吾妻鏡巻之第一

治承四年(1180)十二月二十二日庚子(かのえね)

 新田大炊助(おおいのすけ)入道上西(義重)が召しにより参上した。しかしすぐに鎌倉に入ってはならないと、命じられので、山内のあたりに留まった。これは、軍士たちを集めて上野国寺尾舘に引き籠もるという噂があったので、藤九郎(安達)盛長に命じてお呼びになったものである。上西が言った。「心中では決して逆らってはおりません。しかし、世の中で戦闘があったとき、軽々に城を出るべきでは無いと家人達が諫めますもので、ためらっていた所、今。参上の命を受け、大変恐縮しております」。盛長が特に取りなしたので、この弁明は聞き届けられたという。また、上西の孫である里見義成が京都より参上した。日頃平家に属していたが、源家のご繁栄の様を聞いて参上したと申した。その誠意は祖父と異なっていたので、すぐ側近に取り立てられた。義成が語って申し上げた。「石橋の合戦の後、平家方がしきりに計略の為の会議を開き、源氏一類のものをすべて誅殺するよう、内々準備していたので、関東に行って武衛(源頼朝)を襲うと、義成が偽って行った所、平家は喜んで下向することを許可したのでやってきました。駿河国千本松原で、長井斉藤別当実盛や瀬下四郎広親達と会うと、彼らが言うには、『東国の勇士は皆(頼朝に)従っており、頼朝は数万騎を率いて鎌倉に到着された。しかし我々二人は先日平家と約束したことがあるので、上洛するのだ』という。義成はこの事を聞いて、いよいよ鞭(むち)をあげて駆けつけました」という。

<解説>
 新田義重と里見義成は鎌倉に出向するときの立場の違いから、その後の処遇に差が出てきます。頼朝から里見は信頼され、新田は警戒されたということでしょう。同じ新田一族でも、上野国八幡荘の山名も頼朝から信頼されそれは鎌倉時代を通じて変わらなかった。同じ関東源氏、足利氏も頼朝から信頼を勝ち取っている。元々、里見氏も山名氏も新田源氏であるが、足利氏に近い関係であった。山名氏は、室町幕府の四職であったこと、応仁の乱の時西軍大将であったことなどは、この頃の立場がそのまま反映されていたのかも知れません。これが、新田五百騎と足利二万騎の差となったのか。鎌倉幕府を攻め滅ぼすとき、新田義貞が挙兵したが思うように兵が集まらず、足利の嫡子千寿王を立てて軍を集めたことなど考えると、その勢力の差は歴然としています。この差のきっかけともなった、事象だったのではないでしょうか。

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