曾我物語序文

 曾我物語は、曾我五郎十郎が源頼朝が富士の裾野で巻狩をした時に、親の敵である工藤祐経を討ち取ったという物語である。成立は鎌倉時代で、完成の域に達したのは室町時代の初めの頃だと言われています。そもそもの起こりは、祐親の祖父家継にまでさかのぼります。伊東家の家督は、家継から祐親の父佑家に引き継がれます。その、当主裕家が亡くなります。そのときまだ存命であった家継が、裕家の子祐親ではなく叔父の佑継の家督を決定してしまいます。納得しない祐親はその家督に不満で、何度も訴訟を起こす事になる。恨みの根は深く、佑継が亡くなるとその子である伊東祐経の所領を奪ったとされている。祐経に嫁いでいた、祐親の娘も離縁させている。土地と妻を奪われた祐経は、大激怒。安元二(1176)年十月、狩に出た祐親を郎党に命じ、祐親を襲撃させました。そのとき祐親は無事だったものの、嫡子佑泰が矢を受けて亡くなりました。この佑泰の孫が、曾我兄弟だったのです。北条(江間)義時からすると、母方の実家の争いという事になります。
 伊東家の中でのいざこざがあった頃(鎌倉時代以前)の地方武士は、「京都大番役」という役目を平家より命ぜられました。この頃より少し前、保元平治の乱が起こります。保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇でその実権を争った戦いです。この時は平家、源家共に兄弟親戚で別れて戦いました。そのとき生き残ったのが平家は平清盛、源家は源義朝(後の征夷大将軍頼朝の父)。その次に起こったのが平治の乱です。実権を握った後白河天皇は、二条天皇に天皇の座を譲ったが実権は握ったままだったのです。そして次に起こった政変が、平治の乱です。後白河上皇には信西と平清盛が、二条天皇には藤原信頼と源義朝がつき争いが起きました。ここで、後白河上皇と信西、平清盛が勝利して信頼と源義朝は敗れ殺されてしまいます。これにより義朝嫡男、源頼朝のは伊豆の地へ名がされる事になります。その監視役に伊東祐親が平家によって命ぜられていたのです。

 こんな時事件が起きます。伊東祐経が、「京都大番役」として領地を留守にしている間、流人である源頼朝が、祐親の三女八重姫のもとに通い息子(千鶴丸)までもうけてしまったのです。帰国してそれを知った祐親は、大激怒でした。当時は平家の全盛の頃で、こんな事が平清盛にばれれば大変な事です。家など潰されかねない事件だったのです。ついに祐親は安元元(1175)年九月、千鶴丸を松川に沈め殺してしまいました。頼朝まで、殺しかねない勢いだったのでした。そのとき祐親の二男、伊東佑清より危機を知らされた頼朝は難を逃れました。頼朝を救った伊東佑清、実は彼の妻が頼朝の乳母、比企尼の娘だったのでした。

 頼朝はいったん伊豆山神社(熱海市)逃れ、その後北条時政の屋敷に匿われます。祐経は、北条との争いを嫌いこれ以後沈黙します。息子を殺された八重姫は、北条政子と頼朝がねんごろになっている場面を見てしまい、失望し入水してしまったと言われています。
 次ぎに祐親が登場するのは、治承四(1180)年八月、頼朝が挙兵して石橋山の合戦の時に敵側(平氏側)として登場します。この時は頼朝は敗れ、落ち延びて難を逃れます。そして再び頼朝が体制を整えて再起し、同年十月「富士川の戦い」になり、この時は頼朝が甲斐源氏武田信義などの力を借り、勝利します。敗れた祐親は駿河の方へ逃げようとしたが捕らえられ、娘婿の一人だった三浦義澄に預けられる。頼朝の妻政子が解任中だったこと、義澄の助命嘆願などにより一時は許されました。しかし、養和二(1182)年二月十五日、「過去を恥じる」と言って自害してしまいます。この後、伊東佑清も捕らえられました。頼朝にとって命の恩人ですので、罪一等を許して恩賞を与えようとしたそうです。しかし、「父が罪人扱いされているのに、自分が恩賞をもらうわけには行かない。」と言って自ら誅殺を望んで誅殺されたとも、上洛して平家方として北陸で討ち死にしたとも言われています。

 続いて曾我兄弟の仇討ちの解説をします。工藤祐経は、伊東佑継の子になります。父の遺言により伊東祐親が後見になります。元服の後祐親の娘を娶り、祐親に伴われ上洛し、平重盛に仕えます。しかし祐経が上京している間に、祐親は祐経が継いだ伊東荘を横領し、さらに妻まで土肥遠平に嫁がせてしまいます。それを知った祐経は、都において訴訟を起こすが祐親によって根回しされ、失敗に終わります。この出来事により、祐経は祐親に対して恨みを持つことになる。冒頭にも記述したが安元二(1176)年十月、祐経は郎党に命じ祐親の殺害を試みる。伊豆奥野の狩り場から帰る途中、祐親父子を襲撃されたのです。祐親を討ち漏らしたが、嫡男河津祐泰を殺すことに成功する。残された佑泰の妻は、子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時成)を伴い曾我祐信に再嫁した。そして、佑泰の二人の子は曾我姓を名乗ることになるのです。

 工藤祐経は「吾妻鏡」にも登場する。元歴元(1184)年四月の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録。同年六月、一条忠頼誅殺に加わるが役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年八月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を通り豊後に渡る。文治二(1186)年四月、静御前が鶴岡八幡宮出舞を舞った際、鼓を打つ。建久元(1190)年に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍七人のうちに選ばれ参院の御供をした。建久三(1192)年七月、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。建久元(1190)年七月、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやってきた祐経が座る場所がなかった。先に伺候していた十五歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。信実は激怒して座を立つと、石つぶてを持ってきて裕恒の額にたたきつけ流血した。頼朝は怒り信実の父、佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して裕恒に謝罪するよう求めたが、すでに信実を義絶したこ都として謝罪を拒否した。裕恒は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったと氏佐々木親子に恨みを持たないと述べている。以上が、「吾妻鏡」の中の記述である。

 建久四(1193)年五月、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩を行い祐経も参加する。巻狩の最終日の五月二十八日深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所、曾我祐成、時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父、河津佑泰の仇として打たれた。祐経の紹介で御家人になっていた備前の国吉備津彦神社の神官、王藤内も一緒に討たれた。騒動の後、詮議を行った頼朝は時致の助命を考えたが、祐経の子犬吠丸が泣いて訴えたため、時致は斬首された。

 犬房丸は元服の後伊東祐時を名乗り、伊藤氏を継承する。祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊藤氏となり、飫肥藩藩主となる。

神代(かみよ)の始(はじ)まりの事(こと)

