東地区は白井領との境界で、奥田川を境に東側(五丁田、箱島、岡崎)は元々白井領であった。西側(奥田、新巻)は、吾妻領である。吾妻が真田(武田)の手に落ちると、その勢力は東側に延びていく。最終的に、岡崎の柏原城まで真田が抑える。

 武田の勢力範囲は、最終的に西上野まで伸びてきた。しかし、武田が滅ぶと再び境界が沼尾川まで後退する。ここで、真田と後北条(白井の長尾)との攻防に明け暮れる。これは、天正18(1590年)の小田原征伐まで続くことになる。それ以降は、豊臣政権による「惣無事令」により勢力の範囲は確定するのである。そんな時代の流れを踏まえつつ城跡をたどれば、城跡踏査も楽しいものになるでしょう。