吾妻郡略記は元禄年間の郡内三大郷土研究かの一人原町字稲荷城の住人、上原政右衛門代完(享保十九年長命にて没)の作成した物である。元禄八年記述のものもあるが、享保七年完成した物と思われる。記述の内容は、日本書紀の記述や鎌倉時代の吾妻鏡、更に戦国期後北条氏後期まで書き記してある。この時代、吾妻の地でこれだけの知識を必要とした書物を残せたのは驚きである。上原政右衛門という人の、学識の高さを感じさせる物である。

吾妻郡略記

 吾妻郡は、関東の総称の初めとなっていた。日本書紀に第十二代景行天皇の時、日本武尊東征しこの地を平らげたとある。上総国に船にて来たるとき、海上の波荒く航海に支障を来した。そのとき日本武尊の妻の橘姫が同船していて、この荒波をしずめるべく海に入水した。龍神もその橘姫の意を汲んで、荒波も静まりかえったという。そのおかげで無事に着いたという。そして橘姫を思い上総国木更津に、吾妻大明神として祭ったという。尊は蝦夷討伐の後上野国にいたり、碓氷の峰より吾妻を見て橘姫を思い「ああ我妻よ」と思い給い、東をあづまと言うようになったという。

 このくだりは、日本武尊東征の日本書紀記述をもとに、この地の伝説を加えたものであろう。矢倉鳥頭神社の親子杉の親、焼けた方の杉は日本武尊が自ら植えた物であるという。これを神代杉という。

吾妻七社

 また吾妻郡には古より、七社の明神があったという。その明神とは

○和利大明神(男神)    吾妻郡横尾村     判官 小板橋美作

現吾妻郡中之条町の吾妻神社

○見持大明神(女神)    群馬郡白井村     別当 本山金林院

渋川市の子持神社

この山を見持山(子持山)という。また四五尺四方の神石があり、その石面に女の両足の跡がある。明神の足跡と言われている。またこの明神には、武田信玄の御朱印、勝頼の願書がある。

○鳥頭大明神(子神)    吾妻郡矢倉村     判官 須藤大隅

その社地に大杉(神代杉)がある。また古い鍔口がある。滋野朝臣海野長門守幸光天正六年の切り付けがある。

○駒形大明神(随神という) 吾妻郡青山村     判官 高橋土佐

○山代大明神(同)     吾妻郡平村      別当 本山正福院

○白頭目大明神(同)    吾妻郡小泉村          判官 (原本欠く)

○中山大明神(同)     群馬郡中山村     別当 本山 大福寺

ここで判官と、別当の違いについて見ていきたい。判官で特に有名なのが、九郎判官源義経である。そもそも律令制で判官とは、守(頭)、介(輔)、尉(掾)の内の尉に当たる位の俗名である。源義経は元歴元年(1884年)8月6日平家追討の功により、後白河法皇より左衛門の少尉、検非違使に任じられたことによりそう呼ばれるようになる。つまり律令制の各職、三番目の地位と言うことである。一方別当は、奈良時代造寺司に設置された写経所・造仏所などの長として別当が置かれ、判官・主典急の肝心が補任されたのがはじまりであるという。後年その区別は曖昧になっているが、この記述から考えれば、別当が仏教と関係があるように見える。判官はそれぞれ官名を名乗っているのを考えれば、漠然と神道と神仏混合の二つを区別しているようにも見える。

郡境の事

 西は鳥居峠、そこには四阿山と言う山があり、その山に四阿屋の社がある。別当は両国にある。上野の里宮は吾妻郡羽尾村今宮がある。その社地は広い。信州別当は小県郡女山真田村にある。郡境であり、国境である。国名風土記に日本武尊東征を経て後、信濃の国神の御坂(木曾峠)を通り都へ上るとき、東国下向させられた源太夫の娘のことを思い出し、山路の傍らにたたずみかの姫の住まいす東海の方に向い、わが妻やわが妻やと嘆いたことによって、上州信州の境の山をわが妻と号す。あがつまとも言った。私が思うに碓氷峠、鳥居峰はもちろん別々の峠ではあるが、峰続きの峠なれば昔は鳥居も碓氷と言ったと見える。古くより信州上州の通路は二筋ある。その峠に信州上田より石の華表を建立する。額に四阿山と書いてある。考えるに国郡境を吾妻山とすれば、吾妻郡に至るところ故、四阿山と書くか四阿屋と書いてあづまやと読んだ。これは人の居住する家の名前である。上信の境外にあづまやという山はない。四阿山と書くことは理解しがたい。また信州には、その御神は養老二戌牛年、加賀国越智郡白山大権現を勧進する。故に信州真田村の白山大権現はあづまやの里宮と言える。また山の名に拠って、あづまや権現とも言う。実は白山権現であるという。また山の名を四阿山と書くこと、山の形が四阿屋作りの家に似たる故であるという。その説は判然としない。その峰より加沢の湯の峰、その山を湯の丸とも言う。元禄十四辛巳年、小県郡と三原とで争論があった。その節、公儀より境が決められた。これより浅間の獄の峰より下半分は信濃、過半は上野となった。今煙の出るところは上野分である。信州分は焼けていないところである。毎年四月頃参詣する。閏の年は参詣せず、参詣すれば怪我をすると言われている。その山の麓に砂塚よりこんじがかや中列卒山まで引く、その裾は三原のへつむぐところである。すなわち大蔵卿頼朝公、浅間の三原野御狩場三原というは鎌原湯の原長野原である。吾妻鏡には、信濃国三原野とある。御狩の時色々あった。その辺に浅間隠しという山が有り、萬字が峠という。まんじが峠と言うことは右大将頼朝公、浅間野を狩を行うとき獣集まり人の化けて列に紛れ込むので、その峰において人々の額に墨で卍を書き、卍亡き者獣とし区別した。故に萬字峠と号す。狩が終わり谷水にて皆々額を洗う。多くの人が洗った為その水がぬる湯のごとくなったことでその川を温川という。そこでみな顔を洗って素顔になったと頼朝公がおっしゃったことから、須賀尾村という。まといの旗を立てたという塚、本宿村にあり。南は鼻曲山よりふじわだと須賀尾村、水なし、御巣鷹山の峰を境、さかくら山の外表坊峰の裾より烏川を境とす。その川を烏川といういわれは、水上の水わき出ずる所に、石二つ水を隔てて相い向う。その石黒く烏のようだったことから烏川と言われてる。