 夫(そ)れ、日域(じちゐき)秋津島(あきつしま)は、是(これ)、国常立尊(くにとこたちのみこと)より事(こと)起(お)こり、■土■(うひぢに)・沙土■(すひぢに)、男神(なんしん)・女神(によしん)を始(はじ)めとして、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)まで、以上天神七代にて渡(わた)らせ給(たま)ひき。又(また)、天照大神(あまてるおほんかみ)より、彦波瀲武■■草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみこと)まで、以上地神五代にて、多(おほ)くの星霜(せいさう)を送(おく)り給(たま)ふ。然(しか)るに、神武(じんむ)天皇(てんわう)と申(まう)し奉(たてまつ)るは、葺不合(ふきあわせず)の御子(みこ)にて、一天(いつてん)の主(あるじ)、百皇(はくわう)にも始(はじ)めとして、天下(てんが)を治(をさ)め給(たま)ひしより此(こ)の方(かた)、国土(こくど)を傾(かたぶ)け、万民(ばんみん)の恐(おそ)るる謀(はかりこと)、文武(ぶんぶ)の二道(にだう)にしくは無(な)し。好文(かうぶん)の族(やから)を寵愛(ちようあい)せられずは、誰(たれ)か万機(ばんき)の政(まつりごと)を助(たす)けむ。又は、勇敢(ようかん)の輩(ともがら)を抽賞(ちうしやう)せられずは、如何(いか)でか四海(しかい)の乱(みだ)れを鎮(しづ)めん。かるが故(ゆゑ)に、唐(たう)の大宗文(たいそうぶん)皇帝(くわうてい)は、瘡(きず)をすひて、戦士(せんし)を賞(しやう)し、漢(かん)の高祖(かうそ)は、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(たい)して、諸侯(しよこう)を制(せい)し給(たま)ひき。然(しか)る間(あひだ)、本朝(ほんてう)にも、中頃(なかごろ)より、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)を定(さだ)め置(お)かれしより此(こ)の方(かた)、武略(ぶりやく)を振(ふ)るひ、朝家(てうか)を守護(しゆご)し、互(たが)ひに名将(めいしやう)名(な)を現(あらは)し、諸国(しよこく)の狼藉(らうぜき)を鎮(しづ)め、既(すで)に四百余回(よくわい)の年月(としつき)を送(おく)り畢(をは)んぬ。是(これ)清和(せいわ)の後胤(こうゐん)、又(また)桓武(くわんむ)の累代(るいたい)なり。然(しか)りと雖(いへど)も、皇氏(わうじ)を出(い)でて、人臣(じんしん)に連(つら)なり、鏃(やじり)をかみ、鋒先(ほこさき)を争(あらそ)ふ志(こころざし)、とりどり也(なり)。
 〔惟喬(これたか)・惟仁(これひと)の位(くらゐ)争(あらそ)ひの事(こと)〕 抑(そもそも)、源氏(げんじ)と言(い)つぱ、桓武天皇(くわんむてんわう)より四代の皇子(わうじ)を田村(たむら)の御門(みかど)と申(まう)しけり。皇子(わうじ)二人御座(おは)します。第一(だいいち)、惟喬(これたか)の親王(しんわう)と申(まう)す。帝(みかど)殊(こと)に御志(おんこころざし)思(おぼ)し召(め)して、東宮(とうぐう)にも立(た)て、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)らばやと思(おぼ)し召(め)されける。第二(だいに)の御子(みこ)をば、惟仁(これひと)の親王(しんわう)と申(まう)しき。未(いま)だ幼(いとけな)く御座(おは)します。御母(はは)は染殿(そめどの)の関白(くわんばく)忠仁公(ちゆうじんこう)の御娘(むすめ)也(なり)ければ、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)共(ども)まで愛(あい)し奉(たてまつ)る。是(これ)も又(また)、黙(もだ)し難(がた)くぞ思(おぼ)し召(め)されける。彼(かれ)は継体(けいてい)あひふんの器量(きりやう)也(なり)。是(これ)は、万機(ばんき)ふいの臣相(しんさう)なり。是(これ)を背(そむ)きて、宝祚(ほうそ)を授(さづ)くる物(もの)ならば、用捨(ようしや)私(わたくし)有(あ)りて、臣下(しんか)唇(くちびる)を翻(ひるがへ)すに依(よ)りて、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子(みこ)達(たち)を引(ひ)き具(ぐ)し奉(たてまつ)り、右近の馬場(ばば)へ行幸(ぎやうがう)成(な)る。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、花の袂(たもと)を重(かさ)ね、玉(たま)の裙(もすそ)を連(つら)ね、右近(うこん)の馬場(ばば)、供奉(ぐぶ)せらる。此(こ)の事(こと)、希代(きたい)の勝事(しようし)、天下(てんが)の不思議(ふしぎ)とぞ見(み)えし。御子(みこ)達(たち)も、東宮(とうぐう)の浮沈(ふちん)、是(これ)に有(あ)りと見(み)えし。然(さ)れば、様々(さまざま)の御(おん)祈(いの)り共(ども)有(あ)りける。惟喬(これたか)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、柿本(かきのもと)の紀(き)僧正(そうじやう)真済(しんぜい)とて、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)の御弟子(でし)なり。惟仁(これひと)の親王(しんわう)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、我(わ)が山の住侶(ぢゆうりよ)に、恵亮(ゑりやう)和尚(くわしやう)とて、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(でし)にて、めでたき上人(しやうにん)にてぞ渡(わた)らせ給(たま)ひける。西塔(さいたふ)の平等坊(びやうどうばう)にて、大威徳(だいゐとく)の法(ほふ)をぞ行(おこな)ひける。既(すで)に競馬(けいば)は、十番(ばん)の際(きは)に定(さだ)められしに、惟喬(これたか)の御方(かた)に、続(つづ)けて四番(ばん)勝(か)ち給(たま)ひけり。惟仁(これひと)の御方(かた)へ心(こころ)を寄(よ)せ奉(たてまつ)る人々(ひとびと)は、汗(あせ)を握(にぎ)り、心(こころ)を砕(くだ)きて、祈念(きねん)せられける。惟仁(これひと)の御方(かた)へは、右近(うこん)の馬場(ばば)より、天台山(てんだいさん)平等坊(びやうどうばう)の壇(だん)上へ、御(おん)使(つか)ひ馳(は)せ重(かさ)なる事(こと)、只(ただ)櫛(くし)の歯(は)を引(ひ)くが如(ごと)し。「既(すで)に御方(みかた)こそ、四番続(つづ)けて負(ま)けぬれ」と申(まう)しければ、恵亮(ゑりやう)、心(こころ)憂(う)く思(おも)はれて、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)を逆様(さかさま)に掛(か)け奉(たてまつ)り、三尺(さんじやく)の土牛(とぎう)を取(と)りて、北(きた)向(む)きに立(た)て、行(おこな)はれけるに、土牛(とぎう)躍(をど)りて、西(にし)向(む)きになれば、南(みなみ)に取(と)りて押(お)し向(む)け、東向(む)きになれば、西(にし)に取(と)りて押(お)し直(なほ)し、肝胆(かんたん)を砕(くだ)きて揉(も)まれしが、猶(なほ)居(ゐ)兼(か)ねて、独鈷(とつこ)を以て、自(みづか)ら脳(なづき)をつき砕(くだ)きて、脳(なう)を取(と)り、罌粟(けし)に混(ま)ぜ、炉(ろ)に打(う)ちくべ、黒煙(くろけぶり)を立(た)て、一揉(も)み揉(も)み給(たま)ひければ、土牛(とぎう)たけりて、声(こゑ)を上(あ)げ、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)、利剣(りけん)を捧(ささ)げて、振(ふ)り給(たま)ひければ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)してげりと、御心(おんこころ)述(の)べ給(たま)ふ所(ところ)に、「御方(かた)こそ、六番(ろくばん)続(つづ)けて勝(か)ち給(たま)ひ候(さうら)へ」と、御(おん)使(つか)ひ走(はし)り付(つ)きければ、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、急(いそ)ぎ壇(だん)をぞ下(お)りられける。有(あ)り難(がた)し瑞相(ずいさう)なり。然(さ)れば、惟人(これひと)の親王(しんわう)、御位(おんくらゐ)に定(さだ)まり、東宮(とうぐう)に立(た)たせ給(たま)ひけり。然(しか)るに、延暦寺(えんりやくじ)の大衆(だいしゆ)の僉議(せんぎ)にも、「恵亮(ゑりやう)脳(なづき)を砕(くだ)きしかば、次弟(じてい)位(くらゐ)に即(つ)き、そんゑ剣(けん)を振(ふ)り給(たま)へば、菅丞(かんしやう)霊(れい)をたれ給(たま)ふ」とぞ申(まう)しける。