奈良時代から戦国時代の軍装
一万石級の着到まで掲載致しました。この二百石の着到から一万石の着到は江戸時代のものですが、この着到人数の戦闘員比率を上げたものがほぼ戦国時代の着到になると思います。わが吾妻の武士は微禄の者が多く、一領一疋か傭兵という形で真田にしたがっていたような気がしていますが、中でも100貫文ぐらい真田に領地をもらっていた武士もいたので参考にはなると思います。また例えば、信州から岩櫃城へ城番として派遣されていた場合、本領とは別に現地で兵糧料所という形で兵役に対する給料を支給されていたようです。そこのほとんどは、寺社領や荘園(貴族や個人の土地)であったが収公という形で戦時のみ室町時代前期には行われていたようです。戦国時代に至っては戦が常態化され、その兵糧料所は返還されなくなっていった。真田安房守昌幸の時代、この吾妻が真田の領地として固定化されると真田により新たに寺社領が寄進されている。この領地の収奪が無くなるのは、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼす頃まで待たなければならない。また、太閤検地まで領地の確定はされていなかった。戦国時代各大名家や真田家においても検地がされていたが、それも一部で根本被官でない武士達は貫高も自己申告であった。あまりにも見え透いた嘘は許されなかったであろうが、文書に残る何貫文というのも多少のずれがあったのでは無いか。この項目とは別に、「小田原北条家」「真田家」の検地の記録をたどり解説するつもりでいるので楽しみにしていてもらいたい(いつになるか!)。現在資料収集中です。
ちなみに吾妻の兵力であるが、慶長の頃の検地帳がありそれを参考にすると当時の石高は2万石程度であったようである。それを見ると多く見積もっても500名程度である。その内戦闘兵力は、350~400名程度であったろう。参考までに。