 ここまでのくだりでは、郡境の事と右府頼朝公三原野の鷹狩りの時のくだりである。吾妻鏡では、信濃国三原野とありその頃国境が曖昧であったことが分かる。郡境、国境が江戸時代元禄の頃決まったというのは驚きである。また四阿山の信仰が国境をまたぎ、信濃と上野両方で成されていたのは興味深い。東吾妻町の坂上地区にある、温川、須賀尾、萬字峠(万騎峠)また烏川の名前の由来も興味深く記述してある。

  永井峰より陸を境に杖の神いぐら岳に続き、硯ヶ獄の外を引いて榛名山に続き沼の辺を限りとする。その沼歌書には伊香保の沼とあり、上野の名所四カ所の内に入る。

古歌に

 いかほのや伊香保の沼のいかにして恋しき人を今ひとめ見む

 あずまじや伊香保の沼の花かつみかつみし人をことひや渡らむ

 宗祇も名所記にある。また和歌題林愚妙に壬生忠岑いかほのや伊香保の沼のいかにしてまた、近材集に伊香保風とある。

 原町普光山無量嘉院善導寺二代円光上人の母その沼に入り、法名寛地院殿廊誉廣雲快龍大神尼明徳元康牛年四月念日と記した石碑が、、沼の端に古来よりある。そのところで野火を焼けば、善導寺で煙り立ち、善導寺雨乞いすれば雨が降る。この円光上人の母は筑前国人木部殿の妻であると言われている。

 沼の後先に境塚幾つかある。寛文十一辛亥年榛名山の社人と大戸村と吾妻領廿一ヶ村と山論があり、ご公儀より塚を建て境を仰せつかった。これが吾妻と榛名神社社領の境である。

東は沼の予水流を限りとし、広場、岡崎新田、柏原、沼尾川を境とした。北は以前に記した鳥居峠、吾妻屋の峰より万座山、うぐしが獄の峰、今白峰より赤はげ山の所の山は、人が通れない。これにより板東前へ引きて三国の獄を境とした。その山を三つぐし山とも言う。上野信濃越後三ヶ国の境となっている。大倉ヶ獄同薬師峠(三坂峠とも言う)も吾妻郡の内である。その峰に三社大明神の社がある。(上野は赤城明神、越後は弥彦明神、信州は諏訪明神)神体は薬師、阿弥陀、観音である。別当は田村大部と言う。峠の途中に住んでいる。

 麓は富士新田猿ヶ京に続き、赤谷川をさかい水上とし、小瀬戸川を限りとし師田村境沢よりするす岩の峰、大塚村大坊沢より続く峰、岩井堂へ引き下がり吾妻川を横切り前に記した沼の尾川を限りとする。東西南北の郡境その通りである。

 昔は吾妻川、利根川の落合を限りとして、白井、北牧、横堀、中山、矢形原、呉桃まで吾妻郡であったという。いつの間にか群馬郡に含まれるようになる。吾妻三郷というのは、大田郷、これは川南川戸村上下を言う。岩山郷、これは山田川より原町西入までを言う。

長田郷、これは山田川より東中野條北入までを言う。

吾妻郡村数七十七か村。その他小さな村多数ある。

吾妻郡の内人家のあるところは、東西十五六里、南北十里程ある。吾妻川は西より東へ流れる川である。その先は利根川に合流する。上野の名所四カ所の内名所集に

 世をわたる吾妻の川の浪まくらちぎりも深きおもひこそませ

 吾妻川ときはの淵のわかやなぎ水もこずえもみどりなりけり

 中頃にこの郷に「ときわ」という女が居て大変美しく心も優しく、古の常磐御前に等しいとその名をときわと言った。左に記す。秋閒備前守妾と言われていた。備前守死して後、世をはかなんで、その川筋原町の立石と言うところの淵に身を投げて亡くなった。これによって、ときわが淵と呼ばれるようになる。越前国朝倉の息女か、歌に

 世に経なばよしなき雲や覆ひなむいざ入りてまし山の端の月

と歌を詠み身を投げ歌のごとく義を重んじて操を守り貞女の道を立てた。

ある人が吾妻を知る人のもとへ文月七日来訪し

 稀にあふ吾妻うれし天津星

またある人の歌に

 水上はいづくいもせのやまならむ わが妻川の名にながれ行く

 前に記すところの伊香保沼の辺に二つの石碑がある。一つは廣雲快龍である。別にもう二つの石碑がある。これは同郡(国?)緑野郡木部殿という人の妻と下女である。石碑のあるところは、群馬郡の分に当たる。法名は龍體院殿白山真性大姉、十二月廿七日とあり、下女の法名は久屋妙昌信女同月同日とある。ただし年号は見えないと言われている。