是(これ)に依(よ)りて、惟喬(これたか)の御持僧(ぢそう)真済(しんぜい)僧正(そうじやう)は、思(おも)ひ死(じ)ににぞ失(う)せ給(たま)ひたる。御子(こ)も、都(みやこ)へ御(おん)帰(かへ)り無(な)くして、比叡山(ひえいさん)の麓(ふもと)小野(をの)と言(い)ふ所(ところ)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひける。頃(ころ)は神無月(かんなづき)末(すゑ)つ方(かた)、雪(ゆき)げの空(そら)の嵐(あらし)にさえ、しぐるる雲(くも)の絶間(たえま)無(な)く、都(みやこ)に行(ゆ)き交(か)ふ人も稀(まれ)なりけり。況(いはん)や小野(をの)の御(おん)住(す)まひ、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あは)れ也(なり)。此処(ここ)に、在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)在原(ありはら)の業平(なりひら)、昔(むかし)の御(おん)契(ちぎ)り浅(あさ)からざりし人也(なり)ければ、紛々(ふんぷん)たる雪(ゆき)を踏(ふ)み分(わ)け、泣(な)く泣(な)く御跡(あと)を尋(たづ)ね参(まゐ)りて、見(み)参(まゐ)らすれば、孟冬(まうとう)移(うつ)り来(き)たりて、紅葉(こうえふ)嵐(あらし)に絶(た)え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折(をり)に任(まか)せ、人目(ひとめ)も草(くさ)も枯(か)れぬれば、山里(ざと)いとど寂(さび)しきに、皆(みな)白妙(しろたえ)の庭(には)の面(おも)、跡(あと)踏(ふ)み付(つ)くる人も無(な)し。御子(こ)は、端(はし)近(ちか)く出(い)でさせ給(たま)ひて、南殿(なんでん)の御格子(かうし)三間(げん)ばかり上(あ)げて、四方(よも)の山(やま)を御覧(ごらん)じ、珍(めづら)しげにや、「春(はる)は青(あを)く、夏(なつ)は茂(しげ)り、秋は染(そ)め、冬は落(お)つる」と言(い)ふ、昭明太子(せうめいたいし)の、思(おぼ)し召(め)し連(つら)ね、「香爐峰(かうろほう)の雪(ゆき)をば、簾(すだれ)を掲(かか)げて見(み)るらん」と、御口(くち)ずさみ給(たま)ひけり。中将(ちゆうじやう)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)奉(たてまつ)るに、只(ただ)夢(ゆめ)の心地(ここち)せられける。近(ちか)く参(まゐ)りて、昔(むかし)今(いま)の事(こと)共(ども)申(まう)し承(うけたまは)るに付(つ)けても、御衣(ぎよい)の御袂(たもと)、絞(しぼ)りも敢(あ)へさせ給(たま)はず、鳥飼(とりかひ)の院(ゐん)の御遊幸(いうがう)、交野(かたの)の雪(ゆき)の御鷹狩(たかがり)まで、思(おぼ)し召(め)し出(い)でられて、中将(ちゆうじやう)かくぞ申(まう)されける。忘(わす)れては夢(ゆめ)かとぞ思(おも)ふ思(おも)ひきや雪(ゆき)踏(ふ)み分(わ)けて君(きみ)を見(み)んとは 御子(こ)も取(と)り敢(あ)へさせ給(たま)はで、返(かへ)り、夢(ゆめ)かとも何(なに)か思(おも)はん世(よ)の中を背(そむ)かざりけん事(こと)ぞ悔(くや)しきかくて、貞観(ぢやうぐわん)四年(しねん)に、御出家(しゆつけ)渡(わた)らせ給(たま)ひしかば、小野宮(をののみや)とも申(まう)しけり。又は、四品(しほん)宮内卿宮(くないきやうのみや)とも申(まう)しけり。文徳(もんどく)天皇(てんわう)、御年(とし)三十にて、崩御(ほうぎよ)なりしかば、第二(だいに)の皇子(わうじ)、御年(とし)九歳(さい)にて、御(おん)譲(ゆづ)りを受(う)け給(たま)ふ。清和(せいわ)天皇(てんわう)の御事(おんこと)、是(これ)なる。後(のち)には、丹波(たんば)の国(くに)水尾(みづのを)の里(さと)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひければ、水尾帝(みづのをのてい)とぞ申(まう)しける。皇子(わうじ)数多(あまた)御座(おは)します。第一(だいいち)を陽成院(やうぜいゐん)、第二(だいに)を貞固(ていこ)親王(しんわう)、第三をていけい親王(しんわう)、第四を貞保(ていほう)親王(しんわう)、此(こ)の皇子(わうじ)は、御琵琶(びは)の上手(じやうず)にて御座(おは)します。桂(かつら)の新王(しんわう)とも申(まう)しけり。鏨(こころ)を懸(か)けらる女(をんな)は、月の光(ひかり)を待(ま)ち兼(か)ね、蛍(ほたる)を袂(たもと)に包(つつ)む、此(こ)の御子(こ)の御事(おんこと)なり。今(いま)のしけのこの先祖(せんぞ)なり。第五(だいご)を貞平(ていへい)親王(しんわう)、第六を貞純(ていじゆん)親王(しんわう)とぞ申(まう)しける。六孫王(ろくそんわう)、是(これ)なり。然(さ)れば、彼(か)の親王(しんわう)の嫡子(ちやくし)、多田(ただ)の新発意(しんぼつ)満仲(まんぢゆう)、其(そ)の子摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)、次男(じなん)大和守(やまとのかみ)頼親(らいしん)、三男(さんなん)多田(ただ)の法眼(ほふげん)とて、山法師(やまぼふし)にて、三塔(さんたふ)第一(だいいち)の悪僧(あくそう)なり。四郎(しらう)河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)、其(そ)の子伊予(いよ)入道頼義(らいぎ)、其(そ)の嫡子(ちやくし)八幡(はちまん)太郎(たらう)義家(よしいへ)、其(そ)の子但馬守(たぢまのかみ)義親(よしちか)、次男(じなん)河内(かはち)の判官(はんぐわん)義忠(よしただ)、三男(さんなん)式部(しきぶ)の太夫義国(よしくに)、四男(なん)六条(ろくでう)の判官(はんぐわん)為義(ためよし)、其(そ)の子(こ)左馬(さま)の頭義朝(よしとも)、其(そ)の嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐう)の大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)、三男(さんなん)右近衛(うこんゑ)の大将(たいしやう)頼朝(よりとも)の上(うへ)越(こ)す源氏(げんじ)ぞ無(な)かりける。此(こ)の六孫王(ろくそんわう)より此(こ)の方(かた)、皇氏(わうじ)を出(い)でて、始(はじ)めて源(みなもと)の姓(しやう)を賜(たま)はり、正体(しやうたい)をさりて、長(なが)く人臣(じんしん)に連(つら)なり給(たま)ひて後(のち)、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)より、下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)に至(いた)るまで七代は、皆(みな)諸国(しよこく)の竹符(ちくふ)に名(な)を掛(か)け、芸(げい)を将軍(しやうぐん)の弓馬(きゆうば)に施(ほどこ)し、家(いへ)にあらずして、四海(しかい)を守(まも)りしに、白波(はくは)猶(なほ)越(こ)えたり。然(さ)れば、各々(おのおの)剣(けん)を争(あらそ)ふ故(ゆゑ)に、互(たが)ひに朝敵(てうてき)に成(な)りて、源氏(げんじ)世(よ)を乱(みだ)せば、平氏(へいじ)勅宣(ちよくせん)を以(もつ)て、是(これ)を制(せい)して朝恩(てうおん)に誇(ほこ)り、平将(へいしやう)国(くに)を傾(かたぶ)くれば、源氏(げんじ)しよめいに任(まか)せて、是(これ)を罰(ばつ)して、勲功(くんこう)を極(きは)む。然(しか)れば、近頃(ちかごろ)、平氏(へいじ)長(なが)く退散(たいさん)して、源氏(げんじ)自(おの)づから世(よ)に誇(ほこ)り、四海(しかい)の波瀾(はらん)を治(をさ)め、一天(いつてん)のはうきよ定(さだ)めしより此(こ)の方(かた)、りらくりんゑたかいいて、吹(ふ)く風(かぜ)の声(こゑ)穏(おだ)やか也(なり)。然(しか)れば、叡慮(えいりよ)を背(そむ)くせいらうは、色(いろ)を雄剣(おうけん)の秋の霜(しも)にをかされ、てこそをみたすはしは、音(おと)を上弦(しやうげん)の月に澄(す)ます。是(これ)、偏(ひとへ)に羽林(うりん)の威風(いふう)、先代(だい)にも越(こ)えて、うんてうの故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)るに、せいしをひそめて、せいとの乱(みだ)れを制(せい)し。私曲(しきよく)の争(あらそ)ひを止(や)めて、帰伏(きぶく)せらるるは無(な)かりけり。

