古谷舘跡見取り図

古谷舘跡解説・伝説・伝承を踏まえて

天正十(1582年)年三月、武田氏が滅亡せんとしたとき勝頼を迎え家運を挽回せんとしたところです。

 昌幸曰く

 「岩櫃城は東に沼田城(弟真田壱岐守信尹)南に箕輪城(内藤正豊)西に砥石城(嫡子真田信幸)小諸城(武田信豊)が守備し、北は上越の山々が城壁となし、本城は天険の要害である。三千の兵、三四年の兵糧は十分である。それがしは旗本となり、忠信を尽くし一度ご運を挽回申しましょう。」(加澤記)

 と、吾妻の地に戻り古谷や方を急造にかかった。しかしながら、佞臣小山田信茂の裏切りに合いついに武田勝頼は天目山にて、自刃して果ててしまった。

 その跡地を、昌幸の麾下である祢津潜竜斎昌月(祢津長右衛門か?)なる物がもらい受け山伏寺としたという。その名を巌下山潜竜院という。この寺は、天和二年岩櫃山の大火の時に炎上したが、再建されて護摩堂は明治十七年原町顕徳寺に移されて同院は配されたという。

 移築といってもおそらく材料の再使用が当時はほとんどであったので、現在の建徳寺の本堂がそのまま護摩堂というのは考えにくいかも知れません。

 さて、祢津潜竜斎昌月なる人物であるがいろいろな資料では、忍者ではないかという説がある。

 当時は修験を使い情報収集に努めていたので、忍者という呼び方はちょっと疑問があります。当時、昌月は法印を名乗っていたでしょうし、昌幸に帯しての助言者(軍配者)という位置づけの方が本当の所だろうと思います。

 滋野三家の禰津氏も、忍者(情報収集)を束ねていた一族ではないかという説もあり、また真田氏も滋野三家の海野氏の出であるという説が通説となっていたが、近年の研究では禰津氏の出ではないかという説がある。

 忍者というと良く時代劇に出てくる忍者を想像するが、実際の禰津氏の活動は、渡巫女、山伏、雲水などの諜報活動などにより敵対地域の偵察、周辺地域の情報収集などをやっていたと思われます。いうなれば、アメリカのCIA、旧ソ連のKGBのような組織ではなかったかと思います。祢津潜竜斎昌月という人物は、真田家において前記のような組織の長官をやっていたのではないでしょうか。また、桶狭間の戦いの時今川義元に一番槍を付けた毛利新介、首を取った服部小平太よりも桶狭間山に今川本隊が居ることを報告した梁田政綱の方が勲功が上だったようです。とくに、真田家では諜報活動に力を入れていたことから、祢津潜竜斎昌月は表には出なかったもののそれなりに家中では重きを成していたのではないでしょうか。

 次にその地勢を見てみれば、岩櫃城の西端に位置しています。しかもその場所は、下からは見えない位置に立地している。これもまた、要害のような感じも受けられる。また、細部地勢で、潜竜院跡の地形を見てみると、潜竜院跡は石垣で囲われていますが、その東側に明らかに削平されたと思われる広いところがあります。また、旧草津街道を挟んで南側も一段低いのですが平らなところが広がっていて、その南端には土塁と思われる箇所もあります。この平らなところに、潜竜斎の従者や渡巫女、山伏、雲水などが情報を持って帰ってきたときに泊まる建物(宿坊)、厩などいろいろな建造物があったのかと想像させます。また古谷地区から登る潜竜院跡に入る入り口の所は狭くなっていて、門があったのかもしれません。西側には、「西門」という地名の畑もあります。

 このあたりを全体的に見ると東端を郷原城で閉じ、西端を西門で閉じる。そして、下から古谷舘跡を仰ぎ見ても何も見えない。これを踏まえると、単なる修験寺ではなく一種の要害であったと思わせる遺構でもある。岩櫃城が難攻不落の要害であったと言うことが、郷原城跡と潜龍院跡からも読み取れるのではないでしょうか。

 真田氏が、謀略を得意としていたことなどを考えるとこういった施設が必ずあったでしょう。通説では、天狗の丸がその施設(忍者住居)といわれていますが案外潜竜院がその本拠だったのかもしれません。池波正太郎の「真田太平記」の最初の語り始めは、岩櫃城の「地露の間」から始まるのですが案外そこは、潜竜院だったりするのかもしれません。
 以上、私の私見を入れ潜竜院の解説をしてみました。