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武田氏による利根攻略と白井城攻め

 真田幸綱により、吾妻の岩櫃城及び武山城の奪取により斉藤氏は駆逐されいよいよ利根地方に触手を伸ばし始めた。沼田には沼田萬鬼斎顕泰が居城していたが、永禄二年(1559)上杉謙信に攻められ、降伏して沼田城の城主は保証された。


 その後、沼田萬鬼斎は川場に隠退していたが、永禄十二年正月沼田氏に内向が起こり沼田城主の三男朝憲が川場で誘殺されるという事件が起きた。萬鬼斎は沼田の城兵と川場において戦ったが、利あらず萬鬼斎顕泰とその末子平八郎は会津の芦名氏をたよって落ち延びた。このように沼田は大いに乱れたので、謙信は柴田右衛門尉を沼田城代としました。


 信玄は、沼田の政情不安を見て沼田城に触手を伸ばそうとしていた。一方謙信もその動きを察知して、元亀元年三月厩橋城に入城して先に武田氏の城となった箕輪城をうかがう。信玄も西上州に進撃し、利根川を挟んで緊張状態になったがさしたる戦況の変化はなかった。


 元亀二年(1571)の末、信玄は沼田城攻略のため岩櫃城に入り利根侵攻の拠点にした。そして、真田幸隆(幸綱)、清野刑部左衛門を従えて尻高城に軍を進めた。尻高左馬介は直ちに降伏して、嫡子源二郎を人質に差し出した。次に中山城に攻め込んだ。中山安芸守も降伏して、家老の平方丹波守の子を人質に出し先方となって不動峠(中山から新治村に抜ける峠)に陣を張った。


 名胡桃の城主鈴木主水、小川可遊斎、北能登守、発知図書、山名信濃守等の利根の諸氏は不動峠の信玄の元に来て降伏した。信玄は一挙に沼田城攻略にかかろうとしたが、猿ヶ京城には、謙信方の栗林肥前守がいて堅固に城を守っていたので沼田城攻略を諦めて兵を引き返した。信玄が兵を引くと、尻高、中山、利根沼田の諸氏はことごとく元の謙信方に付いてしまった。


 謙信も吾妻郡を攻めるべく動静をうかがっていたが、吾妻の諸城がすこぶる堅固に守っていたし、こちらに固執していると武州、西上州の情勢に支障を来すと思いあきらめた。


 元亀三年(1572)八月上旬、信玄は先手の大将として真田昌幸(この頃は、武藤喜兵衛尉と名乗っていた)をして鳥居峠を越えて吾妻郡を越え黒鍬隊を持って道路を開きながら白井領に侵入した。白井城主の長尾憲景の第一基地である岩井堂の砦を破り、小の子の庄に入り村里をことごとく焼き、横川(現在の横堀か?)に寄居(陣城)を築いた。そして、現在の東吾妻町と渋川市の堺の地にある柏原の舘を攻め落とし、これを焼き伊香保の北に寄居を構えた。さらに、渋川に進出し宿をことごとく焼き払った。また、東に兵を向け、沼田と厩橋の通路を破壊しその連絡路を遮断した。


 更に同年八月下旬には、武田勝頼が跡を追って白井城に攻撃を加えた。しかし勝頼は、次々に新手の兵をつぎ込み憲景も抗しきれず、領内東上州不動山の舘に退避した。ついに白井城も、武田の手に落ちたのである。


 しかし、元亀三年秋大軍を擁して上洛の途についた信玄は三方ヶ原の戦いにて徳川家康に大勝した後、肘の病に冒され甲州に引き上げる途中、信州駒場において亡くなるのである。時に天正元年四月十二日であった。