<解説>

 これは、伊藤氏と工藤氏の出自を記した一文です。伊藤氏と工藤氏ともに、平氏です。関東は元々平氏の、高望王(平性‐平高望)が臣籍降下して従五位下下総介に赴任したことに始まる。伊豆平氏に伊藤、工藤、北条など、武蔵に秩父平氏の畠山重忠など鎌倉時代には活躍していた。平高望は桓武天皇の孫、曾孫とも言われていて下総之介拝領のときこの国香、義兼、良将を伴って下向したと言われている。「承平・天慶の乱」で良将の子、将門によって反乱が起こされ藤原秀郷、平貞盛によって誅伐される。この平貞盛の子孫が後の伊勢平氏、惣国と言われた平清盛です。この件は、神々の伝説から、「いざなぎ」「いざなみ」から始まる天皇家の由緒、そこから分かれる平家、源氏にいたるまでのことを書いている。

伊東(いとう)を調伏(てうぶく)する事(こと)

 此処(ここ)に、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、伊東(いとう)の二郎(じらう)祐親(すけちか)が孫(まご)、曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)、同(おな)じく五郎(ごらう)時致(ときむね)と言(い)ふ者(もの)有(あ)りて、将軍(しやうぐん)の陣内(ぢんない)も憚(はばか)らず、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ち取(と)り、芸(げい)を戦場(せんぢやう)に施(ほどこ)し、名(な)を後代(こうたい)に止(とど)めけり。由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬれば、即(すなは)ち一家(か)の輩(ともがら)、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)祐経(すけつね)なり。例(たと)へば、伊豆(いづ)の国(くに)伊東(いとう)・河津(かはづ)・宇佐美(うさみ)、此(こ)の三ケ所(しよ)をふさねて、■美庄(くすみのしやう)と号(かう)するの本主(ほんじゆ)は、■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)にてぞ有(あ)りける。在国(ざいこく)の時(とき)は、工藤(くどう)大夫(たいふ)祐隆(すけたか)と言(い)ひけり。男子(なんし)数多(あまた)持(も)ちたりしが、皆(みな)早世(さうせい)して、遺跡(ゆいせき)既(すで)に絶(た)えんとす。然(しか)る間(あひだ)、継女(ままむすめ)の子(こ)を取(と)り出(い)だし、嫡子(ちやくし)に立(た)てて、伊東(いとう)を譲(ゆづ)り、武者所(むしやどころ)に参(まゐ)らせ、工藤(くどう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)と号(かう)す。又(また)、嫡孫(ちやくそん)有(あ)り、次男(じなん)に立(た)てて、河津(かはづ)を譲(ゆづ)り、河津(かはづ)二郎(じらう)と名乗(なの)らせ、然(しか)る間(あひだ)、寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、祐親(すけちか)思(おも)ひけるは、我(われ)こそ、嫡々(ちやくちやく)なれば、嫡子(ちやくし)に、異姓(いしやう)他人(たにん)の継女(ままむすめ)の子、此(こ)の家(いへ)に入(い)りて、相続(さうぞく)するこそ、安(やす)からねと思(おも)ふ心(こころ)付(つ)きにけり。是(これ)、誠(まこと)に神慮(しんりよ)にも背(そむ)き、子孫(しそん)も絶(た)えぬべき悪事(あくじ)なるをや。仮令(たとひ)他人(たにん)なりと言(い)ふとも、親(おや)養(やう)じて譲(ゆづ)る上(うえ)は、違乱(いらん)の義(ぎ)有(あ)るべからず。まして、是(これ)は、寂心(じやくしん)、内々(ないない)継女(ままむすめ)のもとに通(かよ)ひて、設(まう)けたる子(こ)也(なり)。誠(まこと)には兄(あに)なり。譲(ゆづ)りたる上(うへ)、争(あらそ)ふ事(こと)、無益(むやく)の由(よし)、余所(よそ)余所(よそ)にも申(まう)し合(あ)ひけり。然(さ)れども、祐親(すけちか)止(とど)まらで、対決(たいけつ)度々に及(およ)ぶと雖(いへど)も、譲状(ゆづりぢやう)を捧(ささ)ぐる間(あひだ)、伊東(いとう)が所領(しよりやう)に成(な)りて、河津(かはづ)は負(ま)けてぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、上(うへ)に親(した)しみながら、内々(ないない)安からぬ事(こと)にぞ思(おも)ひける。然(さ)れども、我(わ)が力(ちから)には適(かな)はで、年月(としつき)を送(おく)り、或(あ)る時(とき)、祐親(すけちか)、箱根(はこね)の別当(べつたう)を秘(ひそ)かに呼(よ)び下(くだ)し奉(たてまつ)り、種々(しゆじゆ)にもてなし、酒宴(しゆえん)過(す)ぎしかば、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、畏(かしこ)まりて申(まう)しけるは、「予(かね)てより知(し)ろし召(め)されて候(さうら)ふ如(ごと)く、伊東(いとう)をば、嫡々(ちやくちやく)にて、祐親(すけちか)が相(あひ)継(つ)ぎ候(さうら)ふべきを、思(おも)はずの継女(ままむすめ)の子来(き)たりて、父(ちち)の墓所(はかどころ)、先祖(せんぞ)の重代(ぢゆうだい)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)仕(つかまつ)る事(こと)、余所(よそ)にて見(み)え候(さうら)ふが、余(あま)りに口惜(くちを)しく候(さうら)ふ間(あひだ)、御心(おんこころ)をも憚(はばか)らず、申(まう)し出(い)だし候(さうら)ふ。然(しか)るべくは、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命(いのち)を、立所(たちどころ)に失(うしな)ひ候(さうら)ふ様(やう)に、調伏(てうぶく)有(あ)りて見(み)せ給(たま)へ」と申(まう)しければ、別当(べつたう)聞(き)き給(たま)ひて、暫(しばら)く物(もの)も宣(のたま)はず、やや有(あ)りて、「此(こ)の事(こと)、よくよく聞(き)き給(たま)へ。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)にてこそ坐(ま)しまさね、兄弟(きやうだい)なる事(こと)は眼前(がんぜん)也(なり)。公方(くばう)までも聞(き)こし召(め)し開(ひら)かれ、既(すで)に御下知(げぢ)をなさるる上は、隔(へだ)ての御(おん)恨(うら)みは、然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へども、忽(たちま)ちに害心(がいしん)を起(お)こし、親(おや)の掟(おきて)を背(そむ)き給(たま)はん事(こと)、然(しか)るべからず。神明(しんめい)は、正直(しやうじき)の頭(かうべ)に宿(やど)り給(たま)ふ事(こと)なれば、定(さだ)めて天の加護(かご)も有(あ)るべからず、冥(みやう)の照覧(せうらん)も恐(おそ)ろし。其(そ)の上(うへ)、愚僧(ぐそう)は、幼少(えうせう)より、父母(ちちはは)の塵欲(ぢんよく)を離(はな)れ、師匠(ししやう)のかんしんに入(い)りて、所説(しよせつ)の教法(けうぼふ)を学(がく)し、円頓(ゑんどん)止観(しくわん)の門(もん)をのぞみ、一ねんまいに、稼穡(かしよく)の艱難(かんなん)を思(おも)ひ、一度(ひとたび)切(き)る時(とき)、紡績(ばうせき)の辛苦(しんく)を忍(しの)ぶ。三衣(ゑ)を墨(すみ)に染(そ)め、鬢髪(びんぱつ)をまろめ、仏(ほとけ)の遺願(ゆいぐわん)に任(まか)せ、五戒(ごかい)を保(たも)ちしより此(こ)の方(かた)、物(もの)の命(いのち)を殺(ころ)す事(こと)、仏(ほとけ)殊(こと)に戒(いまし)め給(たま)ふ。然(さ)れば、衆生(しゆじやう)の身(み)の中には、三身(さんじん)仏性(ぶつしやう)とて、三体(さんたい)の仏(ほとけ)の坐(ま)します。然(しか)るに、人の命(いのち)を奪(うば)はん事(こと)、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)を失(うしな)ひ奉(たてまつ)るに同(おな)じ。諸々(もろもろ)以(もつ)て、思(おも)ひ寄(よ)らざる事(こと)なり」とて、箱根(はこね)に上(のぼ)り給(たま)ひけり。河津(かはづ)は、なまじひなる事(こと)申(まう)し出(い)だして、別当(べつたう)、承引(しよういん)無(な)かりければ、其(そ)の後(のち)、消息(せうそく)を以(もつ)て、重(かさ)ね重(がさ)ね申(まう)しけれども、猶(なほ)用(もち)ひ給(たま)はず。如何(いかが)せんとて、秘(ひそ)かに箱根(はこね)に上(のぼ)り、別当(べつたう)に見参(げんざん)して、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)りて、ささやきけるは、「物(もの)其(そ)の身(み)にては候(さうら)はねども、昔(むかし)より師檀(しだん)の契約(けいやく)浅(あさ)からで、頼(たの)み頼(たの)まれ奉(たてまつ)りぬ。祐親(すけちか)が身(み)におきて、一生(いつしやう)の大事(だいじ)、子々(しし)孫々(そんそん)までも、是(これ)にしくべからず候(さうら)ふ。再往(さいわう)に、申(まう)し入(い)れ候(さうら)ふ条(でう)、誠(まこと)に其(そ)の恐(おそ)れ少(すく)なからず候(さうら)へども、彼(か)の方(かた)へ返(かへ)り聞(き)こえなば、重(かさ)ねたる難儀(なんぎ)、出(い)で来(き)たり候(さうら)ふべし。然(さ)ればにや、浮沈(ふちん)に及(およ)び候(さうら)ふ」と、くれぐれ申(まう)しければ、始(はじ)めは、別当(べつたう)、大(おほ)きに辞退(じたい)有(あ)りけるが、誠(まこと)に檀那(だんな)の情(なさけ)もさり難(がた)くして、おろおろ領状(りやうじやう)有(あ)りければ、河津(かはづ)、里(さと)へぞ下(くだ)りける。別当(べつたう)、そき無(な)き事(こと)ながら、檀那(だんな)の頼(たの)むと申(まう)しければ、壇(だん)を立(た)て、荘厳(しやうごん)して、伊東(いとう)を調伏(てうぶく)せられけるこそ、恐(おそ)ろしけれ。始(はじ)め三日の本尊(ほんぞん)には、来迎(らいかう)の阿弥陀(あみだ)の三尊(ぞん)、六道能化(のうけ)の地蔵(ぢざう)菩薩(ぼさつ)、檀那(だんな)河津(かはづ)次郎(じらう)が所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)の為(ため)、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命を取(と)り、来世(らいせ)にては、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、蓮台(れんだい)を傾(かたぶ)け、安養(あんやう)の浄刹(じやうせつ)に引接(いんぜう)し給(たま)へ、片時(へんし)も、地獄(ぢごく)に落(お)とし給(たま)ふなと、他念(たねん)無(な)く祈(いの)られけり。後(のち)七日の本尊(ほんぞん)には、烏蒭沙摩金剛(うすさまこんがう)とかう童子(どうじ)、五大明王(みやうわう)の威験(いげん)殊勝(しゆせう)なるを、四方(しはう)に掛(か)けて、紫(むらさき)の袈裟(けさ)を帯(たい)し、種々(しゆじゆ)に壇(だん)を飾(かざ)り、肝胆(かんたん)を砕(くだ)き、汗(あせ)をものごはず、面(おもて)をもふらず、余念(よねん)無(な)くこそ祈(いの)られけれ。昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、仏法(ぶつぽふ)護持(ごぢ)の御力(ちから)、今(いま)に始(はじ)めざる事(こと)なれば、七日に満(まん)ずる寅(とら)の半(なか)ばに、伊藤(いとう)武者(むしや)がさかんなる首(くび)を、明王(みやうわう)の剣(けん)の先(さき)に貫(つらぬ)き、壇上(だんじやう)に落(お)つると見(み)/て、さては威験(いげん)現(あらは)れたりとて、別当(べつたう)、壇(だん)を下(お)り給(たま)ふ、恐(おそ)ろしかりし事(こと)共(ども)也(なり)。


