曾我物語

 曾我物語は、鎌倉時代中、後期時代に成立したと考えられている軍記物です。鎌倉時代に源頼朝が「富士の巻狩り」の時に、曾我兄弟の仇討ちを題材にしたもので、吾妻地方の伝説にある「三原野の巻狩り」が記述されている事から、その前文を紹介していこうと思います。この発展系の成立は室町時代になってからですので、二次資料と言うことになりますが参考までに全文をだんだん掲載していきたいと思っています。参考文献は、国民文庫「曾我物語」(明治44年)と菊池寛著の「曾我物語」です。

曾我物語

曾我物語巻第一

神代(かみよ)の始(はじ)まりの事(事)

 夫(そ)れ、日域(じちゐき)秋津島(あきつしま)は、是(これ)、国常立尊(くにとこたちのみこと)より事(こと)起(お)こり、■土■(うひぢに)・沙土■(すひぢに)、男神(なんしん)・女神(によしん)を始(はじ)めとして、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)まで、以上天神七代にて渡(わた)らせ給(たま)ひき。又(また)、天照大神(あまてるおほんかみ)より、彦波瀲武■■草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみこと)まで、以上地神五代にて、多(おほ)くの星霜(せいさう)を送(おく)り給(たま)ふ。然(しか)るに、神武(じんむ)天皇(てんわう)と申(まう)し奉(たてまつ)るは、葺不合(ふきあわせず)の御子(みこ)にて、一天(いつてん)の主(あるじ)、百皇(はくわう)にも始(はじ)めとして、天下(てんが)を治(をさ)め給(たま)ひしより此(こ)の方(かた)、国土(こくど)を傾(かたぶ)け、万民(ばんみん)の恐(おそ)るる謀(はかりこと)、文武(ぶんぶ)の二道(にだう)にしくは無(な)し。好文(かうぶん)の族(やから)を寵愛(ちようあい)せられずは、誰(たれ)か万機(ばんき)の政(まつりごと)を助(たす)けむ。又は、勇敢(ようかん)の輩(ともがら)を抽賞(ちうしやう)せられずは、如何(いか)でか四海(しかい)の乱(みだ)れを鎮(しづ)めん。かるが故(ゆゑ)に、唐(たう)の大宗文(たいそうぶん)皇帝(くわうてい)は、瘡(きず)をすひて、戦士(せんし)を賞(しやう)し、漢(かん)の高祖(かうそ)は、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(たい)して、諸侯(しよこう)を制(せい)し給(たま)ひき。然(しか)る間(あひだ)、本朝(ほんてう)にも、中頃(なかごろ)より、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)を定(さだ)め置(お)かれしより此(こ)の方(かた)、武略(ぶりやく)を振(ふ)るひ、朝家(てうか)を守護(しゆご)し、互(たが)ひに名将(めいしやう)の名(な)を現(あらは)し、諸国(しよこく)の狼藉(らうぜき)を鎮(しづ)め、既(すで)に四百余回(よくわい)の年月(としつき)を送(おく)り畢(をは)んぬ。是(これ)清和(せいわ)の後胤(こうゐん)、又(また)桓武(くわんむ)の累代(るいたい)なり。然(しか)りと雖(いへど)も、皇氏(わうじ)を出(い)でて、人臣(じんしん)に連(つら)なり、鏃(やじり)をかみ、鋒先(ほこさき)を争(あらそ)ふ志(こころざし)、とりどり也(なり)。
 〔惟喬(これたか)・惟仁(これひと)の位(くらゐ)争(あらそ)ひの事(こと)〕 抑(そもそも)、源氏(げんじ)と言(い)つぱ、桓武天皇(くわんむてんわう)より四代の皇子(わうじ)を田村(たむら)の御門(みかど)と申(まう)しけり。皇子(わうじ)二人御座(おは)します。第一(だいいち)、惟喬(これたか)の親王(しんわう)と申(まう)す。帝(みかど)殊(こと)に御志(おんこころざし)思(おぼ)し召(め)して、東宮(とうぐう)にも立(た)て、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)らばやと思(おぼ)し召(め)されける。第二(だいに)の御子(みこ)をば、惟仁(これひと)の親王(しんわう)と申(まう)しき。未(いま)だ幼(いとけな)く御座(おは)します。御母(はは)は染殿(そめどの)の関白(くわんばく)忠仁公(ちゆうじんこう)の御娘(むすめ)也(なり)ければ、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)共(ども)まで愛(あい)し奉(たてまつ)る。是(これ)も又(また)、黙(もだ)し難(がた)くぞ思(おぼ)し召(め)されける。彼(かれ)は継体(けいてい)あひふんの器量(きりやう)也(なり)。是(これ)は、万機(ばんき)ふいの臣相(しんさう)なり。是(これ)を背(そむ)きて、宝祚(ほうそ)を授(さづ)くる物(もの)ならば、用捨(ようしや)私(わたくし)有(あ)りて、臣下(しんか)唇(くちびる)を翻(ひるがへ)すに依(よ)りて、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子(みこ)達(たち)を引(ひ)き具(ぐ)し奉(たてまつ)り、右近の馬場(ばば)へ行幸(ぎやうがう)成(な)る。