碓氷里見氏の成立と武衛(頼朝)との関係

貞和五年吾妻太郎行盛は、碓氷の里見氏に敗れ戦死した。この室町時代初期の碓氷里見氏の攻防が、吾妻の伝承の中にある。ここで碓氷里見氏の事象を調べることにより、吾妻の歴史をひもとくきっかけになればと思います。まず最初は、碓氷里見氏の鎌倉初期の頃のことから調べ始めました。

 尊卑分脈」などの系図などによると、源義俊初めて里見郷を拠点とした(里見氏祖?)。義俊は長子であるが庶子であったため、里見家を起こした。
里見義成は文歴元年(1234)七十八歳死亡、保元元年(1156)生まれ。
義成初見
治承四年(1180)十二月二十二日、里見義成が平氏を偽って鎌倉に下り頼朝に仕えた。
「二十二日庚子新田大炊助上西(義重)お召しにより参上。しかしすぐには鎌倉に入ってはならないと命じられたので、山之内のあたりに留まった。これは軍士など集めて上野国寺尾舘に引きこもるという噂があったので、藤九郎(安達)盛長にお命じお呼びになったものである。上西は言った。「心中では決して逆らっては居ません。世の中で戦闘が起こっている時、軽々に城を出るべきではないと家人達がいさめるので、ためらっている所、今、参上せよとの命を受け、大変恐縮しております。」この弁明は、盛長の取りなしにより聞き届けられた。また、上西の孫の里見太郎義成が京都よりはせ参じた。日頃から平氏に属していたものの、源氏のご繁栄を聞き及び参上したと申した。義成は言う「石橋合戦の後、平家方が計略のための会議を開き、源氏一類のものを誅殺するよう、内々準備を行っていたので、関東に下って武衛(源頼朝)を襲うと、偽って申し上げた所、平家は喜んで許可を与えたのでやってきました。駿河国千本松原で、長井斉藤別当実盛や瀬下四郎広親達に会うと、彼らが言うに『東国の勇士は皆(頼朝に)従っており、頼朝は数万騎を率いて鎌倉に到着された。しかし我々二人、平家との約束があるので上洛するのだ。』この事を聞いて、いよいよ鞭をあげて駆けつけました。」という。
(吾妻鏡)
新田本宗家は、藤原忠通家との関係が深くそのため後白河院との関係もあった。この藤原忠通家との関係は新田荘、八幡荘の開発領主として台頭する時藤原忠通家の荘園として、自身は荘官として地位を確保していたためと思われる。この新田氏と里見氏の鎌倉に対する初動の違いが、武衛(頼朝)の信頼度の違いに現れたのではないか。家格は官途が新田本家の方が上だが里見義成は、「幕下将軍家寵子」という形で頼朝の信頼を勝ち得たのでしょう。

<参考文献>

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