 同郡御関所四ヶ所

猿ヶ京     薬師峠麓     大戸     榛名山続いぐら山麓

大笹      鳥居峠の麓    狩宿     浅間獄の麓

   この狩宿は往昔頼朝公浅間野狩を行ったとき、狩屋を建てたところである。その後今も残る。そのところより北に登り、袋倉という村に鷹川の城と言うところがある。これも三原野狩に狩屋を建てた跡だという。その他干俣まりの宮音なし川など狩の時遊んだところ等、色々言い伝えがある。

昔当郡は、吾妻太郎という人の領地だったという。源家の系図に、清和天皇第八の宮貞兵部卿滋野氏、海野、望月、吾妻とある。吾妻は信州に続くところであるから、この吾妻氏の人往昔当郡の領主か。また、鎌倉繁栄の時吾妻太郎、吾妻四郎という人、吾妻鏡に記してある。この人は吾妻氏の子孫か。頼朝の時節の射手と見えて、その時代は健久の頃である。また、義経謀反の時、源氏揃に上野に利根、吾妻の記述有り。利根のこと沼田氏の始祖景泰より沼田三郎憲泰、同弟平八まで十二、三代経て天正九年に子孫断絶する。平氏と言われている。景泰より前は筑紫大友民部太輔領地であると沼田記に書かれている。武家大系図には藤原とであるが、筑紫大友は頼朝、義経親しかったので、源氏揃の時源氏一族の中に入るか。然れば当郡の領主吾妻太郎も時代同じであるので、吾妻鏡に記してある吾妻太郎と同一人物か。また元弘建武の頃、岩櫃城主に吾妻太郎藤原行盛という人が城主であったが、貞和五年に滅んだという。あるいはもっと後のことか。前に記した健久元弘戌より貞和五巳丑は百六十年の間がある。これは藤原氏であるという。また行盛の行の別に滋野三家の人とある。ただこれは別人であろう。何れの時とも知れず吾妻七騎と称して七人にて分領して支配していたと言うが、確かなる証はない。

当郡古城大概の記

原町岩櫃古城、城主斉藤越前という。上杉家旗下と伝わるが、ただ記録には無い。同所古城、岩櫃山の続き岩櫃の出城と伝わる。

 古より岩櫃は名城である。甲陽軍監、信長記等に書き記してある。駿河に久能、甲州郡内に岩殿、上州吾妻に岩櫃、本所には信濃の吾妻とある。とし久しく真田の支配の地であったのが原因で、信濃の吾妻と誤って書かれた物か。往昔城主は吾妻太郎当郡の領主である。鎌倉の時代、右大臣家に吾妻太郎(吾妻鏡十五、六巻に記す)その人が城主か。またその後正応、永仁の頃、吾妻太郎藤原行盛という人が在城していたという。貞和五年同国碓氷の住人里見と領地を争い、戦いに負けて滅んだという。貞和五年より七、八年を経て、延文年中に、右に記す吾妻太郎行盛の嫡子斎藤太郎憲行という人が、父の敵里見を討って再び居住したという。上杉の幕下となったのか。延文より二百余年を経て代々相続し、斉藤越前守に至りて永禄年中武田信玄に滅ぼされたという。里見のこと、後太平記、北条九代記にある。後に安房一国を領して安房の里見となった。氏は源氏である。

同 古城 稲荷城という。

 旗頭知れず、記録等も分からない。

 城主 大野新三郎

大野新三郎の先祖は公家であったという。当国に来たのはいつ頃だったか分からない。そのところより炭十二俵年貢に納めた。よってそのところを一見して下ってきてから連枝のものと家人を帰さず、故に武家になり、そのところに住み着いたという。信三郎と岩櫃城主との確執があり、戦い負けて甲州へ落ち、信玄を頼み再び旧領へ戻ることを図った。弘治の頃信玄箕輪を攻めたとき、その先手に加わり討ち死にしたという。城の跡に宮がある。大野を神と祀る。寛永の頃、土地の人その跡地を畑にしようと掘り起こし、明日行ってみると長さ二間ほどの大蛇横たわっていた。土地の人々恐れおののいた。大蛇口走る。われは暴れ大野なりと。よって神に奉るという。

同所古城(高野平という)

 城主不知

川戸村古城(内手という)

 城主   秋閒備前守

(以上161)

 右備前守、岩櫃城主吾妻太郎の家臣だという。この騒動で落城すると、誰も 確かなる証は無い。

同所古城(山のこやという)

 城主不知

沢渡古城(カノ原)

 城主  富澤出羽守

 出羽守病死の後嫡子大学下沢渡に浪人する。二男豊前守山田に浪人する。

大戸村古城

 甲州旗下 城主  大戸三河守

 この三河守は、信玄の配下である。北条の配下同国碓氷郡松井田牛が坂の城 主大道寺駿河守にせめ落とされると言い伝わる。いま、土を掘り返せば太刀、

 矢の根等兵具が出土するという。年号知れず。

萩生村古城(堺野という)

 城主  小林石見

 この城も大戸と同時に落城したい言う。年号知れず。

須賀尾村古城(鷹つなぎという)

 城主不知

西中之条古城(じょう峰という)