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、花の袂(たもと)を重(かさ)ね、玉(たま)の裙(もすそ)を連(つら)ね、右近(うこん)の馬場(ばば)、供奉(ぐぶ)せらる。此(こ)の事(こと)、希代(きたい)の勝事(しようし)、天下(てんが)の不思議(ふしぎ)とぞ見(み)えし。御子(みこ)達(たち)P051も、東宮(とうぐう)の浮沈(ふちん)、是(これ)に有(あ)りと見(み)えし。然(さ)れば、様々(さまざま)の御(おん)祈(いの)り共(ども)有(あ)りける。惟喬(これたか)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、柿本(かきのもと)の紀(き)僧正(そうじやう)真済(しんぜい)とて、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)の御弟子(でし)なり。惟仁(これひと)の親王(しんわう)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、我(わ)が山の住侶(ぢゆうりよ)に、恵亮(ゑりやう)和尚(くわしやう)とて、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(でし)にて、めでたき上人(しやうにん)にてぞ渡(わた)らせ給(たま)ひける。西塔(さいたふ)の平等坊(びやうどうばう)にて、大威徳(だいゐとく)の法(ほふ)をぞ行(おこな)ひける。既(すで)に競馬(けいば)は、十番(ばん)の際(きは)に定(さだ)められしに、惟喬(これたか)の御方(かた)に、続(つづ)けて四番(ばん)勝(か)ち給(たま)ひけり。惟仁(これひと)の御方(かた)へ心(こころ)を寄(よ)せ奉(たてまつ)る人々(ひとびと)は、汗(あせ)を握(にぎ)り、心(こころ)を砕(くだ)きて、祈念(きねん)せられける。惟仁(これひと)の御方(かた)へは、右近(うこん)の馬場(ばば)より、天台山(てんだいさん)平等坊(びやうどうばう)の壇(だん)上へ、御(おん)使(つか)ひ馳(は)せ重(かさ)なる事(こと)、只(ただ)櫛(くし)の歯(は)を引(ひ)くが如(ごと)し。「既(すで)に御方(みかた)こそ、四番続(つづ)けて負(ま)けぬれ」と申(まう)しければ、恵亮(ゑりやう)、心(こころ)憂(う)く思(おも)はれて、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)を逆様(さかさま)に掛(か)け奉(たてまつ)り、三尺(さんじやく)の土牛(とぎう)を取(と)りて、北(きた)向(む)きに立(た)て、行(おこな)はれけるに、土牛(とぎう)躍(をど)りて、西(にし)向(む)きになれば、南(みなみ)に取(と)りて押(お)し向(む)け、東向(む)きになれば、西(にし)に取(と)りて押(お)し直(なほ)し、肝胆(かんたん)を砕(くだ)きて揉(も)まれしが、猶(なほ)居(ゐ)兼(か)ねて、独鈷(とつこ)を以て、自(みづか)ら脳(なづき)をつき砕(くだ)きて、脳(なう)を取(と)り、罌粟(けし)に混(ま)ぜ、炉(ろ)に打(う)ちくべ、黒煙(くろけぶり)を立(た)て、一揉(も)み揉(も)み給(たま)ひければ、土牛(とぎう)たけりて、声(こゑ)を上(あ)げ、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)、利剣(りけん)を捧(ささ)げて、振(ふ)り給(たま)ひければ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)してげりと、御心(おんこころ)述(の)べ給(たま)ふ所(ところ)に、「御方(かた)こそ、六番(ろくばん)続(つづ)けて勝(か)ち給(たま)ひ候(さうら)へ」と、御(おん)使(つか)ひ走(はし)り付(つ)きければ、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、急(いそ)ぎ壇(だん)をぞ下(お)りられける。有(あ)り難(がた)しP052瑞相(ずいさう)なり。然(さ)れば、惟人(これひと)の親王(しんわう)、御位(おんくらゐ)に定(さだ)まり、東宮(とうぐう)に立(た)たせ給(たま)ひけり。然(しか)るに、延暦寺(えんりやくじ)の大衆(だいしゆ)の僉議(せんぎ)にも、「恵亮(ゑりやう)脳(なづき)を砕(くだ)きしかば、次弟(じてい)位(くらゐ)に即(つ)き、そんゑ剣(けん)を振(ふ)り給(たま)へば、菅丞(かんしやう)霊(れい)をたれ給(たま)ふ」とぞ申(まう)しける。是(これ)に依(よ)りて、惟喬(これたか)の御持僧(ぢそう)真済(しんぜい)僧正(そうじやう)は、思(おも)ひ死(じ)ににぞ失(う)せ給(たま)ひたる。御子(こ)も、都(みやこ)へ御(おん)帰(かへ)り無(な)くして、比叡山(ひえいさん)の麓(ふもと)小野(をの)と言(い)ふ所(ところ)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひける。