鎌倉公方と関東管領・観応の擾乱
上の肖像画は、私が学生の頃「源頼朝」だと教わっていた。しかし、近年の研究で「足利直義」の肖像画という説が主流となっているため足利直義と言うことで載せてみました。
足利直義と高師直の対立
初代関東管領足利基氏は、二代将軍となる兄義詮が上洛すると鎌倉に下向する(最初は鎌倉公方を関東管領、後の関東管領は関東執事と言った)。この頃は関東執事は2人制を敷いていて、高播磨守師冬と上杉憲顕である。ここで尊氏・高師直派の師冬と直義派の憲顕の対立構造ができあがる。観応元年のことである。基氏は幼少の頃より、父尊氏より叔父直義と居ることが長く、養父として肉親の情を持っていたとて不思議なことではない。その側近でもあり、直義と同い年の憲顕を親しく思っても不思議では無いと思う。
ここでは、「観応の擾乱」を背景に関東への影響や吾妻への影響について考える。そもそも室町幕府の誕生時に、政権体制が二頭政治と成立していたのが問題となる。軍事指揮権と恩賞方を持っていた足利尊氏と足利家執事高師直、政所や問注所など政務に関する事を掌握していた足利直義の兄弟の対立、尊氏の庶子で二代将軍義詮の兄足利直冬(直義養子)の反乱などが相まって南北朝の動乱も絡み、複雑化していった。そもそもは、鎌倉時代にさかのぼる。尊氏の父貞氏は嫡男であった高義に家督を譲り、足利家の執事は高師重(師直父)であった。尊氏と直義は、元々庶子扱いされていたのである。この2人を長年支えていたのが尊氏、直義兄弟の母の実家の上杉氏であった。そして、高義の死によって尊氏が足利の家督を継いだことにより、足利氏の執事高氏と長年兄弟を支えてきた上杉氏との対立構造の根は早くから始まっていたのかも知れない。尊氏は家宰である高氏を政務の中心とすへ、上杉氏は脇に追いやられた。これに対して、直義は上杉氏に対して同情的であったようである。延元三年/歴応元年(1338)に上杉重能の出仕停止と上杉憲顕の関東執事罷免、高師冬の関東執事着任という事件が起こる。其の上上杉憲顕に対して尊氏、師直は重能の代わりに上洛するように命じてきた。これにより尊氏、師直と直義、憲顕との対立構造ができあがってしまう。
南北朝初期の動乱は楠木正成、北畠顕家、新田義貞の戦死、後醍醐帝の崩御などが有り一旦収束していく。この戦いに高師直の戦功は大きく、師直に親しい者達の狼藉が目立つようになる。興国2年/歴応4年(1338)に尊氏・師直派の塩治高貞が直義派の桃井直常・山名時氏に討たれ、翌興国3年/康永元年(1342)土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により、直義の裁定により斬首されるなどの事件が起こる。尊氏・師直は功のあったもの達に対して、恩賞として新たな領地を与えなければならなかった。そして、その恩賞の土地が問題であった。その多くの領地が、寺社領であったり荘園であったりしたからである。直義は政所、問注所など政務に関わる「その中の秩序」を取り仕切る立ち位置にいた。当然、尊氏から恩賞で新たな領地をもらってもそれが、寺社領等である場合その所有権の有無を裁定しなければならない。直義の立場とすれば、当然寺社領であればその土地を寺社に返す裁定を下すしかない。この事が、後々決定的な対立構造となっていく。
そんな頃、南朝の楠木正行が兵を挙げ京都奪還を目指す。正平2年/貞和3年(1341)のことである。まず同年9月直義派の細川顕氏、畠山国清出兵するも敗れる。続いて11月、山名時氏も敗れてしまう。翌正平3年/貞和4年(1348)1月5日、高師直・師泰兄弟は四條畷の戦いで正行を討ち取り、さらに南朝の本拠吉野を陥落させ南朝後村上天皇を吉野の奥、賀名生(奈良県五條市)まで追い払う。この戦勝により、師直の力が増し直義との対立にさらに担車がかかった。この頃の尊氏は、後醍醐天皇に背いたことを悔やみ仏教に帰依して隠居状態であった。この事も、さらに対立を深める原因にもなっていた。
そしてついに貞和5年(1349)(南朝正平4年)、直義がついに動く。直義は自身の側近上杉重能、畠山直宗、禅僧大同妙喆などの進言を入れ師直を糾弾する。尊氏に対して師直の執事職罷免を迫り、ついに成し遂げる。
