウ坂の位置



東の木戸、東上の番所


 東の木戸上側、鉄塔の所一帯の地名は、番所と呼ばれている。東の木戸と番所とは大変関連性がある。木戸で往来をとめ、番所で検見する。良く街道の関所で見かける風景が浮かんでくる。地名とこの木戸とを絡めると、大変興味深い印象となる。そしてこの事をふまえると前筆の「バンショウ坂」の名前の由来にたどり着くのである。これは憶測ではあるのだが、番所に向う坂と言う事で「バンショ坂」と呼ばれていたのがいつからか「バンショウ坂」と呼び名が変わっていった可能性がある。この辺の検証は、新たな文献などが見つかれば実証されるでしょうが、今のところ謎という事になる。東の木戸に番所があり、西の木戸手前「出浦渕」にも番所があった。そしてこの平川戸に入る通行人を監視していたのでは無いでしょうか。この事は、「岩櫃城跡国指定化」に向う途中の発掘調査で明らかにしてもらいたいものである。

東の木戸跡

小字の番所という地名の場所


参考文献:原町誌、吾妻郡城壘史、新釈加沢記

天狗の丸と登山者駐車場付近


 天狗の丸岩櫃神社の北側下と、城口へ向う道の登山者駐車場の付近には気になる地形がある。現在は舗装され良い道になっているが、その左右を見ると高さが同じでこの道を遮断して繋げると切岸になる。その手前、天狗の丸側にはかなり埋まってはいるが竪堀の跡がある。ここに切岸があり、前面に竪堀があったとしたらまさに城口を守る遺構が現れる事になる。すると、不動沢を境にその一段下がった部分一帯に敵を誘い込めば一気に殲滅する戦略が可能となる。もし岩櫃城跡に訪れる事があったら、駐車場のすぐ前であるので踏査して検証して下さい。なかなか、おもしろい想像をさせる地形です。

道路の両脇


道路の南竪堀

 この写真では分かりずらいですが、現地で確認すれば竪堀のようにも見えます。