 城主不知

三島村古城

 武田旗下 城主  江見下野守

 この城、断絶のことは分からない。

鎌原村古城

 武田旗本 城主  鎌原大和守

 甲州滅びて後、真田の旗下(本)となる。

長野原古城

 同断   城主  羽尾入道

 甲州滅びて後真田の旗下となる。本名海野である。海野長門守、能登守の父 であるという記述がある。

折田村古城(旗頭は分からず、記録等もない。)

 ここの騒動、落城したと伝えられているが、分からない。

五反田村古城(たけやまという)

 この城落城したと伝わっているが、城主の名や断絶の事も知る人は居ない。 古戦場と見えてこの山の内、麓の土中より人骨または太刀、矢の根、甲冑、 草摺、のたぐい出土する。ただし信玄に攻め取られたか。西窪治部左衛門方 に信玄の感状があるという。その文にこの度嶽山の城において手柄有りとあ り、永禄四年と書いてあるそうである。

横尾村古城(ようがいともいう。八幡山とも言う。)

 城主  塩原源太左衛門

 ここの騒動群馬郡上尻高村小屋の城主上杉の旗下尻高三河守家老であるとい う。天正十五年丁亥正月二日、甲州より下知してせめ落とすという。このと き尻高源二郎加勢に出て名久田川の辺火塚にて討ち死にする。同所に墓があ る。

植栗村古城

 城主 武田旗下  植栗安芸守

 甲州滅びて後、真田の旗本となる。

伊勢町村古城(上杉旗下コジョウと伝わる。記録に見えず)

 城主  尻高摂津守

 ここの騒動、天正年中甲州の下知によって吾妻組、吾妻勢を以てせめ落とす という。

市城古城(岩井堂という)

 この言われ白井の出城という、城主無く番城であるという。

 ここの騒動白井長尾より押し出してきたという。天正十五年丁亥十二月二十八日甲州よりの下知にて吾妻勢焼き討ちにして落城したという。

柏原村古城(沼の尾という)

 城主不知

 この騒動前に同じ、白井の出城で吾妻の押さえであるという。廃城は分からず。

箱島村古城(寄居という)

 城主不知

 この騒動前に同じ、白井の出城であるという。廃城は分からず。

猿ヶ京村古城

 北條旗本

 城主 知高左馬助(尻高左馬助か)

 天正八庚辰年秋の頃滅んだという。去年より須川、新巻、小川、一党は吾妻に一味して折々この城を攻めたが、要害堅固で落ちなかった。これによって沼田の城代海野能登守下知を下し、左馬助の妻女の甥恩田伊賀を以ていさめさせる。その趣は近々大軍を以て攻める計画あり、これを思えば大勢の士卒を殺してしまうよりその方一人切腹し城兵を助けるのが人将としての道である。と矢文を以て言い渡す。知高得心して、城を引き渡し自身は家士十人ばかり召し連れ、後閑村の如林寺に入る。そのときに沼田勢左馬助の最後をミント大勢来て、知高最期遅しは臆したかという。左馬助大いに怒り、我ら剛なる者の腹切る様を見習うべし刀取り寺より押し出して、家士共に連れ立って切ってかかり、散々に切り散らし沼田勢の多くのものが討たれた。知高も手負いながら思いのまま働き寺中に引き入り、本尊の前で念仏を唱え腹切って死す。家士も残らず自害した。残った城兵死骸の上に薪を積み重ね火を付け寺内残らず焼き捨て、大勢の中立ち退き白井の方へ引き上げていった。右古城のこと沼田記に詳しく書かれている。

右古城騒動合わせて十二カ所、そのところにて老いたるものに訪ね聞いてこれを記す。このほか亥少しの騒動幾多あるけれどもこれを略す。

 右に記す城主の面々記録に見えない。ただし大戸、鎌原は記録に見える。また当郡は永禄年中武田の手に入り、信玄の御家人吾妻組八十騎の武士がある。真田一徳斎の組下である。軍用のときは植栗安芸守よりの触れ出しにより出陣することとなっていた。甲州滅びて後、残らず真田の家人になる。その子孫武家にも土民にもある。大概の子孫は断絶した。また吾妻七騎という士がある。足利義澄永正の頃浪人したのだろうか。記録にも見えない。

柄沢玄蕃    沢渡須加田に居住す

高橋一暮    山田村に居住す、の地に郷原に移る。石塔有り

蟻川入道    同桑原に居住す

富澤豊前    同 断

蜂須賀伊賀   原町の上野に居住す

富沢大学    下沢渡に居住す

折田将監    同署居住

甲州より吾妻沼田へ法度の条目

一、  對地衆不致狼藉様に被申付可被加懇切事。

一、 従二之曲輪内え地衆出入一切可被停止之事

一、 請取之曲輪各々有相談御番普請巳下無油断可被勤仕之、成中竊大切に候   夜番肝要間可被入念事。

一、 喧嘩口論一切禁止之事附以贔屓偏頗不可徒党有之事。

一、 適地計策不可致油断候但し於被遣或使者或書状者海野長門守令談合可差越事。

一、 在城衆縦難有如何様恨行方非義表裏可被相談之事。

一、 在城衆当番之到着、不及是非。縦難冩非番城之外不可他宿之事。

右條々於違背之人者句有御過念之旨被仰出候者成仍面如件

天正八庚辰年五月廿三日

 海野長門守殿

 同 能登守殿

 金子美濃守殿

 渡辺左近丞殿

天正七巳卯年八月、沼田残らず甲州武田勝頼の手に入る。但し戦略にてとれたのでは無い。長尾景勝より頂いた地である。すぐに沼田の城真田安房守へ預けられる。甲陽軍監には天正七年沼田御手に入り城代として信州先方西條治部を遣わすとある。この儀沼田の記禄には無い。