同(おな)じく伊東(いとう)が死(し)する事(こと)


 伊東(いとう)武者(むしや)、是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らで、時(とき)ならぬ奥野(おくの)の狩(かり)して遊(あそ)ばんとて、射手(いて)を揃(そろ)へ、勢子(せこ)を催(もよほ)し、若党(わかたう)数(かず)相(あひ)具(ぐ)して、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へぞ入(い)りにける。頃(ころ)しも、夏(なつ)の末(すゑ)つ方(かた)、峰(みね)に重(かさ)なる木(こ)の間(ま)より、村々(むらむら)に靡(なび)くは、さぞと見(み)えしより、思(おも)はざる風(かぜ)にをかされて、心地(ここち)例(れい)ならずわづらひ、志(こころざ)す狩場(かりば)をも見(み)ずして、近(ちか)き野辺(のベ)より帰(かへ)りけり。日数(ひかず)重(かさ)なる程(ほど)に、いよいよ重(おも)くぞなりにける。其(そ)の時(とき)、九つになりけるかないしを呼(よ)び寄(よ)せて、自(みづか)ら手(て)を取(と)り、申(まう)しけるは、「如何(いか)に己(おのれ)、十歳(さい)にだにもならざるを、見(み)捨(す)てて死(し)なん事(こと)こそ、悲(かな)しけれ。生死(しやうじ)限(かぎ)り有(あ)り、逃(のが)るべからず。汝(なんぢ)を、誰(たれ)哀(あは)れみ、誰(たれ)育(はごく)みて育(そだ)てん」と、さめざめと泣(な)きけり。かないしは幼(をさな)ければ、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)は無(な)し。女房(にようばう)、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、涙(なみだ)を抑(おさ)へて言(い)ひけるは、「適(かな)はぬ浮(う)き世(よ)の習(なら)ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待(ま)ち給(たま)へかし。然(さ)ればとて、数多(あまた)有(あ)る子(こ)にもあらず、又(また)、かけこ有(あ)る中の身(み)にても無(な)し。如何(いかが)はせん」と、歎(なげ)きけるこそ、理(ことわり)なれ。此処(ここ)に、弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)祐親(すけちか)が、訪(とぶら)ひ来(き)たりけるが、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)/て、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、申(まう)しけるは、「今(いま)を限(かぎ)りとこそ、見(み)えさせ給(たま)ひて候(さうら)へ。今生(こんじやう)の執心(しうしん)を御(おん)止(とど)め候(さうら)ひて、一筋(ひとすぢ)に後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を願(ねが)ひ給(たま)へ。かないし殿(どの)においては、祐親(すけちか)かくて候(さうら)へば、後見(こうけん)し奉(たてまつ)るべし。努々(ゆめゆめ)疎略(そりやく)の義(ぎ)有(あ)るべからず。心(こころ)安(やす)く思(おも)ひ給(たま)へ。然(さ)ればにや、史記(しき)の言葉(ことば)にも、「昆弟(こんてい)の子(こ)は、なほし己(おのれ)が子(こ)の如(ごと)し」と見(み)えたり。如何(いか)でか愚(おろ)かなるべき」と申(まう)しければ、祐継(すけつぎ)、是(これ)を聞(き)き、内(うち)に害心(がいしん)有(あ)るをば知(し)らで、大(おほ)きに喜(よろこ)び、かき起(お)こされ、人の肩(かた)にかかり、手(て)を合(あ)はせ、祐親(すけちか)を拝(をが)み、やや有(あ)りて、苦(くる)しげなる息(いき)を付(つ)き、「如何(いか)に候(さうら)ふ。只今(ただいま)の仰(おほ)せこそ、生前(しやうぜん)に嬉(うれ)しく覚(おぼ)え候(さうら)へ。此(こ)の頃(ごろ)、何(なに)と無(な)く下説(げせつ)について、心(こころ)よからざる事(こと)にて坐(ま)しまさんと存(ぞん)ずる所(ところ)に、斯様(かやう)に宣(のたま)ふこそ、返(かへ)す返(がへ)すも本意(ほんい)なれ。然(さ)らば、かないしをば、偏(ひとへ)にわ殿(との)に預(あづ)け奉(たてまつ)る。甥(をひ)なりとも、実子(じつし)と思(おも)ひ、娘(むすめ)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ふ中(なか)にも、万刧(まんこう)御前(ごぜん)に合(あ)はせて、十五にならば、男(をとこ)に成(な)し、当庄(たうしやう)のほんけん小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、わ殿(との)の娘(むすめ)とかないしに、此(こ)の所(ところ)をさまたげ無(な)く知行(ちぎやう)せさせよ」とて、伊東(いとう)の地券(ぢけん)文書(もんじよ)取(と)り出(い)だし、かないしに見(み)せ、「汝(なんぢ)にぢきに取(と)らすべけれども、未(いま)だ幼稚(ようち)なり。いづれも親(おや)なれば、愚(おろ)か有(あ)るべからず。母(はは)に預(あづ)くるぞ。十五にならば、取(と)らすべし。よくよく見(み)置(お)け。今(いま)より後(のち)は、河津殿(かわづどの)を、叔父(をぢ)なりとも、誠(まこと)の親(おや)と頼(たの)むべし。心(こころ)おきて、にくまれ奉(たてまつ)るな。祐継(すけつぎ)も、草(くさ)の陰(かげ)にて、立(た)ち添(そ)ひ守(まも)るべし」とて、文書(もんじよ)母(はは)が方(かた)へ渡(わた)し、今(いま)は心(こころ)安(やす)しとて、打(う)ち伏(ふ)しぬ。かくて、日数(ひかず)の積(つ)もり行(ゆ)けば、いよいよ弱(よわ)りはてて、七月十三日の寅(とら)の刻(こく)に、四十三にて失(う)せにけり。哀(あは)れなりし例(ためし)なり。弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)は、上(うへ)には歎(なげ)く由(よし)なりしかども、下(した)には喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、箱根(はこね)の別当(べつたう)の方(かた)をぞ拝(をが)みける。一旦(いつたん)猛悪(まうあく)は、勝利(せうり)有(あ)りと雖(いへど)も、遂(つひ)には子孫(しそん)にむくふ習(なら)ひにて、末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えける。やがて、河津(かはづ)が、我(わ)が家(いへ)を出(い)で、伊東(いとう)の館(たち)に入(い)り代(か)はり、内々(ないない)存(ぞん)ずる旨(むね)有(あ)りければ、兄(あに)の為(ため)、忠(ちゆう)有(あ)る由(よし)にて、後家(ごけ)にも子(こ)にも劣(おと)らず、孝養(けうやう)を致(いた)す。七日(なぬか)七日(なぬか)の外(ほか)、百ケ日、一周忌(いつしゆき)、第(だい)三年(さんねん)に至(いた)るまで、諸善(しよぜん)の忠節(ちゆうせつ)をつくす。人是(これ)を聞(き)き、「神をまつる時(とき)は、神のます如(ごと)くにせよ。使(つか)ふる時(とき)は、生(しやう)に使(つか)ふる如(ごと)くなれ」とは、論語(ろんご)の言葉(ことば)なるをやと感(かん)じけるぞ、愚(おろ)かなる。さて、かないしには、心(こころ)安(やす)き乳母(めのと)を付(つ)けてぞ、養(やう)じける。遺言(ゆいごん)違(たが)へず、十五にて元服(げんぶく)させ、うすみの工藤(くどう)祐経(すけつね)と号(かう)す。やがて、娘(むすめ)万刧(まんこう)に合(あ)はせ、P061其(そ)の秋、相(あひ)具(ぐ)して、上洛(しやうらく)し、即(すなは)ち、小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、祐経(すけつね)をば、京都(きやうと)に止(とど)めおき、我(わ)が身(み)は、国(くに)へぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、かひがひしき侍(さぶらひ)の一人も付(つ)けず、おとなしき物(もの)も無(な)し。所帯(しよたい)におきては、祐親(すけちか)一人して横領(わうりやう)し、祐経(すけつね)には、屋敷(やしき)の一所(いつしよ)をも配分(はいぶん)せざりけり。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「徳(とく)をつみ、行(かう)をけぬる事(こと)、其(そ)の善(ぜん)を知(し)らず、然(さ)れども時(とき)に用(もち)ひる事(こと)有(あ)り、義(ぎ)を捨(す)て、理(り)を背(そむ)く事(こと)、其(そ)の悪(あく)を知(し)らざれども、時(とき)に滅(ほろ)ぶる事(こと)有(あ)り。身(み)の危(あや)ふきは、勢(いきほひ)の過(す)ぐる所(ところ)と成(な)り、禍(わざわい)の積(つ)もるは、寵(てう)のさかんなるを越(こ)えてなり」。然(さ)れども、祐経(すけつね)は、たれをしゆるとも無(な)きに、公所(くしよ)を離(はな)れず、奉行所(ぶぎやうしよ)におきて、身(み)を打(う)たせ、沙汰(さた)になれける程(ほど)に、善悪(ぜんあく)を分別(ふんべつ)して、理非(りひ)を迷(まよ)はず、諸事(しよじ)に心(こころ)を渡(わた)し、手跡(しゆせき)普通(ふつう)に過(す)ぎ、和歌(わか)の道(みち)を心(こころ)に懸(か)け、酣暢(かんちやう)の筵(むしろ)に推参(すいさん)して、其(そ)の衆(しゆう)に連(つら)なりしかば、伊東(いとう)の優男(やさをとこ)とぞ召(め)されける。十五歳(さい)より、武者所(むしやどころ)に侍(はんべ)つて、礼儀(れいぎ)正(ただ)しくして、男(をとこ)がら尋常(じんじやう)なりければ、田舎(ゐなか)侍(さぶらひ)とも無(な)く、心(こころ)にくしとて、二十一歳(さい)にして、武者(むしや)の一郎をへて、工藤(くどう)一郎とぞ召(め)されける。

<解説>

 この項は、伊東祐親と工藤祐経の由緒について記している。元々は、伊東祐親の父が伊東の家督を継いでいたが、祐経の父の代で工藤の領地となった。そのへんのいざこざが、事の起こりでした。詳しくは、序文を参考にしてもらいたい。伊東祐親親子は工藤祐経の郎党に討たれ、祐経の孫曽我兄弟が親の敵として工藤祐経を討ち果たしたという物語です。伊東家の家督相続に絡む、家内抗争ということです。

伊東(いとう)の二郎(じらう)と祐経(すけつね)が争論(さうろん)の事(こと)