頃(ころ)は神無月(かんなづき)末(すゑ)つ方(かた)、雪(ゆき)げの空(そら)の嵐(あらし)にさえ、しぐるる雲(くも)の絶間(たえま)無(な)く、都(みやこ)に行(ゆ)き交(か)ふ人も稀(まれ)なりけり。況(いはん)や小野(をの)の御(おん)住(す)まひ、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あは)れ也(なり)。此処(ここ)に、在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)在原(ありはら)の業平(なりひら)、昔(むかし)の御(おん)契(ちぎ)り浅(あさ)からざりし人也(なり)ければ、紛々(ふんぷん)たる雪(ゆき)を踏(ふ)み分(わ)け、泣(な)く泣(な)く御跡(あと)を尋(たづ)ね参(まゐ)りて、見(み)参(まゐ)らすれば、孟冬(まうとう)移(うつ)り来(き)たりて、紅葉(こうえふ)嵐(あらし)に絶(た)え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折(をり)に任(まか)せ、人目(ひとめ)も草(くさ)も枯(か)れぬれば、山里(ざと)いとど寂(さび)しきに、皆(みな)白妙(しろたえ)の庭(には)の面(おも)、跡(あと)踏(ふ)み付(つ)くる人も無(な)し。御子(こ)は、端(はし)近(ちか)く出(い)でさせ給(たま)ひて、南殿(なんでん)の御格子(かうし)三間(げん)ばかり上(あ)げて、四方(よも)の山(やま)を御覧(ごらん)じ、珍(めづら)しげにや、「春(はる)は青(あを)く、夏(なつ)は茂(しげ)り、秋は染(そ)め、冬は落(お)つる」と言(い)ふ、昭明太子(せうめいたいし)の、思(おぼ)し召(め)し連(つら)ね、「香爐峰(かうろほう)の雪(ゆき)をば、簾(すだれ)を掲(かか)げて見(み)るらん」と、御口(くち)ずさみ給(たま)ひけり。中将(ちゆうじやう)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)奉(たてまつ)るに、只(ただ)夢(ゆめ)の心地(ここち)せられける。近(ちか)く参(まゐ)りて、昔(むかし)今(いま)の事(こと)共(ども)申(まう)し承(うけたまは)るに付(つ)けても、御衣(ぎよい)の御袂(たもと)、絞(しぼ)りも敢(あ)へさせ給(たま)はず、鳥飼(とりかひ)の院(ゐん)の御遊幸(いうがう)、交野(かたの)の雪(ゆき)の御鷹狩(たかがり)まで、思(おぼ)し召(め)し出(い)でP053られて、中将(ちゆうじやう)かくぞ申(まう)されける。忘(わす)れては夢(ゆめ)かとぞ思(おも)ふ思(おも)ひきや雪(ゆき)踏(ふ)み分(わ)けて君(きみ)を見(み)んとは W001御子(こ)も取(と)り敢(あ)へさせ給(たま)はで、返(かへ)り、夢(ゆめ)かとも何(なに)か思(おも)はん世(よ)の中を背(そむ)かざりけん事(こと)ぞ悔(くや)しきかくて、貞観(ぢやうぐわん)四年(しねん)に、御出家(しゆつけ)渡(わた)らせ給(たま)ひしかば、小野宮(をののみや)とも申(まう)しけり。又は、四品(しほん)宮内卿宮(くないきやうのみや)とも申(まう)しけり。文徳(もんどく)天皇(てんわう)、御年(とし)三十にて、崩御(ほうぎよ)なりしかば、第二(だいに)の皇子(わうじ)、御年(とし)九歳(さい)にて、御(おん)譲(ゆづ)りを受(う)け給(たま)ふ。清和(せいわ)天皇(てんわう)の御事(おんこと)、是(これ)なる。後(のち)には、丹波(たんば)の国(くに)水尾(みづのを)の里(さと)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひければ、水尾帝(みづのをのてい)とぞ申(まう)しける。皇子(わうじ)数多(あまた)御座(おは)します。第一(だいいち)を陽成院(やうぜいゐん)、第二(だいに)を貞固(ていこ)親王(しんわう)、第三をていけい親王(しんわう)、第四を貞保(ていほう)親王(しんわう)、此(こ)の皇子(わうじ)は、御琵琶(びは)の上手(じやうず)にて御座(おは)します。桂(かつら)の新王(しんわう)とも申(まう)しけり。鏨(こころ)を懸(か)けらる女(をんな)は、月の光(ひかり)を待(ま)ち兼(か)ね、蛍(ほたる)を袂(たもと)に包(つつ)む、此(こ)の御子(こ)の御事(おんこと)なり。今(いま)のしけのこの先祖(せんぞ)なり。第五(だいご)を貞平(ていへい)親王(しんわう)、第六を貞純(ていじゆん)親王(しんわう)とぞ申(まう)しける。六孫王(ろくそんわう)、是(これ)なり。然(さ)れば、彼(か)の親王(しんわう)の嫡子(ちやくし)、多田(ただ)の新発意(しんぼつ)満仲(まんぢゆう)、其(そ)の子摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)、次男(じなん)大和守(やまとのかみ)頼親(らいしん)、三男(さんなん)多田(ただ)の法眼(ほふげん)とて、山法師(やまぼふし)にて、三塔(さんたふ)第一(だいいち)の悪僧(あくそう)なり。