天正九年辛巳年三月廿五日沼田古城主沼田平八、町田村にてだまし討ちにする。これは沼田記にある。

天正八年庚辰年沼田城代海野能登守逆臣のの企て有りと、昌幸の弟真田壱岐守信昌はせ向かいこれを誅す。能登守沼田の城を去って嫡子中務に妻子家人引き連れ迦葉山へ退くところを、岡の谷の上野原にて追いつかれ、大勢に取り囲まれ父子供に討ち死にする。十月十三日なり。海野塚と言いて岡谷村にある。

次に矢沢薩摩守頼綱、沼田城代となる。これは真田一徳斎の弟である。矢沢監物の祖先である。

海野入道に男子四人あった。嫡子羽根尾、二男海野長門守、海野能登守、四男海野郷左衛門、女子も多くあったと言われている。能登守は吾妻の城代であったが沼田へ遣わした。兄長門守は眼病にて両目とも見えなかったが、吾妻の統治を任されていた。弟能登守沼田で討たれた為、吾妻で切腹する。

天正十七年巳丑年秀吉の命令で、沼田領の内三分の二を北条氏政に渡す。替え地を信州伊奈郡にてもらう。但し利根川より西は、いままで通り真田の領地として残った。諸家全太平記に記してある。北条氏邦が猪俣能登守を沼田城代とする。能登守思慮浅く名胡桃の城夜討にて奪い取り、昌幸立腹して秀吉に訴え出る。小田原の役これを原因に起こる。また沼田記に天正十八年庚寅年二月朔日名胡桃城主鈴木主水小舅中山久兵衛にたばかられ名胡桃を奪われ切腹したと言われている。

天正十八年庚寅年七月六日小田原北条家が滅んだ。同年沼田の領地残らず以前の通り真田に帰ってきた。前の替え地信州伊奈郡は、返上となった。すなわち嫡子信幸、沼田藩となり沼田領主となる。昌幸は信州上田藩となり上田領主となる。慶長五年庚子年、真田昌幸、二男信繁、石田治部少輔と一味し上田に籠城した。元和元乙卯年5月7日、大阪落城後沼田、上田共信幸が賜る。慶長十一年丙牛年沼田の城再興、同十八年成就。総奉行祢津志摩守幸直、丸山土佐守幸時、伴安房守、奉行は木村戸右衛門、大熊五郎左衛門であると沼田記に記してある。

吾妻郡中頃領主の事

吾妻郡は永禄年中に始めて武田信玄の手に入り、真田弾正忠幸隆に預けられる。信州上田よりの支配であった。同年の頃より吾妻郡代として、海野長門守幸光、天正八年頃まで居住し吾妻郡の仕置きをしていた。その年中長門守弟能登守沼田にて滅ぶ。よって兄長門守も当地にて切腹する。長門守切腹のあと少しの間城代知れず。但し矢沢薩摩守、沼田吾妻共に支配か。または城番か明かでは無い。

元和二年に至りて岩櫃の城を破却して、今の原町へ引き屋形を建てる。四方百軒余、堀を堀土手を付柵塀をかけ内に本殿、役所等を建て、一郡の政務先々の通り原町で行われた。本殿は真田信幸信州より沼田への通り道での宿舎である。このときの郡代出浦対島守この所に住んでいた。次に長谷川左馬助、半田筑後、丸山主水、富澤外記、鹿野勘介、新井刑部、塚本甚平、片山治左衛門、上山五郎右衛門相次いで吾妻一郡の政務を原町にて行う。古の本殿修復費無いため、伊賀守殿代寛文のはじめこれを壊し、同年同所建徳寺へ賜る。この以後は原町矢島権兵衛宅本陣となる。上山五郎右衛門権兵衛宅に住し郡代を勤めた。伊賀守お預かりになり、お家断絶の後は原町矢島権兵衛公儀お代官所も、矢島権兵衛宅御陣屋となる。右本殿の跡は畑である。元和八年壬戌年上田より松代へ所替え仰せつけられる。右は昌幸、信繁反逆の城であるというのが理由である。

真田家の事

清和天皇三十四代真田伊豆守諸太夫滋野信幸本名海野。明暦二丙牛信州更級郡柴村へ隠居、萬治元戊戌年十月十七日に卒去九十六才徹岩一當と号す。十三万石の内沼田、吾妻三万石伊賀守信直へ譲る。これは嫡子河内守信吉の子である。信吉は家督しないうちに亡くなる。舎弟真田内記信政松代を家督した。

元和元辛酉年、先領主真田伊賀守信直、将軍家の御勘気を被り奥平小次郎に御預け、奥州山形へ配流した。その後小次郎領地替えによりて下野国宇都宮に移る。この所にて逝去。貞享五戌辰正月十六日六十四歳であった。同所晩鐘寺に葬る。法名春林院殿雄山崇莫大居士(従五位下行伊賀守滋野姓真田氏信直)嫡子弾正忠信成、浅野内匠頭へ御預け配所に赴く時、