 かくて、二十五まで、給仕(きうじ)怠(おこた)らざりき。此処(ここ)に、思(おも)はずに、田舎(ゐなか)の母(はは)、一期(いちご)つきて、形見(かたみ)に、父(ちち)が預(あづ)け置(お)きし譲状(ゆづりじやう)を取(と)り添(そ)へて、祐経(すけつね)がもとへぞ上(のぼ)せたりける。祐経(すけつね)、是(これ)を披見(ひけん)して、「こは如何(いか)に、伊豆(いづ)の伊藤(いとう)と言(い)ふ所(ところ)をば、祖父(おほぢ)入道(にふだう)寂心(じやくしん)より、父(ちち)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)まで、三代(だい)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)なるを、何(なに)に依(よ)つて、叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)、相続(さうぞく)して、此(こ)の八か年(ねん)が間(あひだ)、知行(ちぎやう)しける。いざや冠者(くわんじや)原(ばら)、四季(しき)の衣(ころも)がへさせん」とて、暇(いとま)を申(まう)しけれども、御気色(ごきしよく)最中(さいちゆう)なりければ、左右(さう)無(な)く暇(いとま)を賜(たま)はらざりけり。然(さ)らばとて、代官(だいくわん)を下(くだ)して、催促(さいそく)を致(いた)す。伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「祐親(すけちか)より外(ほか)に、またく他(た)の地頭(ぢとう)無(な)し」とて、冠者(くわんじや)原(ばら)を放逸(はういつ)に追放(ついはう)す。京(きやう)より下(くだ)る者(もの)は、田舎(ゐなか)の子細(しさい)をば知(し)らで、急(いそ)ぎ逃(に)げ上(のぼ)り、一臈(いちらふ)に此(こ)の由(よし)を訴(うつた)ふ。「其(そ)の儀(ぎ)ならば、祐経(すけつね)下(くだ)らん」とて、出(い)で立(た)ちけるが、案者(あんじや)第一(だいいち)の者(もの)にて、心(こころ)をかへて思(おも)ひけるは、人の僻事(ひがこと)すると言(い)ふを聞(き)きながら、我(われ)又(また)下(くだ)りて、劣(おと)らじ、負(ま)けじとせん程(ほど)に、勝(まさ)る狼藉(らうぜき)引(ひ)き出(い)だし、両方(りやうばう)得替(とくたい)の身(み)となりぬべし、其(そ)の上、道理(だうり)を持(も)ちながら、親方(おやかた)に向(む)かひ、意趣(いしゆ)を込(こ)めん事(こと)、詮(せん)無(な)し、祐経(すけつね)程(ほど)の者(もの)が、理運(りうん)の沙汰(さた)にまくべきにあらず、田舎(ゐなか)より彼(か)の仁(じん)を召(め)し上(のぼ)せて、上裁(じやうさい)をこそ仰(あふ)がめと思(おも)ひ、あたる所(ところ)の道理(だうり)、差(さ)し詰(つ)め差(さ)し詰(つ)め、院宣(ゐんぜん)を申(まう)し下(くだ)し、小松(こまつ)殿(どの)の御状(じやう)を添(そ)へ、検非違使(けんびいし)を以(もつ)て、伊東(いとう)を京都(きやうと)に召(め)し上(のぼ)せ、事(こと)のちきやうなる時(とき)こそ、田舎(ゐなか)にて、横紙(よこがみ)をも破(やぶ)り、ちやうちやく共(ども)言(い)ひけれ、院宣(ゐんぜん)を成(な)し、重(かさ)ねてからく召(め)されければ、一門(いちもん)馳(は)せ集(あつ)まり、案者(あんじや)・口(くち)聞(き)き寄(よ)り合(あ)ひ、伴(ともな)ひ談(だん)すると雖(いへど)も道理(だうり)は一(ひと)つも無(な)かりけり。祐継(すけつぎ)存生(ぞんじやう)の時(とき)より、執心(しうしん)深(ふか)くして、如何(いか)にも此(こ)の所(ところ)を、祐親(すけちか)が拝領(はいりやう)にせんと、多年(たねん)心(こころ)に懸(か)け、既(すで)に十余年(よねん)知行(ちぎやう)の所(ところ)なり。一期(いちご)の大事(だいじ)と、金銀(きんぎん)を調(ととの)へ、秘(ひそ)かに奉行所(ぶぎやうしよ)へぞ上(のぼ)せける。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「青蝿(せいよう)も、すひしやうを汚(けが)さず、邪論(じやろん)も、くの聖(ひじり)を惑(まど)はず」とは申(まう)せども、奉行(ぶぎやう)のめづるも、理(ことわり)也(なり)。漢書(かんじよ)を見(み)るに、「水(みづ)いたつて清(きよ)ければ、底(そこ)に魚(うを)住(す)まず。人いたつてせんなれば、内(うち)に徒(と)も無(な)し」と見(み)えたり。然(さ)ればにや、奉行(ぶぎやう)、誠(まこと)に宝(たから)重(おも)くして、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、立(た)たざる事(こと)こそ、無念(むねん)なれ。月は明(あき)らかならんとすれども、浮雲(ふうん)是(これ)をおほひ、水(みづ)はすまんとすれども、泥沙(でいしや)是(これ)を汚(けが)す。君(きみ)賢(けん)なりと雖(いへど)も、臣(しん)是(これ)を汚(けが)す理(ことわり)に依(よ)つて、本券(ほんけん)、箱(はこ)の底(そこ)にくちて、空(むな)しく年月(としつき)を送(おく)る間(あひだ)、祐経(すけつね)、鬱憤(うつぷん)に住(ぢゆう)して、重(かさ)ねて申状(まうしじやう)を奉行所(ぶぎやうしよ)に捧(ささ)ぐ。其(そ)の状(じやう)に曰(いは)く、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊東(いとう)工藤(くどう)一郎平(たひら)の祐経(すけつね)、重(かさ)ねて言上(ごんじやう)、 早(はや)く、御裁許(さいきよ)を蒙(かうぶ)らんと欲(ほつ)する子細(しさい)の事。右(みぎ)件(くだん)の条(でう)、祖父(おほぢ)■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、親父(しんぷ)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)、舎弟(しやてい)祐親(すけちか)、兄弟(きやうだい)の中、不和(ふわ)なるに依(よ)つて、対決(たいけつ)度々(どど)に及(およ)ぶと雖(いへど)も、祐継(すけつぎ)、当腹(たうぶく)寵愛(ちようあい)たるに依(よ)つて、安堵(あんど)の御(おん)下(くだ)し文(ぶみ)を賜(たま)はつて、既(すで)に数(す)ケ年をへ畢(をは)んぬ。此処(ここ)に、祐継(すけつぎ)、一期(いちご)限(かぎ)りの病(やまひ)の床(ゆか)にのぞむきざみ、河津(かはづ)の二郎(じらう)、日頃(ひごろ)の意趣(いしゆ)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに訪(とぶら)ひ来(き)たる。其(そ)の時(とき)、祐経(すけつね)は、生年(しやうねん)九歳(きうさい)也(なり)き。叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)に、地券(ぢけん)文書(もんじよ)、母(はは)共(とも)に預(あづ)け置(お)きて、八か年(ねん)の春(はる)秋を送(おく)る。親方(おやかた)にあらずは、しこうのしんと申(まう)すべきや。所詮(しよせん)、世(よ)のけいに任(まか)せ、伊東(いとう)の二郎(じらう)に賜(たま)はるべきか、又(また)祐経(すけつね)に賜(たま)はるべきか、相伝(さうでん)の道理(だうり)について、憲法(けんばう)の上裁(じやうさい)を仰(あふ)がんと欲(ほつ)す。よつて、誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)、言上(ごんじやう)件(くだん)の如(ごと)く。仁安二年三月日平(たひら)の祐経(すけつね)と書(か)きてさうさう。ししよに、此(こ)の状(じやう)を披見(ひけん)有(あ)りて、差(さ)しあたる道理(だうり)にわづらひけるよと、人々(ひとびと)寄(よ)り合(あ)ひ、内談(ないだん)す。誠(まこと)に、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、一(ひと)つとして僻事(ひがこと)無(な)し。是(これ)は裁許(さいきよ)せずは、憲法(けんばう)にそねまれなん。又(また)、伊東(いとう)宝(たから)を上(のぼ)せて、万事(ばんじ)奉行(ぶぎやう)を頼(たの)むと言(い)ふ。