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横谷城(雁ヶ沢の要害)跡

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横谷城(雁ヶ沢の要害)跡縄張図

横谷城(雁ヶ沢の要害)


 「吾妻郡城壘史」に雁ヶ沢城とのっていたので、そのまま雁ヶ沢城としました。実際の立地を見ると、雁ヶ沢というより鍛冶屋沢(横谷)にありこの命名はすこしずれているかも知れません。横谷氏の本城ですので、横谷城と呼んだ方が正しいのかも知れません。この城(城と言うより砦といった程度の規模か)は、この地の地頭、横谷氏の本拠です。この横谷氏は沼田真田藩時代、440石の禄で仕えていて領地は、この要害がある松尾から現長野原町にある林の一部まで領地としていたようである。またの名を道陸陣峠の要害ともいい、この要害を抜ける道は道陸陣峠に抜けている。加沢記巻の一「斉藤入道没落并沼田勢加勢の事」に、「大将は一徳斎(真田幸隆)・・・都合三千騎を二手に分け横谷雁ヶ沢口、大戸口に押寄」とあり、それに対し斉藤氏は弥三郎則実(第三次岩櫃城攻略戦の時は真田氏に寝返り)を大将に沼田勢と合わせ八百騎を差し向け待ち受けたという。このときが真田氏による第一次岩櫃城攻略戦である。このときには、横谷氏、雁ヶ沢の要害の記述がないので砦自体がなかったのかも知れません。真田氏の統治時代に作られたのかも知れません。この横谷氏は、真田の一族で望月の分れだといわれている。

 城域ですが、山頂に要害があり東北に下郭があり南に館跡があります。

麓の舘跡


 

 この城の規模からすると、狼煙を上げる城、または街道を監視する役割を担っていたのかも知れません。また、山頂を抜ける道は道祖神峠を越えて吾妻渓谷、川原湯、長野原方面に抜けていたでしょうから、この道を押さえる目的を持っていたのかも知れません。館跡も数段になっていて最高部が館跡だったでしょう。この館は、横谷勘十郎の舘と伝えられています。

横谷城の下曲輪



 この諏訪神社があるところが、下曲輪となっている。これは横谷城本曲輪の東側になる。この裏側は鍛冶屋沢が流れ、吾妻川に流れ込み自然の堀となし深い渓谷となっている。

横谷城本曲輪の西堀切



 この堀切の先、尾根上に登っていくのが道陸神峠である。この旧街道であるが、戦国時代以前の街道は山の尾根上を通るのが普通であるので、この城を回り込み尾根上を登っていったのであろう。

道陸神峠と思われる峰道





 このような尾根を登っていき、最後にはこの尾根のピークに達する。

道陸神峠のピーク



 道陸神峠はこのように尾根上を登っていき、ピークに達したところでどこかに迂回して長野原町の川原畑に抜けていたと思われる。しかし、この先を進めば屏風岩など有りその岩の前後ろどちらを迂回したか分からない。なかなか危険かも知れないが、これは実際歩いて検証しなければならないと思っている。

雁ヶ沢城主横谷氏

横谷氏の出自


 雁ヶ沢城に拠った横谷氏は、海野、禰津、望月氏と同流の滋野一族である。望月氏の後胤に重時という人があった。その重時に三人の子があり、長男を重則、二男を三友之介、三男を源二郎と言った。長男は、木曾氏に仕えて宇治にて戦死。二男三男は、源頼朝の三原狩りのおり勢子として加わり、将軍よりお褒めの言葉をいただき二男は湯本、三男は横谷の姓を賜った。これが横谷氏の始めと伝えられている。
 横谷氏の名が世に現れるのは、戦国時代まただなかの元亀、天正の頃である。横谷村に横谷重行という土豪があった。信濃守または源左衛門とも名乗った。武田氏の幕下となり真田昌幸に属し、代々本領横谷村をを知行していた。家紋は萩に月、替え紋は九曜で法名は一岩斎といった。岩下応永寺が菩提寺である。

 「加沢記」に横谷左近の名が出てくるのは左近大夫として永禄三年頃である。左近は大阪の役にも参加している。横谷左近の生涯はまさに武勇の二文字に尽きる。長い戦国の一生のなかで、長篠の戦い、小田原の役、関ヶ原、大阪の役と主立った戦には参戦しているのである。

