吾妻鏡の三原野の巻狩

建久四(1193)年3月25日、武蔵国入間野で追鳥狩が行われた。藤沢治郎清親が百発百中の腕前を見せて雉五羽を捕獲し、まなづる二十五羽を捕獲するという名誉を挙げた。将軍家(頼朝)は御関心の余り、お乗りになっていた一郎という御馬を自らお与えになった。

建久四年4月2日、那須野を御覧になった。昨夜の夜半以降、勢子を入れた。小山左衛門尉朝政、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家がそれぞれ頼朝に千人の勢子を献上した。那須太郎光助は、食事を献上したという。

建久四年4月28日、将軍家が上野国から帰られた。足利式部太夫義国の子息、新田大炊助義重の新田舘で遊覧されており、その舘からまっすぐ帰られた。

 上の三つの記事は、吾妻鏡建久四年の記述である。この記述を見ると、建久4年3月25日入間野で鳥狩を行い、4月2日に那須野で巻狩を行った。4月28日に頼朝は、鎌倉に帰還している。つまり、同年代に記述された「吾妻鏡」には三原野の巻狩についての記述は無い。曾我兄弟の仇討ちが書かれた、「曾我物語」には三原野の巻狩のことが記されているが、この成立年は鎌倉時代末期から室町時代の初めと言われている。建久4年から優に100年以上の歳月が過ぎた後の、記述である。江戸時代吾妻について書かれた書物も、この「曾我物語」をもとにしたのでは無いか。中之条町六合地区赤岩に残る、湯本氏横谷氏の由緒書も、伝承と「曾我物語」を参考にしたものであろう。源頼朝がこの吾妻の地に来たのか、との問に答えるのはやはり「分からない」というのが正直なところです。しかし、伝承が残ると言うことは、将軍家が来たかは別にして、鎌倉の軍勢がこの地に来たと言うことは言えるのでは無いでしょうか。

 ここで、江戸時代に色々な伝承を書き記した「吾妻郡略記」の記事について紹介します。信州街道の峠、万騎峠は別名卍峠と言います。この由来が、郡略記の中にあります。「頼朝公この峠を越えるとき、その行列に狸、狢が人間に化けて紛れ込んだので、おつきの人達は獣と区別するため額に墨で卍を書き、この峠を越えたという。峠を越えた後、多くのおつきの人達が川で顔を洗ったため、川の水がぬるくなったので「温川」というようになったという。そして、顔を洗って素顔のなったのでこの地を「須賀尾」というようになった。」どうですか、面白い伝説では無いですか。このような、確証は無いが面白い伝説を言い伝えていくのも、大切なことでは無いでしょうか。

 この吾妻鏡の記述で、建久4年4月28日の項「足利式部太夫義国の子新田大炊助義重」というのが見えます。新田系図では、義国の子義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗ったと読み取れます。しかし、「吾妻鏡」の記述を見れば義重と義康の父、義国が足利をすでに名乗っていたととれます。つまり足利惣領家を義康が継ぎ、義重は分家して新田を名乗ったととれます。「太平記」の記述の中の「新田義貞は足利の家臣なり」、というのもうなずけることになる。「新田義貞が挙兵して鎌倉幕府を滅ぼした」と言われているが、実際の旗頭は足利高氏が嫡男千寿王が旗頭でした。新田義貞が挙兵したが鎌倉に攻め上るだけの兵が集まらず、足利千寿王(義詮)を旗頭に祭り上げることで初めて、大軍勢が集結したとも言われている。そして、新田一族の山名と里見は足利高氏が後醍醐天皇に対して叛旗を起こしたとき、高氏に従っている。これは、戦国時代まで山名氏と里見氏が残ったことでもこの時の両氏の動向が分かると思います。最後に、応仁の乱の山名宗全(持豊)は、まだ上野国八幡荘(群馬県高崎市)を飛び地として持っていたようである。それが戦乱が進むにつれ、こう言う飛び地は近くの国人達に横領されていくことになる。それと、新田の本宗家として扱われていた、太田金山城主岩松家純の家老横瀬氏は義貞-義宗と繋がる新田の本流であるという事も言われているという。


現代語訳吾妻鏡〈6〉富士の巻狩

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