真田氏の出自

 海野氏は清和天皇(第五十六代)の第五皇子貞元親皇より出た滋野氏を基にしている。正平年間貞元親皇は勅命を受けて関東に下るが、そのとき滋野の姓を戴き、信濃の国司に任命された。その位は四品、治部卿である。信濃の赴いた滋野氏は小県郡海野の勝に住む。法名を関善寺殿と言い、真言宗秘密の道場を建立している。そして海野家では毎年四月と八月の四日を「白鳥」と呼んで祭りをしている。新皇には男の子が一人有り、海野小太郎滋野朝臣幸恒と命名されて海野氏が始まる。ある時幸恒は三人のわが子を連れ、武石山中に狩りに出かけた。そして千曲川のほとりに立って、領地を三人に分けた。長男を海野小太郎幸明、二男祢津小次郎真宗、三男を望月三郎重俊といった。法名を長男から前山寺殿、長命寺殿、安元寺と呼ばれ、それぞれ真言宗の僧を招いて寺院を建てている。

 その後の幸明の系図を見ると、孫が幸盛でその弟が下屋将監幸房である。この人は吾妻郡三原という所に住んで、鎌原、西窪、羽尾の三氏を出している。太郎幸盛の方は玄孫が海野信濃守幸親とその弟海野弥四郎幸広で、二人は寿永二年に木曾左馬頭義仲の幕下には入り、平家追討の宣旨受けると備中国水島に駆けつけ、追手の大将を承るが、その年閏十月一日に戦死している。その功により嫡男は左衛門尉を襲名して海野幸氏となる。

 その子が信濃守幸継(中善寺殿)で、六人の子があり上から海野小太郎幸春、会田小次郎幸元、塔原三郎氏広、田沢四郎氏勝、狩谷原氏重、光六郎氏頼と名乗る。この六人はいずれも信州で地頭となっている。また刈谷原に三子あって、氏治、氏陸、氏截と言う。

 長男幸春からずっと下って十一代に兵庫守幸則があり、その長男が幸義、二男が岩下豊後守と言う。幸義三世の小太郎は、鎌倉公方足利持氏公から生前の名の一時をもらい持幸となる。

 持幸から三代の地に海野小太郎棟綱が現れる。この頃になると都も地方も不穏で、どこも兵乱が絶えない有り様となる。そこで棟綱は小県郡砥石と上田原に城郭を築く。棟綱には四人の子があり、長男は海野左京大夫幸義、二男を真田弾正忠幸隆、三男を矢沢右馬介綱隆(後の薩摩守頼綱)、四男を常田出羽守俊綱(武石右京進)と名乗る。棟綱は領地を譲るが、二男幸隆には真田、小日向、横沢、原の郷、荒井在家三百貫文の土地を配分し、臣下には矢野、川原付けて与えた。幸隆は武運長久と子孫繁栄の吉相が見えていた。まず真田村に甲田と言う家並みを整えている。甲田はこの郷の鎮守、白山台権現が鎮座する地であった。

 ここで白山大権現の縁起というのは、我が国の元祖にあたる伊弉諾尊をご神体として、これを白山大権現と言って敬ったのである。

 これは信州浅間山、吾妻屋山の権現と一体をなす物である。真田の白山は信州の鎮守の里宮で、上州では吾妻郡三原の郷に同じ里宮がある。その二つとも幸隆の祖先貞元親皇が建立した物と伝えられている。幸隆はこの地を領有すると、鎮守をあがめ、自分は由緒のある家名を相続したことを名乗ってから末の繁栄が約束された。

 幸隆には五人の子があり、長男は真田源五郎であり、後源太左衛門信綱となり二男は兵部介信貞(昌輝)、三男を喜兵衛尉昌幸、四男が隠岐守昌君と名乗った。幸隆は文武両道に勝れていた。当時、公方は義□公の時代で、公方の命令に従う物もなく、国々は兵乱の時代となっていたおりである。幸隆は所々の城に攻めかけ、合戦には勝利を収めないことはなかった。

 其の頃、信濃国では、数多くの地頭が支配していたが、なかでも村上義清や木曾義昌、諏訪頼重、小笠原長棟らは、かの国の頭領で、彼ら四大将は領地争いを続け、大身は小身をかすめ取り、小身は細工を労して他の領地を奪おうと、戦を挑むようなときであったので、滋野の一族はあげて村上殿の幕下に降伏し、人質を渡しておいた。

