柳沢城跡縄張図

 柳沢城は、別名岩鼓の要害と呼ばれている。この山は、東山と西山で構成されていて、城跡は東山に築城されている。縄張は、東側の斥候部分と西側の城郭部分となる。この二つの曲輪群は、大きな薬研堀で区切られ一城別郭式の縄張を形成している。これは、岩櫃城西方3km先にある岩下城と同じ縄張である。一城別郭とは、曲輪群が大きな堀切で分けられ、二つないしはそれ以上のグループに分けられ、一つの曲輪群が敵に占拠されてももう一つの曲輪群で守る。また、取られた曲輪を取り返すという戦略が可能になる縄張である。この定義は、北条流軍学(江戸時代に成立)の築城術の中に定義されている城の形である。

 縄張図を参考にしながら解説を進めます。まず、大きく分けて斥候部分と要害地区、東曲輪群の3箇所で構成されている。

 斥候部分は、東側の岩の断崖に取り付くように作事されている。南北に小さい細曲輪が削平され、頂上には石仏や石祠がある。石仏に関しては、明治二年に発令された「神仏分離令」に伴い「廃仏棄却」によって首が切られている。

 これは当時の明治政府が、「これからは天皇中心に、神道によって国を治むる。」と宣言した事により行われた国の政策である。

 まず斥候曲輪群は、南北に梯郭式で縄張されている。観音山頂上を中心に、南側に二段の小さい曲輪と2本の堀切、北側には三段の小さい曲輪、西側には大堀切りに沿うように曲輪が配され一城を構成している。

 要害部分は、西から外曲輪、三の曲輪、二の曲輪、一の曲輪と各曲輪は堀切で区切られている。そして各曲輪は、南北に梯郭式の縄張となっている。外曲輪のさらに外側に竪堀の跡があり途中途切れているが、東曲輪群の長い竪壕の始まりかも知れない。

 まず外曲輪の南側下には、水の手と思われるところがある。その先は滝頭に通じる山道であるが、その途中にも竪堀の跡とおぼしき遺構も確認できる。外曲輪を抜けると三の曲輪手前に虎口があり、そこを抜けると溜場となる。この溜場は、さらに南側に二段の平場を設ける。この溜場の東、一段高いところが三の曲輪である。

 三の曲輪には特に虎口は確認できない。やはり、南北に梯郭式縄張となっている。この曲輪中央東側が一番の高所となり、腰曲輪と南側に一段の平場と他の曲輪より少し単純な縄張か。次に二の曲輪である。

 二の曲輪は、中央部にピークを設け南側に一段、北側に二段の平場を設ける。この曲輪も、虎口は確認できない。

 一の曲輪は要害部分の中心となる曲輪で、中心で東西に長細いピークがあり、南側にやや広い曲輪と狭い腰曲輪の二段、北側に三段の曲輪で構成される。

 この城の全体像は、各曲輪が独立していて敵兵を南側に迂回させて邀撃するような縄張と感じる。本城を見れば、西側より敵の侵入を想定した縄張であると言うことでしょう。

 ここでは東曲輪群と仮に命名したがここは本城域の北側、東西に長い竪壕、多くの平場を備えたところである。今回通ったコースは、稲荷城から在上、平沢と通ってきた。しかし、吾妻川と山田川する地点を突破されると二つの攻め口が想定される。一つは今回通ったルートで、もう一つは原町の大宮岩鼓神社方面に向かい上野地区を経て攻め上るルートである。

 東側曲輪群は、東西に長い竪壕が200m以上にわたって掘られている。外曲輪の西の竪堀につながっていたとするとその長さは、300m以上にわたる長い竪壕である。その竪壕の南側に多くの曲輪が梯郭式に配置され、その堀は不動沢に落ち込み敵の侵入を遮断している。ここで興味深いのは、上野地区方面からの敵の侵入を想定している縄張であることである。上野地区は、大宮岩鼓神社の所から柳沢城東曲輪群に到達するのに二段の平らなところ通過する。この上野地区のそれぞれの所に拠点を設ければさらに堅固な物となるであろう。また、そのような場所も確認している。しかし、未だ未調査であるためこの場の解説は割愛させていただきます。