ここで、高師直が反撃に転じる。同年8月12日、師直が弟師泰と共に河内から軍勢を率いて上洛する。意表を突かれた直義は、将軍御所に逃げ込む。師直と師泰はかまわず将軍御所を取り囲み、兵糧攻めに出る。これは、直義派の上杉重能、畠山直宗の配流と直義の隠居、出家により師直は囲みを解いた。幕府の政務担当者がいなくなったため、鎌倉を治めていた嫡男義詮を京に呼び寄せて政務に当たらせることとなる。鎌倉へは、二男基氏を下向させこれより後の鎌倉体制が確立していくこととなる。
鎌倉体制は関東管領(鎌倉公方)基氏と関東執事上杉憲顕という体制であった。憲顕は直義派であった為、師直はこの体制を危惧し関東執事を強引に2人制にし、従兄弟の高師泰をもう一人の関東執事として下向させる。これより、直義派の上杉憲顕と高一族の高師泰との確執が生まれるのである。これが貞和5年の出来事である、吾妻太郎行盛と里見義時と嫡子五郎左衛門尉との戦に関係してくるのでは無いかと、管理者は考えている。
観応の擾乱勃発
同年11月義詮入京。12月8日直義は出家して恵源と号した。ここで一旦収束すると思われたが、事件が発生する。早くもその月内に上杉重能と畠山直宗が配流先で、師直配下の越前国守護代八木光勝が2人を暗殺してしまう。これにより両派の緊張は、一気に高まった。
尊氏の庶長子直冬は直義の養子に入っていたが義詮、基氏兄弟に対して自身の境遇と比較して不満を持っていた。長門探題として備後にいた直冬は、この事件を知り養父救援のため中国地方の兵を集めて上洛を試みる。しかし、尊氏は師直に討伐を命じたため、敗れて九州に敗走してしまう(同年9月)。今度は九州で地盤を固める。尊氏は出家と上洛を命じるも、従わなかったため再度討伐令を出す。直冬は太宰府の少弐頼尚と組み、さらに南朝方とも協調路線を取って対抗したのである。
翌正平5年/貞和6年(1350)、北朝は改元して「観応」とする。これより以降の動乱を、「観応の擾乱」と呼ぶのである。
10月28日、直冬の勢力拡大に危機感を持った尊氏は、自ら追討の兵を挙げ備前まで進んだ。尊氏が京を離れた隙を突いて、直義は京を出奔して大和に入る。11月20日畠山国清に河内石川城迎えられる。さらに、直義与党の国清、桃井直常、石党頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らと共に決起する。関東では上杉憲顕と高師冬たがいにに争い、師冬が憲顕を破り関東執事を独占することになる。九州の直冬追討どころでは無くなった尊氏は同月、備後から群を返し高兄弟と合流して北朝光厳上皇に直義追討の院示を取り付けた。直義は南朝方の降り尊氏、高兄弟に対抗したのだ。
正平6年/観応2年(1351)直義は京に進撃して、義詮は父の元備前に落ち延びた。2月尊氏軍は、京を目指して進軍するが播磨光明寺合戦と2月17日の摂津打出浜合戦相次いで直義軍に敗れ、直義優勢は動かなかった。そこで、尊氏は和睦を図った。同年2月20日和議は成立するが、高兄弟の誅殺は暗黙の合意であった。2月26日、高兄弟は待ち受けていた上杉能憲(憲顕の息子で、上杉重能の養子)の軍勢により一族もろとも誅殺されてします。直義は義詮の補佐として、政務に復帰。直冬は九州探題となる。
高兄弟がいなくなりいったんは平穏を取り戻すが、尊氏の政治姿勢と直義の政治姿勢は相容れないものであった。尊氏は戦に対して恩賞(領地)をどんどん与え、直義は旧秩序を守る政治姿勢で、十分な恩賞を与えられなかった。恩賞(領地)は無理に与えれば寺社領、貴族の荘園などの横領につながる。直義はそのような、寺社領や荘園を守る立場の政治姿勢を貫いていたのである。土地というのは新たに開発しなければ増えないもので、戦国時代においても空手形(約束のみの恩賞)が多かったのである。尊氏に従えば恩賞をもらえ、直義に従えば恩賞も思うようにもらえないとなればおのずと尊氏に付く武将も増えてくる。この政治姿勢の違いから兄弟の対立が生まれ、だんだん尊氏に付く武将の方が増えていくのは必然であった。また、尊氏が強引に直義派の懐柔も行っていたようである。