四郎(しらう)河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)、其(そ)の子伊予(いよ)入道頼義(らいぎ)、其(そ)の嫡子(ちやくし)八幡(はちまん)太郎(たらう)義家(よしいへ)、其(そ)の子但馬守(たぢまのかみ)義親(よしちか)、次男(じなん)河内(かはち)の判官(はんぐわん)義忠(よしただ)、三男(さんなん)式部(しきぶ)の太夫義国(よしくに)、四男(なん)六条(ろくでう)の判官(はんぐわん)為義(ためよし)、其(そ)の子(こ)左馬(さま)の頭義朝(よしとも)、其(そ)の嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐう)の大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)、三男(さんなん)右近衛(うこんゑ)の大将(たいしやう)頼朝(よりとも)の上(うへ)越(こ)す源氏(げんじ)ぞ無(な)かりける。此(こ)の六孫王(ろくそんわう)より此(こ)の方(かた)、皇氏(わうじ)を出(い)でて、始(はじ)めて源(みなもと)の姓(しやう)を賜(たま)はり、正体(しやうたい)をさりて、長(なが)く人臣(じんしん)に連(つら)なり給(たま)ひて後(のち)、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)より、下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)に至(いた)るまで七代は、皆(みな)諸国(しよこく)の竹符(ちくふ)に名(な)を掛(か)け、芸(げい)を将軍(しやうぐん)の弓馬(きゆうば)に施(ほどこ)し、家(いへ)にあらずして、四海(しかい)を守(まも)りしに、白波(はくは)猶(なほ)越(こ)えたり。然(さ)れば、各々(おのおの)剣(けん)を争(あらそ)ふ故(ゆゑ)に、互(たが)ひに朝敵(てうてき)に成(な)りて、源氏(げんじ)世(よ)を乱(みだ)せば、平氏(へいじ)勅宣(ちよくせん)を以(もつ)て、是(これ)を制(せい)して朝恩(てうおん)に誇(ほこ)り、平将(へいしやう)国(くに)を傾(かたぶ)くれば、源氏(げんじ)しよめいに任(まか)せて、是(これ)を罰(ばつ)して、勲功(くんこう)を極(きは)む。然(しか)れば、近頃(ちかごろ)、平氏(へいじ)長(なが)く退散(たいさん)して、源氏(げんじ)自(おの)づから世(よ)に誇(ほこ)り、四海(しかい)の波瀾(はらん)を治(をさ)め、一天(いつてん)のはうきよ定(さだ)めしより此(こ)の方(かた)、りらくりんゑたかいいて、吹(ふ)く風(かぜ)の声(こゑ)穏(おだ)やか也(なり)。然(しか)れば、叡慮(えいりよ)を背(そむ)くせいらうは、色(いろ)を雄剣(おうけん)の秋の霜(しも)にをかされ、てこそをみたすはしは、音(おと)を上弦(しやうげん)の月に澄(す)ます。是(これ)、偏(ひとへ)に羽林(うりん)の威風(いふう)、先代(だい)にも越(こ)えて、うんてうの故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)るに、せいしをひそめて、せいとの乱(みだ)れを制(せい)し。私曲(しきよく)の争(あらそ)ひを止(や)めて、帰伏(きぶく)せらるるは無(な)かりけり。

 伊東(いとう)を調伏(てうぶく)する事(こと)

 此処(ここ)に、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、伊東(いとう)の二郎(じらう)祐親(すけちか)が孫(まご)、曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)、同(おな)じく五郎(ごらう)時致(ときむね)と言(い)ふ者(もの)有(あ)りて、将軍(しやうぐん)の陣内(ぢんない)も憚(はばか)らず、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ち取(と)り、芸(げい)を戦場(せんぢやう)に施(ほどこ)し、名(な)を後代(こうたい)に止(とど)めけり。由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬれば、即(すなは)ち一家(か)の輩(ともがら)、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)祐経(すけつね)なり。例(たと)へば、伊豆(いづ)の国(くに)伊東(いとう)・河津(かはづ)・宇佐美(うさみ)、此(こ)の三ケ所(しよ)をふさねて、■美庄(くすみのしやう)と号(かう)するの本主(ほんじゆ)は、■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)にてぞ有(あ)りける。在国(ざいこく)の時(とき)は、工藤(くどう)大夫(たいふ)祐隆(すけたか)と言(い)ひけり。男子(なんし)数多(あまた)持(も)ちたりしが、皆(みな)早世(さうせい)して、遺跡(ゆいせき)既(すで)に絶(た)えんとす。