はじめに
まず最初に、「兵農分離」という言葉がある。これは、戦に向かう武士を専業化して田畑を耕作するものも専業化し、武士と百姓を分けていつでも戦ができるようにしようという考え方である。それに対した言葉として、「兵農一致」という言葉が浮かんでくる。これは給人イコール作人という考えである。吾妻の地においても、徳川幕藩体制が完全に確立されるまで続いた制度である。つまり、普段は自ら作人と共に田畑を耕し戦となれば兵役に割り当てられた人数を率い寄親の元に出役するという考え方である。この事を考えると、「兵農一致」は、封建制度が確立する前の寄子、寄親の制度の時の兵役の制度だと言える。戦の時、敵方を徹底的に殺戮すれば敵の領地を占領したとき作人がいないと言うことになる。これでは、適地を占領しても意味を成さなくなる。したがって戦も近代戦のように総力戦ではなく、局地戦の勝敗で決めるような緩い戦となる。兵農未分離の状態では、「なで斬り」のように敵方をすべて殺戮してしまえば領地を増やしても「作人」を確保できなくなってしまう。戦国時代中期まででは、天候不順で日照りや大雨などが頻繁に起きていて、「作人」を見つけるのを戦国大名達は非常に苦労していたとなど、古文書などにも記述がある。戦費を調達するにも非常に苦労していたようで、あまり重税を課せば「逃散」と言って集落ごと人々が逃げていってしまうのである。そこでここでは、戦国大名ではなく、もう少し小さい国人領主の領地統治について書いていきたいと思う。
真田氏領地確保の実態
真田氏の事象は、真田幸綱(幸隆)が海野平の戦いで村上義清、諏訪頼重、武田信虎の連合軍に敗れ本家筋の海野氏と共に上州に逃れたのが歴史の記録に残る始まりである。近年の研究で、真田氏は元々真田郷を領地としていた領主で海野氏と関係を深め力を付けてきた豪族であるという。幸綱の父、真田頼昌は海野棟綱の娘を娶りその子が幸綱であるという。つまり女系で海野氏とつながっていたということも言えるのではないか。
真田幸綱の台頭は、上州を離れ武田晴信に従ったことから始まる。晴信の元、信州先方衆として武田氏の信濃攻略に貢献し、さらに西上州への進出にも力を注いでいる。まさに、真田家の基礎を築いたのはこの幸綱で間違いないであろう。まず最初に、砥石城乗っ取りについてである。これをきっかけに、旧領を回復したのである。そこを拠点に、滋野一族が古くから進出していた西上州の吾妻郡へ侵攻し、さらには上州子持の白井城の城番、箕郷の箕輪城の城番などに名をつられるまでになった。跡目は嫡男、源太左衛門信綱が継ぎ幸綱は、岩櫃城でなくなったとも言われている。嫡男信綱、昌輝が長篠の戦いで戦死すると、武田一族の武藤の名跡を継いでいた昌幸が勝頼の命を受け真田家を引き継いだ。ここに来て信濃先方衆という外様から、武田家の譜代衆という立場になった。
昌幸は、勝頼より吾妻郡、利根郡の差配を任され上杉、後北条と直接対峙するようになるのである。武田家滅亡後は織田氏に従属し、織田信長死亡後は後北条、徳川、上杉と従う先をめまぐるしく変え最後に、豊臣秀吉に従い近世大名への道を進むのです。
ここで、興味深い文書がある。長野県の生島足島神社に残る「起請文」である。ここに、海野衆が出した起請文がある。永禄10(1567)年8月7日に出したものだ。その中の記名の中に真田幸綱(幸隆)が入っていないことだ。この頃になると真田幸綱は、武田家の元国人領主としての地位を確立していたようで、海野衆の中に入っていない。
真田右馬助綱吉(花押・血判)
神尾惣左衛門房友(花押・血判)
金井彦右衛門房次(花押・血判)
下屋与左衛門尉棟□(花押・血判)
奈良本新八郎棟廣(花押・血判)
石井右京亮棟喜(花押・血判)
桜井平内左衛門尉綱吉(花押・血判)
常田七左衛門綱富(花押・血判)
尾山右右衛門尉守重(花押・血判)
桜井駿河守棟昌(花押・血判)
小草野若狭守隆吉(花押・血判)
以上11名が、海野衆として武田晴信に対して起請文を提出している。この○○衆という組織は、単独では領地の少ない者同士が「一揆」としてまとまり国衆としての発言権と戦力を持つと言うことです。上州吾妻では、岩下衆(関東幕注文)が斎藤氏を中心に、一揆を組んでいた。ここで興味深いことは、真田右馬助綱吉と常田七左衛門綱富、小草野若狭守隆吉である。真田右馬助綱吉は幸綱の兄とも言われている。幸綱(幸隆)の父と言われている頼昌も右馬助を名乗っていたので綱吉が頼昌の旧領を嗣いでいたのかと言うことだ。常田七左衛門綱富は幸綱の弟とされる常田新六郎隆永が永禄6(1563)年6月に長野原合戦で戦死した後、常田家を継いだのか。綱富が隆永の子かまたは幸綱の兄弟か、と言う疑問が残る。小草野若狭守隆吉は「信州上田軍記」に登場する人物である。春原(すのはら)小草野兄弟は、幸綱の密命で村上義清の臣下となり合戦で裏切り砥石城乗っ取りに、矢沢頼綱と共に活躍した人物である。これを考えると真田幸綱(幸隆)は、武田家の元すでに国人領主となっており、海野衆をその寄子としていたふしが見て取れる。
真田氏の給人検地帳による概要
ここで、一例をあげる。細田対馬は三貫八百八拾文の真田の給人で、すべて手作である。ここで、この細田氏に注目してみよう。屋敷地も入れて、合計八筆の田畑がある。その中に、二筆の役が課されている。これは田役で、真田氏に拠出する出来高である。
中 八百文○ ミ出三十文○ 手作
百弐拾文役○
上 弐貫三百文○ ミ出百廿文○ 手作
百廿文役○
つまり、臣下が自分で田畑を耕す場合でも主君に耕作する田畑に対して、田役と言って収穫の一部を上納するのである。また、これも国人領主の収入になる。いわば今の固定資産税にあたるものと言っても良いでしょう。
ここでもう一つ事例を挙げる。この細田対馬は真田昌幸正室、山の手殿領地(京の御前様御料所)の作人として耕作を請け負っていたのである。次の例を参照されたい。
抜粋
下 合百五十文○ 見出 廿文○ 甚三
同所ひへ田 ほそ田
下 合三百五十文○ 見出 廿文○ つしま
下 合百文○ 見出 十文○ 同人
このように、真田氏の給人細田対馬は、自分の領地を自ら耕しさらに、京の御前様領地の作付けも請け負っていたと言うことである。つしま本人が二筆の作付けをして、一筆を甚三という作人に耕させていたのです。これは当時の領主と給人の関係を、良く表した事例とも言える。この中の上、中、下とは、田畑のランクを示したものである。そして、この事例から国人クラスの領主の奥方でも、自分の領地があったことが分かる事例となっている。