乱前の経緯と流れ

 長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、崩れた軍制を立て直すため新たな税を領内から集め出す。また、甲府の躑躅ヶ崎館を捨て韮崎に新しく築城を始める。これは、武田一門、穴山の不気味の献策だという。一応の完成は、天正9(1581)年9月のことであるという。また、資金不足により未完成のままというと言う説もある。躑躅ヶ崎館からの移住は、天正9(1581)年の末のことであるという。しかし、その翌年、天正10(1582)年には義弟木曾義昌が武田家を離反する。これをきっかけに織田・徳川連合軍の甲州征伐が始まり、同年3月には小山田信茂の岩殿城へ向かう途中、信茂の離反にあい天目山にてあっけなく武田家は滅んでします。宿敵武田を滅ぼした信長であるが、同年6月2日織田信長は本能寺の変に倒れてしまい、織田家の家督を継いでいた嫡男信忠まで死んでしまったのである。

 ここに至って、甲斐国では甲斐一国と信濃諏訪郡の領主河尻秀隆は一揆が起こり敗死、信濃の川中島の領主森長可は、本国美濃に退去。上野の滝川一益も織田氏との同盟関係を一方的に破り6万の兵力を持って上野に攻め入った。一益は緒戦で勝利するものの、神流川の戦いで大敗北を喫して本国伊勢へ退去した。一益も秀隆も領国へ入って、わずか3ヶ月目のことであった。これにより甲斐、信濃、上野国は空白状態となった。北条氏直はその余勢をかって信濃国へ進軍し、徳川家康は織田政権の承認のもと甲斐国に侵入し制圧する。上杉景勝は、善光寺平の海津城まで進出する。そこで徳川家康と、北条氏直、上杉景勝が対峙したのである。この甲斐信濃における上杉、北条、德川の三氏は、信濃に於いて、三つ巴の戦いを展開した。これを「天正壬午の乱」と呼び、当時は「甲斐一乱」と呼ばれていた。元々信濃の佐久地方は、関東管領上杉氏との関係が古くから深かった。つまり、関東と関係の近い佐久地方に北条氏直は、攻め入った。そして其の乱の収束は、北条と上杉の和睦で、上杉は北信四郡の支配を維持することで成立。北条と德川は、北条氏が上野、德川が北信四郡を除く信濃の支配、と言うことで決着となりました。

北条と德川、上杉の対立

 徳川家康は、安祥松平9代当主で德川家の始祖。元々は松平元康と名乗っていた。幼名は「竹千代」長じて、今川義元との偏諱を受けて元信、今川義元が織田信長に敗れると元康と名乗り、その後家康と名乗る。勅許された永禄九(1567)年十二月二十九日(1567年2月18日)三河守(従五位下)に際して德川に改名している。この德川の姓は、上野新田の得川に由来して以降新田源氏としている。以降、織田信長と同盟を結び三河の統一、遠江に攻め入り織田信長と共に天正十(1582)年三月七日甲斐の武田を滅ばした。この功により、駿河もその支配かに加える。同年、六月二十一日本能寺の変が起こる。織田信長が明智光秀より攻撃され、信長は本能寺にて敗死した。ここに至り、織田方武将が相次いで一揆などに敗れ、本国に帰国することとなって旧武田領が空白地帯となっていた。この領地の旧奪戦のことを古くは「甲斐一乱」、近世では「天正壬午の乱」と言われている。「信長死す」の報を受けて、甲斐では河尻秀隆が国人一揆に敗れ戦死する。信濃の盛長可は、本国美濃に退去、上野の滝川一益は北条氏直との戦いに敗れ本領の伊勢に逃げ帰った。これにより、旧武田領が国人領主のみとなり、空白地帯となっていた。徳川家康は、いち早く甲斐国に侵入して抑え、信州への進出をもくろんでいた。北条氏直は関東武田領を攻め取り、古来より関東と深い関わりのあった信州佐久へ進軍したのである。上杉景勝はこの隙を捉え、北信に進入して北信四郡を自分のものにしている。これに巻き込まれたのが、信州小県郡の国人達であった。その中に、非常に吾妻に関わりのある、真田昌幸が絡んでくるのである。

本能寺の変と天正壬午の乱

 天正十(1582)年五月、徳川家康は駿河拝領の礼のため降伏した穴山梅雪(信君)と共に安土城を訪れていた。六月二日、堺に滞在中「本能寺の変」が起こり織田信長死んでしまう。そのとき徳川家康は、非常に狼狽したという。本多忠勝、服部半蔵の進言を受け「神君伊賀越え」をして三河に無事到着する。家康はすぐに軍勢を整え、上洛しようとするがいち早く羽柴秀吉が明智光秀を討伐してしまう。やむなく家康は甲斐国に軍勢を進め、同国をいち早く手中に収める。そして、信濃国をにらんでいた。一方北条氏直は、六万もの大軍を起し、織田武将である滝川一益と戦い、大勝利を収めると上杉景勝か抑えた北信四郡をにらみ五万五千人を従え碓氷峠を越え上杉と対峙した。甲斐を抑えた徳川家康は、信濃に向かって進軍する。ここに、三つ巴の戦いとなる事態となる。

<参考文献>