然(しか)る間(あひだ)、継女(ままむすめ)の子(こ)を取(と)り出(い)だし、嫡子(ちやくし)に立(た)てて、伊東(いとう)を譲(ゆづ)り、武者所(むしやどころ)に参(まゐ)らせ、工藤(くどう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)と号(かう)す。又(また)、嫡孫(ちやくそん)有(あ)り、次男(じなん)に立(た)てて、河津(かはづ)を譲(ゆづ)り、河津(かはづ)二郎(じらう)と名乗(なの)らせ、然(しか)る間(あひだ)、寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、祐親(すけちか)思(おも)ひけるは、我(われ)こそ、嫡々(ちやくちやく)なれば、嫡子(ちやくし)に、異姓(いしやう)他人(たにん)の継女(ままむすめ)の子、此(こ)の家(いへ)に入(い)りて、相続(さうぞく)するこそ、安(やす)からねと思(おも)ふ心(こころ)付(つ)きにけり。是(これ)、誠(まこと)に神慮(しんりよ)にも背(そむ)き、子孫(しそん)も絶(た)えぬべき悪事(あくじ)なるをや。仮令(たとひ)他人(たにん)なりと言(い)ふとも、親(おや)養(やう)じて譲(ゆづ)る上(うえ)は、違乱(いらん)の義(ぎ)有(あ)るべからず。まして、是(これ)は、寂心(じやくしん)、内々(ないない)継女(ままむすめ)のもとに通(かよ)ひて、設(まう)けたる子(こ)也(なり)。誠(まこと)には兄(あに)なり。譲(ゆづ)りたる上(うへ)、争(あらそ)ふ事(こと)、無益(むやく)の由(よし)、余所(よそ)余所(よそ)にも申(まう)し合(あ)ひけり。然(さ)れども、祐親(すけちか)止(とど)まらで、対決(たいけつ)度々に及(およ)ぶと雖(いへど)も、譲状(ゆづりぢやう)を捧(ささ)ぐる間(あひだ)、伊東(いとう)が所領(しよりやう)に成(な)りて、河津(かはづ)は負(ま)けてぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、上(うへ)に親(した)しみながら、内々(ないない)安からぬ事(こと)にぞ思(おも)ひける。然(さ)れども、我(わ)が力(ちから)には適(かな)はで、年月(としつき)を送(おく)り、或(あ)る時(とき)、祐親(すけちか)、箱根(はこね)の別当(べつたう)を秘(ひそ)かに呼(よ)び下(くだ)し奉(たてまつ)り、種々(しゆじゆ)にもてなし、酒宴(しゆえん)過(す)ぎしかば、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、畏(かしこ)まりて申(まう)しけるは、「予(かね)てより知(し)ろし召(め)されて候(さうら)ふ如(ごと)く、伊東(いとう)をば、嫡々(ちやくちやく)にて、祐親(すけちか)が相(あひ)継(つ)ぎ候(さうら)ふべきを、思(おも)はずの継女(ままむすめ)の子来(き)たりて、父(ちち)の墓所(はかどころ)、先祖(せんぞ)の重代(ぢゆうだい)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)仕(つかまつ)る事(こと)、余所(よそ)にて見(み)え候(さうら)ふが、余(あま)りに口惜(くちを)しく候(さうら)ふ間(あひだ)、御心(おんこころ)をも憚(はばか)らず、申(まう)し出(い)だし候(さうら)ふ。然(しか)るべくは、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命(いのち)を、立所(たちどころ)に失(うしな)ひ候(さうら)ふ様(やう)に、調伏(てうぶく)有(あ)りて見(み)せ給(たま)へ」と申(まう)しければ、別当(べつたう)聞(き)き給(たま)ひて、暫(しばら)く物(もの)も宣(のたま)はず、やや有(あ)りて、「此(こ)の事(こと)、よくよく聞(き)き給(たま)へ。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)にてこそ坐(ま)しまさね、兄弟(きやうだい)なる事(こと)は眼前(がんぜん)也(なり)。公方(くばう)までも聞(き)こし召(め)し開(ひら)かれ、既(すで)に御下知(げぢ)をなさるる上は、隔(へだ)ての御(おん)恨(うら)みは、然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へども、忽(たちま)ちに害心(がいしん)を起(お)こし、親(おや)の掟(おきて)を背(そむ)き給(たま)はん事(こと)、然(しか)るべからず。神明(しんめい)は、正直(しやうじき)の頭(かうべ)に宿(やど)り給(たま)ふ事(こと)なれば、定(さだ)めて天の加護(かご)も有(あ)るべからず、冥(みやう)の照覧(せうらん)も恐(おそ)ろし。其(そ)の上(うへ)、愚僧(ぐそう)は、幼少(えうせう)より、父母(ちちはは)の塵欲(ぢんよく)を離(はな)れ、師匠(ししやう)のかんしんに入(い)りて、所説(しよせつ)の教法(けうぼふ)を学(がく)し、円頓(ゑんどん)止観(しくわん)の門(もん)をのぞみ、一ねんまいに、稼穡(かしよく)の艱難(かんなん)を思(おも)ひ、一度(ひとたび)切(き)る時(とき)、紡績(ばうせき)の辛苦(しんく)を忍(しの)ぶ。