矢澤薩摩守綱頼(頼綱)の事象

本日は矢澤綱頼(頼綱)について

 いまから3,40年前、NHK大河ドラマ「真田太平記」で頼綱を演じた俳優さんは加藤嘉さんである。昌幸の参謀役で、まさにいつまでも記憶に残る演技であった。今回はこの矢沢頼綱、近年では綱頼と言われている人物にスポットを当ててみたい。

 実在のこの人は、真田幸綱の弟と言われている。真田弾正忠幸隆(幸綱)は、江戸時代に書かれた「真田通記」に弟が3人いたと記されている。矢澤薩摩守頼綱(綱頼)、常田伊予守隆永、鎌原大和守幸貞の3人である。矢澤頼綱は信州小県の矢澤家へ、鎌原幸貞は上州三原の鎌原氏にそれぞれ養子に入ったと言われている。隆永に関しては、小県の常田に住んでいたので常田を名乗ったと「小県郡誌」に載っている。

 また、幸綱と弟3人は滋野の直系海野氏の流れと一般に言われてきたが、それを実証する資料はない。近年の研究では、この兄弟は、真田右馬助頼昌が父であるという説も唱えられてきた。そして、母が海野棟綱の娘または妹で、女系で海野とつながっていたのではないかとも言われている。矢澤系図では、矢澤右馬助頼昌の子というふうに載っているのであるが、この頼昌が真田姓でこの人が兄弟の父であった可能性があるという。

 また、幸綱と同時代の人物で信州の生島足島神社へ起請文を書いている海野衆の中に、真田右馬助綱吉という人物が見える。真田弾正忠幸隆(幸綱)が信州先方衆という立場で、国人としての位置づけを確立していく中で、海野衆という一揆の中の一小領主という立場で真田右馬助綱吉という人物が見えるのは興味深い。

 しかし、ここでは矢澤薩薩摩守頼綱についてであるから、この事は後日と言うことにしておきます。まずは、一般的な説から。

海野棟綱――真田幸隆―昌幸―信幸
     |
     ―矢沢綱頼―頼貞
     |
     ―常田出羽守―図書介

この説は、「姓氏大辞典」「群馬県史」「利根郡史」「沼田町史」などがこの説を取り、綱頼を昌幸の叔父と言うこととしている。
また海野正統29代で神川合戦で戦死した幸義については、棟綱の弟または子という説がありはっきりしない。この矢澤氏が、どのような系譜を持つのかはっきりしないが、綱頼は幼少の頃出家して鞍馬に上がったが、生来武を好み文に疎かったので還俗して跡を継ぎ、矢澤右馬助頼昌の養子となったとしている。

 矢澤系図によると、矢澤氏は清和源氏満仲の子頼親より生ずる光村を祖としているが、その詳細は不明である。

 この矢澤氏の居城矢澤城の位置が、神川を挟んで砥石城があること、海野氏との関係が深いという吉田堤が矢澤の城山の裾野の半分を取り巻くように有ることからもその関係を暗示している。この矢澤氏の跡を頼綱が継いだわけである。

 綱頼は、慶長2(1597)年5月7日、80歳で亡くなっている。法名剣光院殿采宗良居士。これから逆算すると、生まれは永正15(1518)年の頃となる。兄幸綱より5、6才年少と言うことになる。

それではこの綱頼の足跡を、年代別に見ていこう。

沼田城代以前

天文10(1541)年
 武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍が海野棟綱を攻め、これを破る。この時、海野棟綱、真田幸綱らは上州に逃れる。この時、祢津は諏訪の神平であったため、矢澤は諏訪神社に関わりがあったため許されている。この頃の矢澤家は、祢津家と並ぶほどの武将であったと思われる。

天正3(1575)年
 禅寺良泉寺の文書に残されている記述の中に、矢澤夫婦より堂の建立と寺領の寄進が行われている。前述した海野平の戦いで、海野、真田の両氏は敗れ上州に逃れたのであるが、この時海野と共に戦った祢津氏と矢澤氏は諏訪神社との関係で許されている。この文書から、矢澤氏は寺院の建立や領地の寄進も出来るような地位であったのが分かる。

天正8(1580)年
 武田勝頼から矢沢綱頼への書状があり、当時沼田は北条の支配下であった。利根川の対岸(倉内城の西側)に上杉の残存勢力があり、その駆除にめざましい功績があった。この頃真田昌幸が、武田の命で漁夫の利を経て倉内城(沼田城)を奪った。そのときにも綱頼は大きな功績があったのでその感状ではないか。またその文書の内容から、綱頼は武田に於いて甥の昌幸の寄騎として従っていて、岩櫃城代を武田勝頼から直接命を受けていたのではないか。武田のとなって後の沼田城代は、藤田能登守信吉であった。

 沼田を攻略してすぐの天正10(1582)3月、武田勝頼は天目山にて自害。主家を失ってしまったさなだ昌幸は、関東に入ってきた織田方の武将滝川一益に従うこととなる。沼田城は明け渡し、一益甥の滝川義太夫が城主となった。そのとき綱頼は、昌幸のもと岩櫃城代であった。しかし同年6月本能寺の変に於いて、織田信長が明智光秀に殺されてしまう。関東では、滝川一益が、神流川の戦いで後北条に敗れ本国伊勢弐逃げ帰ることとなり、再び沼田城は、真田の手に戻ることとなった。