然(しか)れども、祐経(すけつね)は、左右(さう)無(な)く理運(りうん)たる間(あひだ)、奉行所(ぶぎやうしよ)のはからひとして、よの安堵(あんど)の状(じやう)二書(か)きて、大宮(おほみや)の令旨(りやうじ)を添(そ)へ、りやうへ下(くだ)さる。伊東(いとう)は、半分(はんぶん)也(なり)とも賜(たま)はる所(ところ)、奉行(ぶぎやう)の御恩(ごおん)と喜(よろこ)びて、本国(ほんごく)へぞ下(くだ)りける。書(しよ)は言葉(ことば)をつくさず、言葉(ことば)は心(こころ)をつくさずと雖(いへど)も、一郎は、言葉(ことば)を失(うしな)ひ、十五より、本所(ほんじよ)に参(まゐ)り、日夜(にちや)朝暮(てうぼ)、給仕(きうじ)を致(いた)し、今年(ことし)八年か九年(ねん)かと覚(おぼ)ゆるに、重(かさ)ねて御恩(ごおん)こそ蒙(かうぶ)らざらめ、先祖(せんぞ)所領(しよりやう)を半分(はんぶん)召(め)さるる事(こと)そも何事(なにごと)ぞ、「源(みなもと)濁(にご)れる時(とき)は、清(きよ)からんをのぞみ、形(かたち)ゆがめる時(とき)は、影(かげ)のどかならんを思(おも)ふ」と、かたに見(み)えたり、父(ちち)祐継(すけつぎ)が世(よ)には、斯様(かやう)によも分(わ)けじ、今(いま)なんぞ半分(はんぶん)の主(ぬし)たるべきや、是(これ)偏(ひとへ)に親方(おやかた)ながら、伊東(いとう)が致(いた)す所(ところ)なり、我(わ)が身(み)こそ、京都(きやうと)にすむとも、せんこは皆(みな)、弓矢(ゆみや)取(と)りの遺恨(いこん)なり、如何(いか)でか、此(こ)の事(こと)恨(うら)みざるべきとて、秘(ひそ)かに都(みやこ)を出(い)でて、駿河(するが)の国(くに)高橋(たかはし)と言(い)ふ所(ところ)に下(くだ)り、きつかひ・船越(ふなこし)・おきの・蒲原(かんばら)・入江(いりえ)の人々(ひとびと)、外戚(げしやく)につきて、親(した)しかりければ、二百四人寄(よ)り合(あ)ひて、祐親(すけちか)打(う)ちて、領所(りやうしよ)を一人して進退(しんだい)せんと思(おも)ふ心、付(つ)きにけり。此(こ)の儀(ぎ)、神慮(しんりよ)も量(はか)り難(がた)し。例(たと)へば、差(さ)しあたる道理(だうり)は、顕然(けんぜん)たりと雖(いへど)も、昔(むかし)の恩(おん)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに悪行(あくぎやう)をたくむ事(こと)、いとう昔(むかし)をも思(おも)ひ、てんしゆか古(いにしへ)も尋(たづ)ぬべき。第一(だいいち)に叔父(をぢ)なり、第二(だいに)に養父(やうぶ)也(なり)、第三に舅(しうと)なり、第四に烏帽子親(えぼしおや)なり、第五(だいご)に一族(いちぞく)中(ちゆう)の老者(らうしや)なり、方々(かたがた)以(もつ)て、愚(おろ)かならず。斯様(かやう)に思(おも)ひ立(た)つぞ、恐(おそ)ろしき。如何(いか)にも思慮(しりよ)有(あ)る人に候(さうら)ふや。剰(あまつさ)へ地領(りやう)を奪(うば)はん事(こと)、不可思議(ふかしぎ)なり。祐親(すけちか)、是(これ)を返(かへ)り聞(き)きて、嫡子(ちやくし)河津(かはづ)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)、次男(じなん)伊藤(いとう)九郎祐清(すけきよ)、其(そ)の外(ほか)一門(いちもん)老少(らうせう)呼(よ)び集(あつ)め、用心(ようじん)厳(きび)しくしければ、力(ちから)に及(およ)ばす。是(これ)や、富貴(ふき)にして、善(ぜん)を成(な)し安(やす)く、貧賎(ひんせん)にして、工(こう)を成(な)し難(がた)しと、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。其(そ)の後(のち)、伊東(いとう)の二郎(じらう)、此(こ)の事(こと)有(あ)りの儘(まま)に京都(きやうと)へ訴(うつた)へ申(まう)して、長(なが)く祐経(すけつね)を本所(ほんじよ)へ入(い)れ立(た)てずして、年貢(ねんぐ)所当(しよたう)におきては、芥子(けし)程(ほど)も残(のこ)らず、横領(わうりやう)する間(あひだ)、祐経(すけつね)、身(み)の置(お)き所(どころ)無(な)くして、又(また)、京都(きやうと)に帰(かへ)り上(のぼ)り、秘(ひそ)かに住(ぢゆう)す。伊東(いとう)に、祐経(すけつね)は悩(なや)まされ、本意(ほんい)を忘(わす)れ、祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)取(と)り返(かへ)し、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)が嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)に合(あ)はせけり。国(くに)には又(また)、並(なら)ぶ者(もの)無(な)くぞ見(み)えたり。然(さ)れども、「功賞(こうしやう)無(な)き不義(ふぎ)の富(とみ)は、禍(わざわひ)の媒(なかだち)」と、左伝(さでん)に見(み)えたり。然(さ)れば、行(ゆ)く末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えし。工藤(くどう)一郎は、なまじひの事(こと)を言(い)ひ出(い)だして、叔父(をぢ)に中(なか)を違(たが)はれ、夫妻(ふさい)の別(わか)れ、所帯(しよたい)は奪(うば)はれ、身(み)を置(お)き兼(か)ねて、胆(きも)をやきける間(あひだ)、給仕(きうじ)も疎略(そらく)になりにけり。然(さ)ればにや、御気色(ごきしよく)も悪(あ)しく、傍輩(はうばい)も、側目(そばめ)に懸(か)けければ、積鬱(せきうつ)たゑすかと思(おも)ひ焦(こ)がれて、秘(ひそ)かに本国(ほんごく)に下(くだ)り、大見庄(おほみのしやう)に住(ぢゆう)して、年頃(としごろ)の郎等(らうどう)に、大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)、八幡(やはた)の三郎(さぶらう)を招(まね)き寄(よ)せて、泣(な)く泣(な)くささやきけるは、「各々(おのおの)、つぶさに聞(き)け。相伝(さうでん)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)せらるるだにも、安からざるに、結句(けつく)、女房(にようばう)まで取(と)り返(かへ)されて、土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)に合(あ)はせらるる条(でう)、口惜(くちを)しきとも、余(あま)り有(あ)り。今(いま)は命(いのち)を捨(す)てて、矢(や)一(ひと)つ射(い)ばやと思(おも)ふなり。現(あらは)れては、せん事(こと)適(かな)ふまじ。我(われ)又(また)、便宜(びんぎ)を窺(うかが)はば、人に見(み)知(し)られて、本意(ほんい)を遂(と)げ難(がた)し。然(さ)ればとて、止(とど)まるべきにもあらず。如何(いかが)せん、各々(おのおの)さりげなくして、狩(かり)すなどりの所(ところ)にても、便(びん)を窺(うかが)ひ、矢(や)一(ひと)つ射(い)んにや、もし宿意(しゆくい)を遂(と)げんにおきては、重恩(ぢゆうおん)、生々(しやうじやう)世々(せせ)にも、報(ほう)じて余(あま)り有(あ)り。如何(いかが)せん」とぞくどきけり。二人の郎等(らうどう)聞(き)き、一同(いちどう)に申(まう)しけるは、「是(これ)までも、仰(おほ)せらるべからず。弓矢(ゆみや)を取(と)り、世(よ)を渡(わた)ると申(まう)せども、万死(ばんし)一生(いつしやう)は、一期(いちご)一度(いちど)とこそ承(うけたまは)れ。然(さ)れば、古(ふる)き言葉(ことば)にも、「功(こう)は成(な)し難(がた)くして、しかも破(やぶ)れ安(やす)き、時(とき)はあひ難(がた)くして、しかも失(うしな)ひ安し」。此(こ)の仰(おほ)せこそ、面目(めんぼく)にて候(さうら)へ。是非(ぜひ)命(いのち)におきては、君(きみ)に参(まゐ)らする」とて、各々(おのおの)座敷(ざしき)を立(た)ちければ、頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。伊東(いとう)は、いささか此(こ)の儀(ぎ)を知(し)らざるこそ、悲(かな)しけれ。