 <解説>

 真田氏の祖滋野氏は、清和天皇の第五皇子貞元親皇が信濃守に任官し、任地に下って天皇より滋野の姓を賜ったと「加澤記」にあるが、おそらく遙任と言って任地には赴任せず「遙任」といって、都に残ったまま任官したのではないのかと思います。上野国も新皇の任官することが多かった国で、やはり「遙任」上野介(国守の次官)が現地に代理として下っていたように信濃国も同じだったと思います。また、新皇が賜る氏は源氏、平氏など武家として有名な氏ですが、新皇が臣籍降下するときに賜る氏がいくつかあり「源」「平」などもそうであり、「滋野」もその一つだったのでしょう。その滋野の一族が、都より下り小県郡の開発領主として土着していったのでしょう。

 真田氏は滋野氏の出であると唱えている。松代真田藩の真田伊豆守信之は、「真田伊豆守 滋野信之」と名乗っていました。「加澤記」においては、滋野の直系海野棟綱の二男としているが、真田氏は中世から存在していたようである。真田幸隆は「弾正忠」を名乗っていたが、これは正式に名乗ったわけではなく箔を付けるために勝手に名乗っていたため正式に任官したわけではない。幸隆の通称は源太左衛門と言っていた。

 真田氏は海野の嫡流を名乗っているが実は幸隆は真田頼昌の長男として生まれて、真田源太左右衛門幸綱といったと今では定説となっている。母は、海野棟綱の娘だといわれていて、海野棟綱の母系の甥にあたる。また、幸綱の弟は祢津系の矢沢家を継ぎ矢沢源之助綱頼と名乗り、後真田家の有力な家臣となっている。兄弟とも「綱」の字が共通していて、おそらく海野棟綱の「綱」の諱をもらった物と思われる。通称には「源」の字が共通していて、これは真田家の共通する字だったのでしょう。幸綱の長男信綱(長篠の戦いで戦死)も源太左右衛門を名乗っているところから、真田家の惣領の通称だったと思われます。

 関東の動乱「結城合戦」の従軍者のなかに「実田」という者が見える。当時の文書には当て字が多かったので、「実田」は「真田」だと思われるので幸隆はこの文書にある「実田」の子孫であったのでしょう。もちろん、滋野一族であることは代わりありませんが。幸隆の弟が祢津家の一族「矢沢」を継いでいるところから、真田氏は祢津の分れではないのかという説もあります(矢澤系図)。

 真田の祖「源太左衛門幸隆」は五百貫文の領地といわれていますが、この領地は江戸時代の石高に換算しますと、信之が松代に移封されたとき一貫文3石と言われていますので3石として1500石前後の領地だったでしょう。兵力にすると五十人程度、多くても百人に満たない程度の徴兵能力だったでしょうから、滋野一族すべて合わせた数も五百人~八百人程度の勢力だったと推定されます。信濃が、一国を統一するような大勢力がなかったといっても北信の雄、村上氏とは敵対していたがはるかに村上氏の勢力が勝っていました。

 真田右馬介綱吉

 永禄8(1541)年8月、武田信玄は家臣団に対して生島足島神社起請文を提出させている(参考:起請文にみる信玄武将)。この中に海野衆として、12名の連名の起請文に真田右馬助綱吉の名が見える。はて、この人はいかなる人物であろうか。広く知られている、真田幸隆(幸綱)の系図からはその名は出てこない。そもそも○○衆というのは、ある特定の地域の小領主がまとまって集団を作り、戦国大名に対して国衆と同じ発言権や軍役をこなす者である。海野氏関係の中では海野幸貞が単独で、幸忠、信守が2名連名で、そしてこの綱吉が12名連名の中に名を連ねている。これを見ると、幸貞が国人領主、幸忠、信守が準国人領主、真田右馬助綱吉を含む12名は、郷士連合というような位置づけになるのか。