元来栄辱都無知 花実同根枝皆難 昨日驕泰今日患 朱尾研涙記愁詞

梓弓引きわかれ行く親と子の見しおもかげをかたみとはして

真田氏御菩提所利根郡新巻村の内、今宿玄香寺である。

天和二壬戌年正月三日より沼田城廃城となった。貞享元年子年七月酒井河内守に仰せつけられ、吾妻郡の内真田の旧領残らず検地に入る。検地総奉行は河内守家老高須隼人、同四丁卯年水帳完成する。右は百姓困窮しているためである。

原町初の事

本は平川戸の町と言って岩櫃城下の町である。今は上野宿という。元和二丙辰年信州上田真田伊豆守信幸の時代、今の原町へ町を移す。吾妻一郡の中心である。平川戸の町を基準にしてその屋敷主にだんだん町割をして渡す。奉行出浦対島守すなわち当郡の郡代である。その頃今の原町は田畑もない原野であった。観音原という。そのいわれは原町上の町にいてうやという小名所あり。そのところに観音堂あり。いつ頃からあったかは分からない。右の観音堂よなよな光明があったと言う事で寺号を光原寺と号したという。今は原町の内顕徳寺院内に安置している。町割の時移したという。聖徳太子お作りの長さ二尺六七寸の正観音である。再興は領主信直の奥方施主である。

中之条町初の事

往古は川原宿と言って古城の下吾妻川と名久田川落合の所であったという。文禄の頃一段上に上り今の下の町の所へ移動した。その後慶安三庚寅年今の中之条に移ったという。

伊勢町村始めの事

片原宿宿を移して慶安四年辛卯年町割したという。

吾妻郡温泉

草津の湯  御座の湯、カッケの湯、ワシの湯、ワタの湯、瀧湯

大瀧十二流、湯壺一つ

不動瀧二流、同断

石湯瀧二流 同断

内湯瀧   三カ所

右合わせて十二瀧落ちる。湯わき出るところの長さ五六十間、横二十間程、周りに柵がある。湯は非情に熱い。その外泉水さいの河原と言うところに広く湯泉がある。

薬師堂 別当 真言宗光泉寺 鬼の泉水  人家より十町ぐらい有る。

本白根今白根  人家より三里ほど

湯本図書屋敷跡という所有り。古来よりこの所の地頭である。武田の旗本であったが、甲州(武田勝頼)が滅んで真田の旗下となる。今は断絶した。源頼朝三原野の鷹狩りの時湯場を開いたと言われている。御座湯のわき出るところに大石がある。右大将この石にお座りになった故御座と名付けたという。

またある人が言う。所の名を草津というは大般若経に曰く南方に名湯あり。これ草津の湯と説き給うとなり。この経の意味をとって名付けたものか。

また言う天正十壬牛、織田信長武田勝頼を滅ぼさんと思い立ち近衛殿に同意してもらう。木曽路通りのついでに草津にお立ち寄りした時、この近衛殿十首の読歌を薬師堂へ奉納した。今は光泉寺の什物である。

 草津湯治の中光泉寺においてかの本尊の名読を句の上にすえて法楽為に十首の歌を詠んだ。  龍山

 な 山路真寿

 名も知らぬ草木あまたに茂りあひて深き山路や分け迷ふらむ

 む 郭公幽

 村雨のすぎたつ山の峰こえてかすかに名のるほととぎすかな

 や 海辺夏月

 山おろしいそべの松に吹き立ちて夏なき浪の寄りするつきかげ

 く 五月雨

 雲は猶ほかさなる山の遠近もわかぬばかりのさみだれのころ

 し 夏草夕露

 しげりあふ草むらむらおく露や暮れて蛍のいろに見ゆらむ

以上171

 じ 馴増恋

 知らざりき露のなさけに増柴のなるるに袖のぬれむものとは

 う 契後絶恋

 うきは只契りおきにし閏の戸を明けやらぬ夜の人のつれなさ

 に 別初恋

 にくからぬ人にそひねのくぐは命にかへて惜しきもの哉

 し 旅行友稀

 信濃なる木曽路の山のけはしきに行かふ袖の稀のたびびと

 む 寄湯祝

 結ぶ手の此の谷蔭の出湯こそむべも老いせぬくすりなりけり

 天正十年五月八日

河原湯  入湯なり。瀧もあり。湯泉大明神の宮有り。薬師堂あり。

四萬湯  同断

     同所蒸湯  あら湯といふ入湯有り。

この二箇所の間半里に足らずこの所より半里奥に日向山定光寺という薬師堂がある。本尊秘仏であるという。黄金の仏像である。これすなわち日向守碓氷貞光守本尊であるという。この所にも入湯が有る。

沢渡湯  入湯なり。瀧有り。湯殿大明神の宮あり。薬師堂あり。

花敷湯  熱湯なり。瀧あり。女性において冷え性に効く。人家を離れて山      深い川の端にある。湯に入る者は、薬師堂に泊まる。この湯は入      山村にある。山深くに付き山桜5月中旬頃に開く。頼朝三原の狩      の時詠んだという歌があり、故に花敷きという。

 山桜咲きしこずえのはなしきて

いろは深みの湯にぞ入るやま

満座湯  入り湯なりこの湯人家を離れて四十五里、深山の谷間にある。牛馬     も通れない。人が行くのも自由にならない。故に行く人は少ない。     効能は虫刺され、出血、打身、らい病、眼病を患う者も一度行けば     必ず直る。

川中湯  入り湯である。一切のできもの膿を取る。またとげ抜きがやりやす     くなる。年月を過ぎたものも抜けるという。せんきにてきんばれた     るに吉。ぬるい湯である。