横谷左近の行動


 永禄三年春吾妻斉藤氏の先鋒として羽尾入道が鎌原城を攻めと時は、浦野下野守、湯本善大夫と共に鎌原氏に協力している。ところが手の平を返すように同年秋十月には岩櫃吾妻斉藤氏に属し、羽尾、海野、浦野氏と共に鎌原氏を攻めているし、同八年九月にも、同じく斉藤氏の麾下として長野原城攻略戦に参加している。しかし、一ヶ月後には真田氏に属し岩櫃城攻略戦に参加、また武山城攻略戦にも参加している。これ以降は真田氏に属していたようです。天正十年の武田氏滅亡後には、後北条氏の攻略を大戸手子丸城、沼田倉内城(現沼田城)に籠もり後北条氏撃退に一役買っている。小田原の役の前哨戦「松井田合戦」に参戦。同年八月一日徳川家康江戸入部と共に、利根吾妻二郡は真田信幸の沼田藩に属して、信幸により横谷村の知行を許され、武士としての待遇となる。
 こういった変遷であるが、NHK大河ドラマ真田丸での本能寺の変の後の信濃の豪族達の去就を見ればよく分かると思います。平時は地衆としてまとまっているが、大きな勢力が二つありその境の地に位置する豪族達は、自分の信じる勢力に個々が分かれて従うというのが当り前となっていた。ドラマの中の真田昌幸と室賀正武のような対立も、ままあったのでは無いでしょうか。

関ヶ原の戦いでの横谷氏の行動


 慶長五年七月上杉景勝征伐のため、真田昌幸及び信幸、幸村(信繁)の兄弟は下野犬伏に到着した。そのとき石田三成からの密使が到着し真田親子は相談の結果、昌幸、幸村(信繁)は西軍、信幸は東軍に与することとなった。

 昌幸は急ぎ信州上田反転すべく兵を帰した。途中沼田、吾妻の地を通過し鳥居峠を越え上田に到着し籠城の準備に取りかかった。その途中吾妻の諸氏も昌幸にしたがった者も大勢居たと思われる。横谷左近の弟庄八郎重氏も昌幸にしたがい伊勢山に籠城して大いに徳川軍を悩ましたとある。横谷左近自身は、信幸の臣下となっていたので自分がしたがうのをはばかり代わりに弟を使わしたのだろう。この庄八郎重氏は大坂の陣の時、真田信繁と共に大坂城に入城したのであるが、この庄八郎こそ江戸時代真田十勇士の猿飛佐助のモデルとなったとされる人物である。

 徳川秀忠軍は、上田に釘付けとなり関ヶ原の戦いに間に合わなかった。しかし、関ヶ原の戦いは徳川の東軍の勝利することとなり、昌幸、幸村は高野山に蟄居となった。

大阪の役における横谷氏


 慶長十九年大坂冬の陣、元和元年夏の陣においては信幸は弟信繁と相まみえるを快とせず、病気と称し、長子信吉、次子信政を将として参陣させた。上田の侍の将は矢沢頼之、沼田の侍の将は祢津幸豊であった。特に夏の陣は戦闘激烈を極め、沼田侍の戦死者は、祢津幸豊を初め原郷左衛門、横谷惣右衛門、羽田雅楽、石井舎人、有川左内、恩田左京。戦傷者は、鎌原岩見、西窪伊兵衛、湯本三左衛門という有り体であった。

その後の横谷氏


 大阪の役において横谷惣右衛門戦死しその跡目は、その子が欠落して行方不明であったので兄横谷左近行重の長子与左衛門幸久がこれを継いだ。この横谷左近こそ、真田家において出浦対馬と共に忍者の双璧をなすと言われた人である。吾妻には、中之条の唐沢玄蕃、割田下総が有名であるが、この横谷左近はまたべっかくの忍びの差配と言った立場だったと思われる。

 このように横谷一族は長子左近、次子惣右衛門、三子庄八郎、左近の子息与左衛門幸久と兄弟三人、子息一人計四人も敵味方に分かれ大阪の役にしたがい、内兄弟二人とも壮絶な討ち死にという大いなる犠牲を受けたことは、沼田藩中においてのみでなくまれに見る武勲であった。四男伊右衛門幸安は松代に下り真田家中となり松代横谷氏の祖となった。
 沼田藩断絶の折横谷勘十郎重久と弟与左衛門重栄は知行地横谷村に帰り浪々の身となった。その後大笹関所番を仰せつかり、「二十俵二人扶持」と微禄ながら代々つとめ維新を迎えている。弟与左衛門重栄は沼田藩主本多伯耆守正永に仕え、本多候駿河田中城移封後も仕えその地でなくなった。
 ここで横谷左近の弟庄八郎重氏について少し解説したい。真田昌幸が犬伏より引き上げ、上田に向う途中ここを通ったといわれている。多分沼田→大戸→卍峠→狩宿→鎌原→大笹→鳥居峠→上田と言うルートを通ったと思うが、そのときの横谷左近、自身は信之の家臣であった為弟の庄八郎重氏を案内として随伴させたとある(横谷文書・加沢記他)。この庄八郎は、上田の籠城戦で活躍し、九度山へは昌幸、信繁に従って一緒に行き、昌幸死亡後も隋進した多くの家臣が九度山を去ったのに反して最後まで信繁に従って大坂の陣では、信繁と共に大阪方として討ち死にしている。この庄八郎こそ「真田十勇士」の猿飛佐助のモデルになったとも言われている人物である。詳細は明かでは無いが、こういう言い伝えがある事も最後にお伝えしておこう。