 この、真田右馬助綱吉なる人物が真田弾正忠幸隆(幸綱)の兄、つまり近年の説で、幸綱の父と言われる真田右馬助頼昌の嫡男ではないかと言われ始めている。これは、東御市の深井家に伝わる文書などから「真田右馬亮綱吉」法名「嘉泉院眞相勧喜大禅定門」である。この人は、東部興善寺と高野山蓮華定院で元和9(1623)年庄村金右衛門によって供養されたと記録されている。

 深井家の過去帳によると、「真田馬之亮綱吉」の子は

 「真田馬之亮綱重」で法名「深井院寛誉宗眞居士」とある。

 この深井綱吉は真田右馬助綱吉であり、深井郷が本貫地であったのは間違いないようである。家紋は、六文銭である。

 以上の事例と、真田幸隆(幸綱)の武田家における信州先方衆以前の事象が分からない点など踏まえると。真田幸隆は、真田の嫡流ではなかった(もちろん海野の嫡流ではない)と捉える説が有力になる。そうするとこの深井(真田右馬助綱吉)綱吉という人物、真田頼昌から続く嫡流は綱吉につながる系統ではないかと感じさせるのである。

 昌幸に関しても、真田家の正統後継者ではなかったという説もある。

 ただ、真田一族の中で弾正忠幸隆(幸綱)が武田家において一番勢力があった人で、出世頭だったのはまちがいの無い事実であると思います。この事例は、今後の諸先生の研究に期待したいと思います。

海野平の合戦

 祢津宮内太輔覚直の一族に大塚掃部介幸実という人が居た。元を正せば祢津とは同族借谷源五郎の子孫で、そのとき水内郡大塚で地頭だった。幸実は村上頼平の頃から無二の村上の幕下であった。その年諏訪大社の参籠しては諏訪頼重に対面するなどの行動により、村上義清に怪しまれて、領地を没収されてしまった。

 幸実は小県郡に身を引いて浪人となる。これを見て村上義清は、この際滋野一族を退治しようとする。覚直はこれを聞いて、事態は容易ではないと村上方に先手攻撃をかける。まず葛尾を攻めることとなるが、海野幸象が惣領家にあたるのでこの事情を説明した。幸象は使いのおもむきを聞いて、「絶好の機会である。近年村上に横取りされて無念に思っていたが、どうしようもなく無力で是非もなかった。今こそ我にとっても好都合、舎弟幸隆は知謀の勇姿であるから意見を戴くこともできよう。」と、小草野孫右衛門を真田にやる。幸隆は上田まで出る。-そこに矢沢右馬介殿も来て、一族みんなで話し合った。

 天文十年二月下旬のことである。右京大夫幸義、宮内太輔覚直舎弟美濃守信直は二手に分かれ、先陣は弾正忠幸隆、本陣と前備矢沢右馬介、鞠子藤八郎、村上土佐守、後陣は小泉常田と定め、六連銭の朽葉四方の大旗に州浜の紋章、白地に日の丸を染めた大旗を真っ先に立てて進み、その勢力合わせて二千余騎が、葛尾へと押し寄せた。

 一方義清のかねてからの用意の通り、高梨子信濃守を先陣に立て、石畳の紋を染めた大旗をかざして二千余騎の軍勢。義清は遙か後方に下がって進軍し、上田と榊の間に陣取ると、千曲川のほとりで備えを固めた。

 前の備えは室賀八代の率いる一党千五百余騎、後ろ備えは大室、清野、望月、覚願寺、小笠原、西条、下条4、松尾、芋川らが、また麓の備えは綿内、食品、草間、寺尾、赤沢、波浮、雨ノ宮、座光寺、八幡社主らが、後方に下がって、小丸山の方に陣を敷く。その軍勢はおよそ二千余騎、都合五千四騎が轡を並べて静まり替えている。

 先鋒幸隆は、敵陣丸山の状況について幸義に仰せになる。「村上方の備えを見れば、鶴が翼を広げたように兵を並べ、我が軍を包み込む配備を整えている。わが方の攻めをを待つように思われる。わが方が少しでもたじろぐようであれば、決って配備を崩し押し寄せるに相違ない。そのときはかねて山陰に隠しおく祢津の一勢で持て後を遮り、敵を討ち取ることができよう。我はそのときを見て、森の木陰から回り込み、義清の旗本へ攻め入り、有無勝負を決しよう。」と、軍法を定めあって備えをとき姿を消した。