三衣(ゑ)を墨(すみ)に染(そ)め、鬢髪(びんぱつ)をまろめ、仏(ほとけ)の遺願(ゆいぐわん)に任(まか)せ、五戒(ごかい)を保(たも)ちしより此(こ)の方(かた)、物(もの)の命(いのち)を殺(ころ)す事(こと)、仏(ほとけ)殊(こと)に戒(いまし)め給(たま)ふ。然(さ)れば、衆生(しゆじやう)の身(み)の中には、三身(さんじん)仏性(ぶつしやう)とて、三体(さんたい)の仏(ほとけ)の坐(ま)します。然(しか)るに、人の命(いのち)を奪(うば)はん事(こと)、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)を失(うしな)ひ奉(たてまつ)るに同(おな)じ。諸々(もろもろ)以(もつ)て、思(おも)ひ寄(よ)らざる事(こと)なり」とて、箱根(はこね)に上(のぼ)り給(たま)ひけり。河津(かはづ)は、なまじひなる事(こと)申(まう)し出(い)だして、別当(べつたう)、承引(しよういん)無(な)かりければ、其(そ)の後(のち)、消息(せうそく)を以(もつ)て、重(かさ)ね重(がさ)ね申(まう)しけれども、猶(なほ)用(もち)ひ給(たま)はず。如何(いかが)せんとて、秘(ひそ)かに箱根(はこね)に上(のぼ)り、別当(べつたう)に見参(げんざん)して、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)りて、ささやきけるは、「物(もの)其(そ)の身(み)にては候(さうら)はねども、昔(むかし)より師檀(しだん)の契約(けいやく)浅(あさ)からで、頼(たの)み頼(たの)まれ奉(たてまつ)りぬ。祐親(すけちか)が身(み)におきて、一生(いつしやう)の大事(だいじ)、子々(しし)孫々(そんそん)までも、是(これ)にしくべからず候(さうら)ふ。再往(さいわう)に、申(まう)し入(い)れ候(さうら)ふ条(でう)、誠(まこと)に其(そ)の恐(おそ)れ少(すく)なからず候(さうら)へども、彼(か)の方(かた)へ返(かへ)り聞(き)こえなば、重(かさ)ねたる難儀(なんぎ)、出(い)で来(き)たり候(さうら)ふべし。然(さ)ればにや、浮沈(ふちん)に及(およ)び候(さうら)ふ」と、くれぐれ申(まう)しければ、始(はじ)めは、別当(べつたう)、大(おほ)きに辞退(じたい)有(あ)りけるが、誠(まこと)に檀那(だんな)の情(なさけ)もさり難(がた)くして、おろおろ領状(りやうじやう)有(あ)りければ、河津(かはづ)、里(さと)へぞ下(くだ)りける。別当(べつたう)、そき無(な)き事(こと)ながら、檀那(だんな)の頼(たの)むと申(まう)しければ、壇(だん)を立(た)て、荘厳(しやうごん)して、伊東(いとう)を調伏(てうぶく)せられけるこそ、恐(おそ)ろしけれ。始(はじ)め三日の本尊(ほんぞん)には、来迎(らいかう)の阿弥陀(あみだ)の三尊(ぞん)、六道能化(のうけ)の地蔵(ぢざう)菩薩(ぼさつ)、檀那(だんな)河津(かはづ)次郎(じらう)が所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)の為(ため)、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命を取(と)り、来世(らいせ)にては、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、蓮台(れんだい)を傾(かたぶ)け、安養(あんやう)の浄刹(じやうせつ)に引接(いんぜう)し給(たま)へ、片時(へんし)も、地獄(ぢごく)に落(お)とし給(たま)ふなと、他念(たねん)無(な)く祈(いの)られけり。後(のち)七日の本尊(ほんぞん)には、烏蒭沙摩金剛(うすさまこんがう)とかう童子(どうじ)、五大明王(みやうわう)の威験(いげん)殊勝(しゆせう)なるを、P058四方(しはう)に掛(か)けて、紫(むらさき)の袈裟(けさ)を帯(たい)し、種々(しゆじゆ)に壇(だん)を飾(かざ)り、肝胆(かんたん)を砕(くだ)き、汗(あせ)をものごはず、面(おもて)をもふらず、余念(よねん)無(な)くこそ祈(いの)られけれ。昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、仏法(ぶつぽふ)護持(ごぢ)の御力(ちから)、今(いま)に始(はじ)めざる事(こと)なれば、七日に満(まん)ずる寅(とら)の半(なか)ばに、伊藤(いとう)武者(むしや)がさかんなる首(くび)を、明王(みやうわう)の剣(けん)の先(さき)に貫(つらぬ)き、壇上(だんじやう)に落(お)つると見(み)/て、さては威験(いげん)現(あらは)れたりとて、別当(べつたう)、壇(だん)を下(お)り給(たま)ふ、恐(おそ)ろしかりし事(こと)共(ども)也(なり)。

同(おな)じく伊東(いとう)が死(し)する事(こと)