  1. 瀧峨山金剛院不動堂


現在、原町バイバスより岩櫃城跡の看板を中之条方面から見て左に曲がり、平沢方面に登っていくと右に分かれる道があります。その道をさらに進み橋を渡りまっすぐ行くと、不動堂があります。ここの北の観音山には、観音像や体内潜りなど修験にまつわる多くの遺構が有り、この山が、修験道の修行の山として往時には栄えていた事が分かります。

 この山の頂上は山城となっていて、この吾妻の郷士と修験との関係が深いことが伺えると思います。

 それでは、この金剛院について江戸時代に書かれた文書に記述されているものを紹介していきたい。しかし、こういう文書は「二次資料」と言われ、根拠にするには少し弱い。伝承、伝説も交えた解説と捉えてもらいたい。

 さて、この金剛院不動堂は今から六百年前に岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられたと伝わっている。同院の伝説には、第九十一代伏見帝のころ、正応年中(1288~1292)から永仁年中(1293~1298)の頃、岩櫃城主がその祈祷所として城の鬼門に大聖不動明王を安置して金剛坊法印円覚を別当たらしめたのが、金剛院のはじまりだという。

 円覚を開山第一世として、五世大専坊法印良宣、第八世頼詮、第九世は金剛寺法印頼盛、この頼盛の時に岩櫃城主斎藤越前守行連、不動堂を建立したとある(修験岩櫃語)。第十世大光寺法印法弘は岩櫃城代海野長門守幸光のために大峰山に代参すること九度を数えたという(修験岩櫃語)。

 第十一世徳蔵院法印良円は武蔵国幸手不動院鎮良法印の配下として吾妻諸同行の組頭を勤務した。この徳蔵院は、加澤記に「天正八年真田昌幸公勢揃いの項」に富澤豊前守、横谷左近と共に御馬廻として名前がある。

 当時の軍役には、必ず祈祷使が付き従い戦の勝敗や、攻め込む吉日など祈祷によって決めていました。この「徳蔵院」はおそらく、占い、祈祷を戦場で行うために御馬廻として昌幸公に従っていたものと思います。

 この開祖の第一世円覚から第十一世徳蔵院までが、三善氏の出であったという。次の第十二世の満福院東学坊法印は徳蔵院に対しては母方の従兄弟に当たる西山氏の出となっている。この人も武蔵幸手不動院鎮良の配下として吾妻同行組頭であったという(修験岩櫃語)。

 第十三世重源法印は寛永の初めから、東学坊の後を継ぎ岩櫃山中二十七日夜の間山ごもりして山伏修行をして、その後大峰(奈良県南部)に入峰して出世号を金剛院と号した。この事から、代々の法印が大峰に入峰して金剛院と言う出世号をもらっていたようである。現在、瀧峨山金剛院不動堂と言われている金剛院は、大峰山より出世号として代々もらっていた法印の名であるようです。

 第十四世の妙潮法印は、慶安年中善導寺十七世典誉教呑上人の弟子となり、また十八世円誉良山上人について学んだとあります。

 第十五世は、円聖法印です。かれは、郷土研究に力を注ぎ「原町岩櫃城記録」「修験岩櫃語」「再編吾妻記」「吾妻原町記」「瀧峨山記」など多くの著書を残した。 第十六世円潮法印、第十七世教順法印、第十八世智観法印、第十九世泰山良教法印、そして第二十世良長法印の時に明治を迎える。

 法印の居宅は、三百数十年前までは字平沢地内にあったとされているが、慶長十九年元和元年以後は原町上之町裏字下村に移ったと伝わる。

 以上「原町誌」の記述をかいつまんで記述しましたが、ここには石仏が百基有る事

から、この山を江戸時代より観音山と名付けられたと言います。この観音山は、東山

と西山とからなり、東山の方に「柳沢城跡(岩鼓の要害)」があります。この城は、岩 櫃城の東を守っていた出城だったといわれている。しかし、その城域もある程度の規模があり地方豪族クラスの城のように見受けられる。また地名も「字古城」といい、岩櫃城よりも築城年月は古いように感じます。しかし、広大な城域を誇る「岩櫃城」の一角を戦国時代には守っていたのは確実だと思います。

