吾妻鏡巻之第二
養和元年二月小一日戊寅(つちのえとら)
足利三郎義兼が北条殿(時政)の息女を娶った。また加々美次郎長清が上総権介(かずさごんのすけ)広常婿となった。両人とも、人柄が穏やかで忠貞(ちゅうてい)の志を持っており、(頼朝の)覚えめでたく、特別のご命令によって今このはこびになったという。
<解説>
足利義兼が北条氏から正室を娶るという先例が、この時より始まる。上総広常は後に北条にはめられ、誅殺される。鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏も、赤橋盛時(北条一族・鎌倉幕府執権)の妹、赤橋登子を娶る。足利氏は下野の御家人であるが、有る文書の中に「里見と山名は足利が家人なり」という記述があることからここに紹介した。里見義成と山名三郎義範は新田の一族であるが、足利氏と近い関係にあったようで有る。鎌倉幕府に於いて、足利氏と里見氏・山名氏は重要御家人となるが、新田氏は初動の失敗で鎌倉時代を通じて無位無冠となり重用されることは無かった。南北朝で対立する遠因は、ここら辺から始まっていたのかも知れません。南北朝時代、湊川の戦いに出陣する楠木正成が後醍醐天皇に対して「新田義貞には人望が無く、新田を追放し足利尊氏と和睦すべきである」と進言した。この実力差は、この頃すでについていたのかも知れません。
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