そんな中、3月30日直義派の斉藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の強硬派、桃井直常が襲撃される事件が発生している。これを受けて尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝方へ裏切ったこととし、7月28日尊氏は近江に、義詮は播磨に出兵し、京の直義を挟み撃ちにすることにした。京の都は、攻めやすく守りがたい地勢であったので、戦況が不利となったら京を離れ攻め直すと言うことがしばしば行われていた。戦況不利を悟った直義は、南朝方へ基準を示す一方桃井、斯波、山名を始め自派の武将を伴って北陸、信濃を経て鎌倉へ逃亡した。京から直義を排除した尊氏であったが、直義は関東、北陸、山陰を抑え、西国では養子の直冬が勢力を伸ばしていた。
正平一統
直義が南朝方を利用するのを阻むため、尊氏は佐々木道誉の進言を入れ南朝へ和議を申し入れる。北朝方にある三種の神器を南朝方に渡し、政権を返上することにより観応2年(1351)10月24日尊氏は南朝に降伏し直義・直冬追討の綸旨を得た。11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王の廃嫡が行われた。具体的な交渉は、義詮がになったが北朝方に任じられた天台座主や寺社の要職の更迭、建武の新政で進めた政策に戻すなどその施策は紛糾した。そして、元号も観応2年が廃されて正平6年に統一された。これを正平一統と呼ぶ。
直義の死と擾乱の決着
尊氏は直義追討の兵を挙げ12月薩垂峠の戦い、相模国早川尻の戦いなど勝利を収め、翌正平7年(1352)1月直義を鎌倉に追い込んで降伏させた。その後鎌倉浄妙寺に幽閉された直義は2月26日急死した。また、一説によると毒殺されたとも言われている。直義の死を以て、一応は「観応の擾乱」は終息を見る。
擾乱収束後
南朝勢力北畠親房による足利尊氏の征夷大将軍の解任、新田義興・脇屋義治・北条時行らが宗良親王を奉じ鎌倉を占拠する。力を得た南朝勢力は、ここで一揆に足利勢力の一掃を試みたのである。北畠親房の指揮下楠木正義、千種顕経、北畠顕能、山名時行などが京都に進軍。足利義詮を駆逐して、入京する。南朝後村上天皇は、山城国男山八幡(京都府八幡市石清水八幡宮)まで進出してきた。対抗する足利義詮は近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏、直義派であった山名時氏、斯波高経らを率い京都を奪還。そして後村上天皇の籠もる男山八幡を囲み、5月11日後村上天皇は吉野目指して落ちていった。これによりまた足利尊氏は、北朝を再擁立するのである。近畿や関東でこのような動乱があった頃、直義の死を持って勢力が無くなったと思われていた直冬は長門と石見で勢力を保持していた。正平9年/文和3年5月(1354)旧直義派の武将、桃井直常・山名時氏・大内弘世らが直冬と共に石見から上京を開始した。正平10年/文和4年(1355)1月には南朝と組んで京都を掌握している。しかし新南の戦いで、佐々木道誉・赤松則祐を指揮下に持つ義詮が直冬を破り、さらに東寺に籠もる直冬を尊氏も加わり、撃破されて敗走した。これにより、武家権力は将軍尊氏と嫡子義詮に一本化され室町幕府の権力は確立されていくこととなる。
ここで、直義の養子直冬について。直冬は足利尊氏の庶子である。義詮と基氏と比べると、父である尊氏に愛されなかったこと言うことになるでしょう。父尊氏と養父直義の狭間で、実の父に敵対し続けたのはなぜでしょう。嫡流の義詮と基氏、庶流の直冬を比べると直冬が年長である。年長であるが庶流の悲しさ、そんな思いを抱かせる出来事であったと思います。
中央(京)と関東の出来事が、いかに一地方に影響していたのか。そんなことを思いながら、調べていくことが郷土史の醍醐味のような気がします。これから上杉憲顕、新田一族、碓氷里見氏、房総里見氏など順次調べていき郷土史にどんな影響を及ぼしたのか考えるのは、わくわくしてきます。これから、自説を交えて紹介していきたいと思います。