<解説>

 この下りは、伊東家の家督のいざこざです。まず、祐親の父佑家が父家継から家督を継承します。その子が、伊東祐親となります。ここで、佑家が父である家継より先のなくなってしまいます。そのとき存命であった家継は、伊東家の家督を年少の祐親ではなく父の弟佑継に与えます。以来祐親は、無念に思っていたようです。佑継の子が、工藤祐経です。平家の命で伊東(工藤)祐経は「京都大番役」に就き領地を留守にして、京に長く在任します。その空きに伊東祐親は、祐経の領地をすべて奪いさらに妻である祐親の娘との間も引き裂いてしまします。それに怒った祐経が刺客を放ち、伊東にいる祐親、河津佑泰父子を襲わせます。祐親は難を逃れますが、子である河津祐泰はこの時殺されてしまいます。そして頼朝が富士の巻狩をした時敵討ちをしたのが、曾我兄弟で佑泰の子になるという具合です。中々、複雑な案配です。このようなことは、まれに起こっています。室町時代の関東でも、「長尾景春の乱」というのが起こっています。山之内上杉氏の家宰(家老)が長尾景仲、景信と二代続きます。景春は景信の子で、父と共に享徳の争乱であちこちに転戦していて、当然手柄も立てていたことでしょう。景春自身は、父の跡は自分が継ぐものだと思っていたでしょう。しかし、実際は景春の叔父の忠景が継ぎました。山之内上杉家の家宰は、世襲ではなく代々長尾家の長老が務めていたのですがたまたま景仲、景信と二代続き景春としては当然、父の次は自分が継ぐものと思っていたのでしょう。当時の関東管領は山之内上杉顕定で、景春は顕定に対して反乱を起こします。このようなことは東海の勇、今川家でも起こっています。このような事例も、歴史の中には幾つか見られるものです。

<参考文献>