沼田城代時代

 再び昌幸の物となった沼田(倉内)城は、矢沢綱頼が城代となった。しかし、上野平定を悲願としていた後北条氏は執拗に沼田を狙ってきたのである。最初は後北条に従っている。天正壬午の乱で、信濃に出陣した北条氏直に従っていたわけである。ここで、綱頼に北条氏政からの書状がある。

七月廿六日

「此度真田衣忠信、証人指上候 神妙被思召候 仍信州奥郡川東於井上之内千貫文遣之候・・・」

 矢澤文書である。北条より直接、綱頼が領地をあてがわれている。この頃北信は、上杉景勝奪われている。

十月初 沼須ヶ原の戦い

十月廿一日 長井、阿曽、鎌田の要害失う

十月廿八日 田北の原(沼田台)の戦い

上記を含め、真田方は後北条に4回に渡って敗れている。綱頼の勇猛果敢な計略によって、倉内城を何とか維持している状態となっている。七月には綱頼に北条から文書が発給されいるが、十月には後北条と戦っているのを見るとすでに徳川に寝返っていたのでしょう。こんな所にも、昌幸の当時の苦悩が見て取れるでしょう。

天正11(1583)年

六月十七日 昌幸より200貫文の加増を受ける。

天正12(1583)年

真田昌幸、上杉景勝に知行を安堵される。
この頃、徳川から上杉に鞍替えし上田城もほぼ完成する。

天正13(1585)年

七月十五日 上杉景勝より綱頼に、昌幸異心ないか念を押す書状有り。

八月二日 昌幸、信幸父子、徳川軍を上田にて撃退する。

九月五日 景勝より綱頼の子、頼幸に対して感状あり。
     この頃後北条型が沼田に攻め寄せたのか?

九月末 後北条軍三万与の軍勢を、奇策をもって千の軍勢で撃退する(滝棚の原)。

十一月三日 綱頼、上杉景勝から知行を賜る。
      景勝より直接知行をもらっていることから、この時綱頼は沼田に於いて昌幸      とは別に半独立勢力として景勝から認められていたのか?

天正14(1586)年

三月十四日 綱頼、頼幸父子、昌幸より千貫文の知行を拝領する。

四月 北条氏邦、氏照沼田侵攻の準備に利根、片品川両川に橋を架ける。
   前年の猛襲にもかかわらず倉内城を掌中に出来なかった屈辱を晴らすため、七万の   兵を持って倉内城攻めの準備をする。対する綱頼は、二千の兵で迎え撃つ。

五月十一日 北条氏邦綱頼に対して、投降を促す書状を出す。

五月廿五日 後北条軍沼田を攻撃、綱頼の計略により失敗する。この戦いが、後北条と真      田の最大の戦いになる。

天正15(1587)年

二月 太田金山の由良国繁と北条氏邦の重臣猪俣憲直が倉内城攻略を計画するが、失敗に   終わる。

 これを最後に、後北条氏の軍事による沼田攻略は終わりを告げる。

天正16(1588)年

五月五日 昌幸から綱頼の所領を、沼田から上小へ領地替えがあった。

 この領地替えの背景には、当時天下人を目指していた豊臣秀吉による北条氏政、氏直に対する臣従化の交渉が影響していたのではないか。北条方は、氏政叔父、氏規を京に上らせ、「臣従の代わりに沼田を北条方へ渡してほしい」と交渉していた。

天正17(1589)年

七月 豊臣秀吉に裁定により、「利根川を挟み東岸を北条に、西岸を真田に」と決定した   。この決定により綱頼は、倉内城を退去して岩櫃城にのいた。綱頼が岩櫃城代にな   る前は、昌幸嫡男信幸が岩櫃城代をしていた。

十月 秀吉の裁定で、真田領に成っていた名胡桃城を、沼田倉内城に入城していた猪俣憲   直が昌幸の偽書で、真田方名胡桃城代鈴木主水をだまし城代留守の隙をつき乗っ取   る。これが、豊臣秀吉の小田原征伐のきっかけになる。

天正18(1590)年

四月 昌幸と共に前田利家大将とする北陸軍として参陣し、綱頼も多くの戦功を上げたの   は言うまでも無い。

七月 北条氏政、豊臣秀吉に降伏する。

 これにより再び沼田は真田の領有する事となり、沼田城主は昌幸嫡男信幸が徳川家康の寄騎として着任する。これにより上田の昌幸、沼田の信幸という体制ができあがる。文禄2(1593)年九月のことである。これ以降、綱頼の名前の出る文書が確認できなくなる。おそらくこの頃、嫡男頼幸に家督を継がせたのではないか。これ以降、矢澤家は真田藩の筆頭家老として幕末までその地位を保つのである。

 以上の事象を確認すれば綱頼という武将が猛将というに止まらず、知将、謀将の面も兼ね備えた武将で有ったことが伺えます。

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