吾妻太郎伝説

岩櫃山

吾妻の地頭吾妻太郎大掾藤原行盛朝臣と千王丸

 この吾妻の地に残る、「吾妻太郎記」という古文書がある。これによると吾妻太郎行盛は、岩櫃城主で吾妻氏の第五代当主と言う事である。貞和五(1349)年行盛は、碓氷の里見義時親子に攻められ戦死した。

 その頃の関東の情勢を見ていく。貞和六(1350)年正月三日、高師冬関東執事として関東へ下向し南朝北畠親房と熾烈な戦いを行い、勝利している。当時、関東執事は弐人制を敷いていた。もう一方の関東執事は、上杉憲顕である。上杉憲顕は、従兄弟足利直義と非常に仲がよくガチガチの直義派である。伊豆、上野、越後の守護も兼任して直義から絶大な信頼を寄せられていた。観応の擾乱のはじめは、足利家執事の高一族と足利直義の権力争いである。この戦いは直義の勝利で収束するが、この戦の過程で上杉憲顕が高師冬との抗争で敗れ、越後に潜伏する期間が発生する。この戦いは、室町将軍足利尊氏と直義の戦いにも発展して、直義の南朝方への寝返りなどもあったが尊氏の勝利で五十年間にも及ぶ戦いは終止符を迎えます。

 当時、初代関東公方足利基氏は高氏と共にあったが元々は、幼少期には二代将軍義詮と基氏は常に直義と共にあった。この観応の擾乱はあまり知られていないが、初めは足利直義VS高師直で直義の勝利、次に足利尊氏VS足利直義の兄弟の戦いで足利尊氏の勝利となる。上杉憲顕は、高師冬との戦いに敗れ越後に潜伏するのである。高師直の戦死と、高一族の失脚により一旦戦乱が終息すると関東公方足利基氏は、関東執事に上杉憲顕の復帰を願う。憲顕は関東管領という役職に就き基氏を補佐する事となった。

 さて、話は吾妻に戻る。貞和五年から七年の歳月を費やし、千王丸改め斉藤憲行は、上杉憲顕の援助を受け里見親子からこの吾妻の地を取り戻す。ここから、里見氏の消息は碓氷郡里見から見られなくなるのだ。そして、安房国(千葉県)に突然現れる。その経緯は分からない。また、関東管領上杉憲顕の守護所が群馬県安中市の板鼻にあったのと憲行の舅、斉藤梢基の本拠秋閒にあったのもこの里見氏との抗争に関わってくるのかも知れない。

 ここで、里見氏について少し説明を加える。里見氏と山名氏は元々里見郷(高崎市)の出身である。そして新田義貞の一族でもあった。鎌倉幕府を滅ぼしたとき、義貞に付き従ったがそのときの大将はこの義詮(千寿王丸)である。足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつとき、早くからこの里見氏と山名氏は尊氏に従っていた。つまり義貞の一族であるが、義貞に従わず北朝側に与しました。と言う事は、南北朝に当てはめると味方同士と言う事になる。それらを踏まえると、この吾妻太郎伝説を、南北朝に関連付けず観応の擾乱に当てはめる方が流れがスッキリするように思われます。地方の伝承、伝説を見るとき、その狭い地域に特定せず周りの出来事(関東や全国の動き)、を確認しながら見るとまた面白い結果が見られるような気がします。

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