 伊東(いとう)武者(むしや)、是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らで、時(とき)ならぬ奥野(おくの)の狩(かり)して遊(あそ)ばんとて、射手(いて)を揃(そろ)へ、勢子(せこ)を催(もよほ)し、若党(わかたう)数(かず)相(あひ)具(ぐ)して、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へぞ入(い)りにける。頃(ころ)しも、夏(なつ)の末(すゑ)つ方(かた)、峰(みね)に重(かさ)なる木(こ)の間(ま)より、村々(むらむら)に靡(なび)くは、さぞと見(み)えしより、思(おも)はざる風(かぜ)にをかされて、心地(ここち)例(れい)ならずわづらひ、志(こころざ)す狩場(かりば)をも見(み)ずして、近(ちか)き野辺(のベ)より帰(かへ)りけり。日数(ひかず)重(かさ)なる程(ほど)に、いよいよ重(おも)くぞなりにける。其(そ)の時(とき)、九つになりけるかないしを呼(よ)び寄(よ)せて、自(みづか)ら手(て)を取(と)り、申(まう)しけるは、「如何(いか)に己(おのれ)、十歳(さい)にだにもならざるを、見(み)捨(す)てて死(し)なん事(こと)こそ、悲(かな)しけれ。生死(しやうじ)限(かぎ)り有(あ)り、逃(のが)るべからず。汝(なんぢ)を、誰(たれ)哀(あは)れみ、誰(たれ)育(はごく)みて育(そだ)てん」と、さめざめと泣(な)きP059けり。かないしは幼(をさな)ければ、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)は無(な)し。女房(にようばう)、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、涙(なみだ)を抑(おさ)へて言(い)ひけるは、「適(かな)はぬ浮(う)き世(よ)の習(なら)ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待(ま)ち給(たま)へかし。然(さ)ればとて、数多(あまた)有(あ)る子(こ)にもあらず、又(また)、かけこ有(あ)る中の身(み)にても無(な)し。如何(いかが)はせん」と、歎(なげ)きけるこそ、理(ことわり)なれ。此処(ここ)に、弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)祐親(すけちか)が、訪(とぶら)ひ来(き)たりけるが、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)/て、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、申(まう)しけるは、「今(いま)を限(かぎ)りとこそ、見(み)えさせ給(たま)ひて候(さうら)へ。今生(こんじやう)の執心(しうしん)を御(おん)止(とど)め候(さうら)ひて、一筋(ひとすぢ)に後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を願(ねが)ひ給(たま)へ。かないし殿(どの)においては、祐親(すけちか)かくて候(さうら)へば、後見(こうけん)し奉(たてまつ)るべし。努々(ゆめゆめ)疎略(そりやく)の義(ぎ)有(あ)るべからず。心(こころ)安(やす)く思(おも)ひ給(たま)へ。然(さ)ればにや、史記(しき)の言葉(ことば)にも、「昆弟(こんてい)の子(こ)は、なほし己(おのれ)が子(こ)の如(ごと)し」と見(み)えたり。如何(いか)でか愚(おろ)かなるべき」と申(まう)しければ、祐継(すけつぎ)、是(これ)を聞(き)き、内(うち)に害心(がいしん)有(あ)るをば知(し)らで、大(おほ)きに喜(よろこ)び、かき起(お)こされ、人の肩(かた)にかかり、手(て)を合(あ)はせ、祐親(すけちか)を拝(をが)み、やや有(あ)りて、苦(くる)しげなる息(いき)を付(つ)き、「如何(いか)に候(さうら)ふ。只今(ただいま)の仰(おほ)せこそ、生前(しやうぜん)に嬉(うれ)しく覚(おぼ)え候(さうら)へ。此(こ)の頃(ごろ)、何(なに)と無(な)く下説(げせつ)について、心(こころ)よからざる事(こと)にて坐(ま)しまさんと存(ぞん)ずる所(ところ)に、斯様(かやう)に宣(のたま)ふこそ、返(かへ)す返(がへ)すも本意(ほんい)なれ。然(さ)らば、かないしをば、偏(ひとへ)にわ殿(との)に預(あづ)け奉(たてまつ)る。甥(をひ)なりとも、実子(じつし)と思(おも)ひ、娘(むすめ)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ふ中(なか)にも、万刧(まんこう)御前(ごぜん)に合(あ)はせて、十五にならば、男(をとこ)に成(な)し、当庄(たうしやう)のほんけん小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、わ殿(との)の娘(むすめ)P060とかないしに、此(こ)の所(ところ)をさまたげ無(な)く知行(ちぎやう)せさせよ」とて、伊東(いとう)の地券(ぢけん)文書(もんじよ)取(と)り出(い)だし、かないしに見(み)せ、「汝(なんぢ)にぢきに取(と)らすべけれども、未(いま)だ幼稚(ようち)なり。