吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十日庚寅

養和元年(1181)閏(うるう)二月二十日庚寅(かのえとら)

 武衛(源頼朝)の叔父志田三郎先生(せんじょう)(源)義広が一族の縁故を忘れ、突然、数万騎の逆党を率い鎌倉を落とそうとし、常陸国を出て下野国至ったという。平家の軍勢が襲来すると、数日来噂になっていたので、武士を多く駿河国以西の要害等にすでに派遣しており、かれこれ重なって、(頼朝は)とてもお悩みになった。其の時、下河辺庄司行平は下総国におり、小山小四郎朝政下野国にいた。この二人は命令を下さなくても、きっと勲功をあげると(頼朝は)その武勇を頼りにされていた。朝政の弟(長沼)五郎宗政・従父兄弟関次郎政平等が朝政に協力する為それぞれ今日、下野国へ出陣した。しかし政平が頼朝の御前へ参り暇を申して座を立ったのを御覧になって、政平は二心がある、と仰った。はたして途中から宗政と同道せず、脇道を通って義広の陣に加わったという。

<解説>
 義広が鎌倉を責めるということは、二万騎はオーバーとしてもそれなりの軍勢を整えていたのだと思います。下河辺氏は下総国下河辺荘を拠点としていて、その範囲は古利根川の左岸埼玉県東部、茨城県古河市、五霞市、千葉県野田市などで大変大きい荘園でした。この領地は、天慶の乱(平将門の乱)の鎮圧に功があった田原藤太下野掾藤原秀郷の子孫下河辺氏が平安時代末期開発し、鳥羽天皇の皇女しょう子(八条院)に寄進して成立したと考えられている。それが、鎌倉時代になると下河辺氏の領地となり、中期以降は北条一族の金沢北条の領地となる。この頃下河辺氏は没落したと考えられるが、詳細は詳らかでは無い。そしてその同族に、淵名氏が上野国淵名荘に存在した。秀郷流藤原兼行(淵名兼行)が「淵名太夫」と呼ばれていることから、鎌倉時代前期には淵名氏がここに勢力を張っていたことが伺える。我が町(群馬県吾妻郡東吾妻町・中之条町)には、吾妻氏が存在しており「吾妻氏系図」によれば、淵名兼行から分かれている。小山氏は武蔵国の秀郷流太田氏から分かれた一族で、太田(小山)政光下野国小山に移り小山荘の開発領主なったのが始めとされている。政光は八田宗綱の娘を娶る。この奥方が後の寒河尼で、頼朝の乳母となった人です。その関係で鎌倉幕府に於いて重用されることになる。この事象で下河辺氏・小山氏が連合して志田三郎先生義広に当たれば、対抗しうるに十分な力があったと思う。下河辺氏や小山氏・淵名氏などの藤橘一揆を結集すれば、大勢力となります。頼朝の信頼も厚く、反乱鎮圧には最適な勢力だったのではないでしょうか。

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