荒牧屋敷縄張図
城跡解説
城址は東の畑の進入路が空堀、西の沢が水堀の変わりとなっている。「左衛門畑」平らな広いところが屋敷の中心部であったのであろう。大きさは東西100m、南北は80mでほぼ方形を成している。北側は、梯郭式に曲輪を配置してある。北西に斉藤家の墓があり、左衛門塔と呼ばれる供養塔がある。石塔には、「永禄3(1560年)年○月○日芳岸徹翁居士、天正4(1576年)年為亡父並先祖菩提也施主荒牧宮内右衛門隆房」とある。
新巻屋敷の主、荒牧宮内右衛門隆房
旧東村の新巻とも荒牧とも言われていた。斉藤系図によると室町時代の初期の頃、岩櫃城主憲行の3男威実が荒牧氏を名乗り、この地にあったという。大野氏を岩下城主斉藤憲次が植栗氏と共に滅ぼし、憲次が一郡の地頭になる。荒牧氏はその配下に属した。
荒牧氏系図
荒牧宮内右衛門斉藤隆房
荒牧氏は大永(1521~1527年)の頃より、一門である斎藤氏に属した。永禄6(1563年)9月中旬斎藤氏の配下として、斉藤則実に従い沼田勢と共に雁ヶ沢口で真田勢と対峙する。 同年9月下旬長野原合戦において則実、羽尾氏に属し暮坂越し湯窪の陣地に進出して長野原城の常田氏を攻める。永禄9(1566年)年、吾妻70余騎の内の一人として岩櫃城代海野長門守幸光に従う。海野幸光没落後、真田氏に属す。天正3.4(1575.1576年)年頃には植栗河内守、湯本左京進と共に岡崎柏原城に籠もり、白井に対する。天正8(1580年)年、昌幸東上州出陣のさいには御使番として出陣した。
天正10年(1582年)年6月の本能寺変の後、後北条氏が攻めたときも植栗、伊能氏等大田郷の郷士と共に柏原城に籠もる。
しかし、天正17(1589年)年(名胡桃事件の年)には湯本九右衛門の名前しかない。この頃以降、荒牧氏の名前は表舞台から消えてしまう。奥田の三枝さんに、以前お話を聞いたことがある。そのお宅の口伝の中に、先祖が荒牧氏で「真田の兵役がきついため、帰農して奥田に移った。その場所が荒牧の南に位置していたため、「南」を名乗ったという。その方に、南家のお墓を案内して頂いた。確認したところ、墓石は灯籠型の墓で完全に武士の墓であった。そのお墓の場所が、奥田の砦と伝わる場所の南上の山の麓であった。
歴史的には口伝というのは評価が低いのであるが、案外口伝の中に真実が埋もれている場合もある。