いづれも親(おや)なれば、愚(おろ)か有(あ)るべからず。母(はは)に預(あづ)くるぞ。十五にならば、取(と)らすべし。よくよく見(み)置(お)け。今(いま)より後(のち)は、河津殿(かわづどの)を、叔父(をぢ)なりとも、誠(まこと)の親(おや)と頼(たの)むべし。心(こころ)おきて、にくまれ奉(たてまつ)るな。祐継(すけつぎ)も、草(くさ)の陰(かげ)にて、立(た)ち添(そ)ひ守(まも)るべし」とて、文書(もんじよ)母(はは)が方(かた)へ渡(わた)し、今(いま)は心(こころ)安(やす)しとて、打(う)ち伏(ふ)しぬ。かくて、日数(ひかず)の積(つ)もり行(ゆ)けば、いよいよ弱(よわ)りはてて、七月十三日の寅(とら)の刻(こく)に、四十三にて失(う)せにけり。哀(あは)れなりし例(ためし)なり。弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)は、上(うへ)には歎(なげ)く由(よし)なりしかども、下(した)には喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、箱根(はこね)の別当(べつたう)の方(かた)をぞ拝(をが)みける。一旦(いつたん)猛悪(まうあく)は、勝利(せうり)有(あ)りと雖(いへど)も、遂(つひ)には子孫(しそん)にむくふ習(なら)ひにて、末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えける。やがて、河津(かはづ)が、我(わ)が家(いへ)を出(い)で、伊東(いとう)の館(たち)に入(い)り代(か)はり、内々(ないない)存(ぞん)ずる旨(むね)有(あ)りければ、兄(あに)の為(ため)、忠(ちゆう)有(あ)る由(よし)にて、後家(ごけ)にも子(こ)にも劣(おと)らず、孝養(けうやう)を致(いた)す。七日(なぬか)七日(なぬか)の外(ほか)、百ケ日、一周忌(いつしゆき)、第(だい)三年(さんねん)に至(いた)るまで、諸善(しよぜん)の忠節(ちゆうせつ)をつくす。人是(これ)を聞(き)き、「神をまつる時(とき)は、神のます如(ごと)くにせよ。使(つか)ふる時(とき)は、生(しやう)に使(つか)ふる如(ごと)くなれ」とは、論語(ろんご)の言葉(ことば)なるをやと感(かん)じけるぞ、愚(おろ)かなる。さて、かないしには、心(こころ)安(やす)き乳母(めのと)を付(つ)けてぞ、養(やう)じける。遺言(ゆいごん)違(たが)へず、十五にて元服(げんぶく)させ、うすみの工藤(くどう)祐経(すけつね)と号(かう)す。やがて、娘(むすめ)万刧(まんこう)に合(あ)はせ、P061其(そ)の秋、相(あひ)具(ぐ)して、上洛(しやうらく)し、即(すなは)ち、小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、祐経(すけつね)をば、京都(きやうと)に止(とど)めおき、我(わ)が身(み)は、国(くに)へぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、かひがひしき侍(さぶらひ)の一人も付(つ)けず、おとなしき物(もの)も無(な)し。所帯(しよたい)におきては、祐親(すけちか)一人して横領(わうりやう)し、祐経(すけつね)には、屋敷(やしき)の一所(いつしよ)をも配分(はいぶん)せざりけり。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「徳(とく)をつみ、行(かう)をけぬる事(こと)、其(そ)の善(ぜん)を知(し)らず、然(さ)れども時(とき)に用(もち)ひる事(こと)有(あ)り、義(ぎ)を捨(す)て、理(り)を背(そむ)く事(こと)、其(そ)の悪(あく)を知(し)らざれども、時(とき)に滅(ほろ)ぶる事(こと)有(あ)り。身(み)の危(あや)ふきは、勢(いきほひ)の過(す)ぐる所(ところ)と成(な)り、禍(わざわい)の積(つ)もるは、寵(てう)のさかんなるを越(こ)えてなり」。然(さ)れども、祐経(すけつね)は、たれをしゆるとも無(な)きに、公所(くしよ)を離(はな)れず、奉行所(ぶぎやうしよ)におきて、身(み)を打(う)たせ、沙汰(さた)になれける程(ほど)に、善悪(ぜんあく)を分別(ふんべつ)して、理非(りひ)を迷(まよ)はず、諸事(しよじ)に心(こころ)を渡(わた)し、手跡(しゆせき)普通(ふつう)に過(す)ぎ、和歌(わか)の道(みち)を心(こころ)に懸(か)け、酣暢(かんちやう)の筵(むしろ)に推参(すいさん)して、其(そ)の衆(しゆう)に連(つら)なりしかば、伊東(いとう)の優男(やさをとこ)とぞ召(め)されける。十五歳(さい)より、武者所(むしやどころ)に侍(はんべ)つて、礼儀(れいぎ)正(ただ)しくして、男(をとこ)がら尋常(じんじやう)なりければ、田舎(ゐなか)侍(さぶらひ)とも無(な)く、心(こころ)にくしとて、二十一歳(さい)にして、武者(むしや)の一郎をへて、工藤(くどう)一郎とぞ召(め)されける。

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