吾妻に残る中世武士のお墓
上の2基の墓石は、十王堂にある一番古いと思われる墓石です。以前何かの書物(郷土史)で、「小林家の墓所に横谷勘十郎の墓がある」と見た事があるので、恐らくこれがそうであろう。一つが横谷勘十郎、もう一つが横谷左近行重の墓だと嬉しいのだが、調査中である。
雨宮家には、2基の古い墓石がある。ご当主がおっしゃるには、400年以上前のものであるという。雨宮という字名は、信濃の古書に海野の配下にその名が見える。いずれにしても、古い家系の家なのは間違いないのではないか。
南家にある古い墓石である。これも、400年以上の歳月の経ったものではないか。ここの現在のご当主が大事にしているもののため、詳細は伏せさせて頂くが、そのお宅に伝わる口伝をご紹介したいと思います。
「南家はもとは、荒牧を名乗っていたという。当時真田昌幸の兵役がきつく、昌幸配下を退き帰農して南に移った。そこで、南を名乗りここに定着したという。」この南家は、ご当主の祖母に代に途絶え今は別姓であるがその口伝と共にこの墓を守っている。
検証
現在残されている古い墓石を紹介した。ただし、個人の墓のため詳細は伏せさせて頂く。各墓所共に由緒があり、それぞれ口伝も残されている。戦国時代から江戸時代初期荷かけての武士の墓は、概ねこのような形をしています。しかしまだ墓石に刻まれた文字等確認して居らず、また没年や戒名が刻まれていてもその記述のある系図などが無い以上調べようもありません。没年が分かれば、大体どの時代に活躍した方かわかるが詳細については知るすべもないです。新たな、古文書の発見などに期待するとしましょう。