須賀尾湯 入り湯である。できものやかさぷたのできた傷などにも効く。ぬる     い湯である。

右の他信州の境鳥居峠に湯があり、信州の方では根津の湯とも加沢の湯とも言う。吾妻郡内である。三坂筑師峠におうしの湯というのがある。これも吾妻郡の内である。

同郡神社

原町  岩鼓大明神     判官 嵩山薩摩  社地老木あり。

同所  八幡宮       同人 同所   大神宮    同人

同所  稲荷大神宮     別当 顕徳寺   

     この社地越後国より三十三里続く尾根の先なりと言われている古き    社地である。寛永の頃まで七抱えに余る大杉の枯れたる根があるとい    う。今に土を返せば朽ちた根が出る。

同所  諏訪大明神     判官 小板橋丹後

同所  天神宮       別当 本山 金剛院

同所  岩櫃天狗      別当 本山 金剛院

同所  雷電宮

同所  山神宮

山田村 上妻大明神     判官 柄沢大和

     この社は、かずまの獄の中腹にあり。いずれの頃よりか山田村に移    す。古の社の跡かずまに有る。

同所  白山大権現

     善福寺開山道覚和尚貞治の頃勤請するという。

同所  八幡宮

同所  諏訪大明神

同所  天神宮

岩櫃  水岩権現   (古岩櫃城の鎮守であると伝わる)

横尾村 八幡宮       別当 文珠院

市城村 白鳥大明神

松尾村 諏訪大明神

同所  荒神

矢倉村 諏訪大明神

同所  諏訪大明神     判官 須藤大隅

同所  八幡宮

同所  稲荷宮  二社

同所  山神宮  三社

大塚村 熊野権現本宮    別当 普賢寺

同所  八幡宮

赤坂村 加茂上下大明神

同所  熊野権現那智

同所  諏訪大明神

蟻川村 白山権現

同所  熊野権現

須賀尾村 大峰権現

同所  諏訪大明神   御朱印七石 別当 渡部駿河

同所  天神宮

本宿  村山神宮

大柏木村 諏訪大明神

横谷村 諏訪大明神

同所  鳥頭大明神   別当  専龍院

同所  三島大明神

草津村 湯原 白根権現

長野原 諏訪大明神

同所  天神宮

四万村 諏訪大明神

下沢渡 いつな権現   別当   金妙院

青山村 駒形大明神

五反田村 伊勢宮

同所  近都明神

平村  伊勢宮

同所  五霊大権現   別当   善徳院

同所  愛宕宮

川戸村 富士浅間宮   別当   金蔵院

    社地は広い。老木の松多数あり。

同所  白髪大明神

同所  首宮大明神   別当   専龍院

金井村 一宮大明神   判官   片山左近

     甘楽郡の一宮を勤請するという。 判官 片山左近 同和泉

同所  八幡宮

岩井村 白山大権現   別当   長福寺

同所  大神宮     別当   長福寺

同所  柴宮明神

同所  稲荷神

伊勢町 大神宮

同所  諏訪大明神   判官   小板橋丹後

     この社地に七抱えほどの老木がある。古跡と見える。

同所  五郎宮     鎌倉御霊を勤請する。

同所  大明神     判官   小板橋美作

     社地広し。領主保科氏が勤請する。

郷原村 小池権現

     榛名山の神を勤請する。

植栗村 鹿島大明神

     健久四年に勤請すると縁起あり。

奥田村 白鳥大明神   縁起あり。

須川村 熊野権現

入須川 雨宮両社

猿ヶ京村 雨宮

布施村 諏訪大明神

師田村 諏訪大明神

折田村 諏訪大明神

同所  八幡宮

 大概以上のごとし、その他は記しずらいのでこれを略す。

同郡仏閣

原町  瀧澤不動   別当   金剛院

     岩櫃山に続き城の丑寅に当たる岩石のそばに建ち、松、つつじ生え    て岩窟が多くある。そこの不動堂がある。峰より滝が落ち絶景の地で    ある。ここを訪れた人の詩歌、俳諧等の句作がある。