 すると案の定高梨子はひるがえる旗の動きに戦況有利と見て、ホラ貝を吹き立てたので、戦陣後陣の兵はこの合図に「おう」とときの声を上げ、もみにもんで攻め立ててきた。大将幸義は辛抱強い方ではない。程なく引き返すが、村上はまだ本備えを固めて動かない。こうして幸義が誤算に気づいたときはすでに遅く、その結果高梨子と戦う羽目と成、激しく交戦してひとまず高梨子を山上に追いやるが、そこに後陣に回っていた室賀八代が、新手を繰り出してさんざん攻め込んできた。

 幸義の武運はそれまでであった。乗馬が堰溝に飛び込み、前膝を突き当てて倒れた。幸義は馬の後ろにどっと落ち、起き上がろうとしたが、多勢に重なり合って槍ぶすまを突き当てられ、脇下から乳のあたりを突き当てられた。

 幸義はこれまでとてにした槍を投げ捨て、太刀を抜き室賀の家臣芋川に挑み、真っ二つに切り裂いた。この勢いに敵はたじろぎ寄る者もない。そのうち見方の軍勢が駆けつけて敵を甥は追おうとするが、勝ちに乗じた敵兵は槍を突いて攻め立てるので、とてもかなわない。

 舎弟右馬介綱隆は、目の前で兄を討たれては末代の恥なりと高々と唱え、馬から飛び降り、海野重代小繋松の作と伝わる手槍をひっさげて立ち向かう。家臣の庄村、上原、山越、神尾も続いて、一気に攻めまくる。このとき綱隆は武勇無頼若者盛りであった。たちどころに付近の敵十三騎を打取って、気勢を上げたが、幸義はむなしく事切れていた。

 それより民家から板戸を借りてきて、春原惣右衛門、川原惣兵衛両人が遺体をかばって落ち延びた。

 一方山陰に隠れていた宮内太輔は、見方が敗れていた様子を見て幸隆に合流すると、一気に義清の本陣に押し寄せる。そこで幸義戦死の報を受けたのである。我ら生き残っては末代までの名折れと覚直は祢津相伝の橋返りの太刀を抜き払い、幸隆は、棟綱公より賜った三尺五寸もある厳物造りの太刀を真っ向からかざして、一文字に義清めがけて内かかっていく。

 これをみて、別府、小林、三宅なども続いて攻め立てる。村上方は一時危うく見えた。部下覚願寺信清は義清を討たせてはなる物かと、かけてきて立ちふさがり、綿内、大室、食品らの五百騎もこれに加えて互いに火花を散らせたが、夕暮れともなってどちらとも引き上げた。その日の戦いは終わった。幸隆は味方の軍勢を集める。その損害は一千余騎が戦死、残った大半も傷を負っていた。

<解説>

 これは、海野平の合戦のことを書いていると思われます。滋野一族のもっていた海野平の地である滋野一族の領地を、村上義清はかねてからを狙っていてその機会を伺ってていたのでしょう。かねてから、北信の村上、高梨氏は領地争いを繰り返していたが、この頃和睦して村上氏の上田原侵攻の準備が整ったと思われます。しかしこの滋野一族の没落した戦は、史実では武田信虎(信玄の父)、諏訪頼重、村上義清の連合軍によって攻められて没落したようである。この記を書き残した加沢平次左衛門は沼田真田藩の藩士であり、真田氏のを誇張して書かなければならなかったでしょうから少し割り引いて考えた方がよいと思います。特に、真田幸綱(幸隆)については真田藩にとって元祖となる人物となるので、文武両道に勝れた名将という位置付けをしなければならなかったと思います。まあ、この真田幸綱(幸隆)については武田家の二十四神将の内に入っている人物なので名将には違いないとは思います。信憑性ということは、横に置いて海野氏没落の事が分かる記述だと私は思います。海野方の諸将の中には矢澤馬之亮、春原兄弟、祢津氏などは諏訪神社途の関係から許され地元に残り、海野棟綱や真田幸綱は上野国守護上杉憲政のもとに逃れます。上野守護で関東管領上杉氏は、信濃の一部にも領地がありましたのでそんなことが関係していたのでしょう。