柳沢城伝説

柳沢夜討

 応仁二年(一四六八)十二月晦日のこと、柳沢直安は家の子郎党を集めて大晦日の酒宴を開き、君臣共にそろって泥酔してしまった。ところがその夜半直安は風呂に入ってふと「昔よりこのような晩は、よく夜討があると聞いているので用心した方がよい。」と思い立ち、早速部下にその志を伝えた。その直後、時ならぬ鬨の声が聞こえ

てきた。城内思いもよらないことで、上を下へと慌てふためくばかり。

 そのとき柳沢の家老丸橋将監と嫡子八郎常定は少しも慌てず百騎ばかりの兵を率いて門外に進み出て、「このたびの夜討は何者であるか、名乗れ」と山にこだまする。

大音声でどなりあげればそのとき早く、寄せ手の騎馬武者二騎躍り出た。 「我らは平沢大善宗時、白岩入道法雲、主君岩櫃殿の命により討っての大将を賜ったのである。早、尋常に勝負いたせ。」とこれまた大音声で名乗り出た。

 柳沢も「いかに寄せ手の愚人ども、耳を傾けてようく聞け、綱をしても寝鳥を射ずというのが人の情、闇討ちとは卑怯なり。先主行禅公の御遺言を早忘れたか。汝らの主人行弘暴虐無人の侍、畜生也。」

 寄せ手の軍勢は約三百騎、城兵は二百余人、衆寡敵せず、おまけに酒宴で泥酔した城兵は、瞬く間に討たれていき、寄せ手は大将直安めがけて、押し寄せ切り込んでくる。「いまはこれまで」と忍びの道から裸馬で東の原に脱走した。討ってのものはこれを見て、後から射る矢は雨霰のごとく、ついに永井六郎が射た矢が馬の下腹から胸元に刺さり馬は屏風倒しに倒れてしまった。

 今は是非もなくそこで直安は歩行立ちとなって、夜道を叔母にあたる植栗安芸守

の館に落ちていった。 ここで哀れだったのが直安の妻である。敵の手に落ちんと熱湯の湯の釜に中に身を投じ、自らの命を絶ったのであった。婦人は、岩櫃城主斉藤行弘の妹であった。

岩鼓の出城

 永禄六年(一五六三)十月中旬、真田軍は大竹(類長が原)の本陣を据え岩櫃城を総攻撃した。このとき岩鼓の出城(柳沢城)の守備は嫡子斉藤越前太郎、尻高源二郎、神保大炊介、割田掃部、蟻川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎等三百余人立て籠もって岩櫃城に入った敵の側腹を突くべく遠目に待機していた。

 十月十三日夜、敵の謀略によって岩櫃城内では甥の斉藤弥三郎、海野長門守幸光等が敵に内応し、城に火をかけ、これを合図に真田軍は大手番匠坂から攻撃に転じた。城主憲広はこの有り様を見て、やけ崩れた居館に帰り自刃せんとしたが、嫡子太郎がこの出丸から駆けつけ、我らが大手、搦手を防ぐことゆえ一刻も早く城を落ちるよう進言し、富沢藤若、秋閒四郎他諸氏が防いだので、憲広は越後に落ちることができた。

 以上柳沢城跡、不動堂に関する伝説、伝承を載せました。しかし、この事象はあく

まで、この吾妻の地に伝わる伝説等を、江戸時代に文書として書き伝えられたもの(歴史的には二次資料)で事実とは違うかも知れません。参考までに、読んでいただければと思い書き留めました。

参考文献 「吾妻郡城壘史」「原町誌」「中世城郭辞典」「日本城郭大系」「吾妻史料集録」 他