    江戸下谷 瀬川 時春  

秋風やふけど不動の岩根まつ

山姫も染め得ぬ色や瀧のいと

また傍らに

年へてもさらに動かじくりかへし瀧のいともてつなぐ岩根は

瀧の名は問はでもしるし白糸のかけてうごかぬ山のいはがね

同所  薬師獄

 高山なり、石像の薬師石宮がある。金仏薬師、古来の本尊である。

     今は別当に安置。別当は顕徳寺である。

同所  弥陀堂

同所  観音堂   二箇所

同所  虚空蔵堂

中之条町 不動堂

同所  薬師堂

西中之条 山崎観音堂

      中頃丸山時雲建立本尊座像にて二尺八寸松岩和尚の作

同所  十王堂

折田村 定光寺 観音堂

同所  阿弥陀堂 不動堂

同所  薬師堂

伊勢町 虚空蔵堂 大聖院

同所  薬師堂 別当 海蔵寺

同所  観音堂

松尾村 観音堂三箇所

同所  薬王堂地蔵堂達磨堂

横谷村 大日堂 薬師堂

矢倉村 阿弥陀堂

同所  笹原薬師堂 別当 龍徳寺

郷原  薬師堂

同所  生馬観音堂

同所  阿弥陀堂  古き五輪石塔多数あり

同所  山野薬師 洞観音 山尾観音堂

同所  虚空蔵堂 地蔵堂 十王堂

同所  行沢寺馬頭観音  長さ六尺ほどの立像運慶作という。

           棟札に大永七丁亥六月十三日斉藤越前守造立とあり。

三島村 大御堂普門寺観音堂 十一面長さ三尺

同所  沢尻馬頭観音 別当 浄生寺

植栗村 百番観音

岩井村 大日堂

同所  石地蔵

川戸村 七沢観音 金蔵院

金井村 虚空蔵堂

大戸村 大同山観音堂 本山別当 長光寺  大同年中に建立という

同所  仙人岩窟

    同所に岩窟が二つあり景勝地である。

    石像観音堂十六羅漢木造地蔵がある。

    施主潮音、松岩両尊

本宿村 吉岡薬師 本山 啓往寺

    本尊源頼朝浅間御狩の時この所に残していったという。

    腹籠もりに作り込めたという記録がある。

須賀尾村 十王堂

新巻村  観音堂

市城村  不動堂 岩山にあり滝がある景勝地である。

青山村  円通寺観音 同薬師

     昔円通寺という寺があった。いずれの時か兵火にて焼失すると言わ     れている。寺地の跡現在は畑である。

上沢渡村  大日堂 観音堂

同所    大岩不動堂

深山の岩窟に金剛山大岩寺と号す本尊行基の作、高さ二十丈余りの滝がある。中程に不動の像の形の岩が自然石である。

同所    大岩毘沙門堂

同所    観音堂 二箇所

同所    十王堂

長野原村  造り道観音堂

同所    薬師堂

須川村   駒形観音堂

岩に自然の駒形がある。

平村    毘沙門堂

大塚村   大房彌陀堂

同所    大日堂観音堂十王堂

同所    枝沢千手観音

赤坂村   観音堂

同所    薬師堂二箇所一箇所西沢山

五反田村  観音堂 二箇所

同所    嶽山石仏(西国三十三ヵ所観音)

蟻川村   観音堂 二ヵ所

横尾村   観音堂 二ヵ所

柴本村   岩崎観音堂

右仏閣大概斯のごとし

同郡寺院

原町    浄土宗  善導寺

古跡なり。貞享年中(1684~1687)まで無本寺なり。同年に増上寺末山となる。開山識阿空寂上人、元祖東漸大師七代の法孫関東にて西山一派の檀林である。識阿上人は、袋中和尚血脈論のツリに委しくあるという。すなわち開山の弟子二代目を円光上人と号す。その母榛名山の池に入水して大蛇となり池に住むという。大蛇の鱗三つ、一尺二寸の剣一振り、上人の形見といわれている。鱗の大きさ四寸四方ほど、面に筋がある。兼は色赤銅である。慶長四年(1599)に出火して右二品並びに汁物ことごとく焼失する。この寺開基のときは川戸村の反辺と言うところにあった。中頃江原村境桐沢へ移す。いずれかの頃今のところに移ったという。

同所    真言宗  顕徳寺

この寺は元浄土宗専念寺という。原町はじめに郡代出浦対馬が妾の菩提のため建立されたという。妾の石碑がある。元和三年(1617)丁巳十一月十八日と刻まれている。開山を海老上人という。これより三代後出浦滅びて後は無住となり荒れ果てる。そのとき宥範法師稲荷城に庵住していた。領主真田へ訴えて寺を取り立て拝領して真言宗に改め、御室の末寺となる。霊像の観音を安置する。

同所    浄土宗  宗安寺

中之条町   浄土宗  清見寺

古くは隣村、西中之条村にあり。西見寺と号す。永禄(1558~1569)の頃兵火によって焼失する。その後しばらくして今のところに移す。西の字を改めて清見寺と号するようになった。中興宗誉及山和尚の代に到り今の寺地に移す。吾妻川の流れ左右に流れてこの景観が三保の松原に似ていたので名付けたという。

三保うつすここも清見の寺なれや外にたぐへは浪の松原

及山和尚の詠訡であるという。また春日の作であるという彌陀の燈物の汁物がある。

同所    浄土宗   法蔵寺

西中之条村 真言宗   教智院

伊勢町村  禅宗    林昌寺

この寺は真田の一族矢沢薩摩頼綱の開基である。一徳斎(幸綱)の弟である。

同所    同     海蔵寺

山田村   浄土宗   善福寺

古跡である。開山道覚上人、袋中和尚血脈論には上州の道覚とツリある由。また善光寺仏という古仏の三尊の仏陀あり。弘法大師善光寺如来を移すといわれている。金仏の立像代々の什物である。

大戸村  浄土宗   大運寺

古跡である。昔大戸の城主大戸真楽斎開基である。あるいは大戸三河守の先祖の開基とも言われる。

大柏木村  浄土宗   三福寺

須賀尾村  浄土宗   浄善寺

この寺の本尊、定朝の作であるという。

三島村   浄土宗   浄清寺

川戸村   天台宗   宗泉寺

岩井村   真言宗   長福寺

古跡である。原町岩櫃城主吾妻太郎行盛の開基であるという。昔は村の内に寺地があり、元禄年中(1688~1703)上の山に移す。古寺場の寺中に有るとき中の塚穴より元禄四(1691)辛未年六月十六日に仏像出る。金仏一寸八分の観音である。塚の上に古い五輪の塔がある。高さ五尺二寸、台に藤原行盛貞和五(1349)巳丑年五月十五日と刻んである。このほか無名の五輪の塔が三つある。大きさは同じでその他石塔多数あり。