吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十五日辛未
養和元年(1181)閏二月二十五日辛未
足利又太郎忠綱は(源)義広に同意したが、野木宮合戦に敗北した後、先非を悔い、後日の咎めを恥じて密かに上野国山上郷竜奥に籠もり、郎従桐生六郎だけを呼び寄せて数日間隠れていたが、とうとう桐生の意見に従い、山陽道を経て西海(九州)の方へ赴いたという。忠綱は末代無双の勇士であり、三つの点で人に超えていた。一つはその力百人にも相当し、二つはその声が十里に響き渡り、三つにはその歯が一寸もあるという。
<解説>
足利又太郎忠綱は秀郷流(藤原秀郷)であり、吾妻氏と同流である。義広の反乱では、吾妻氏の動向は、はっきりわからないが忠綱に付き従っていたかもしれない。しかし、後に吾妻氏は鎌倉御家人として「吾妻鏡」にも弓の名人として登場している。この反乱に於いて、藤家足利氏は衰退するが、一族である山上氏、桐生氏はその後も見られる。吾妻氏もその後の記録に見えるので、反乱に加担しなかったのか、または武衛(頼朝)に許されたのか。この後は、足利冠者義兼の源家足利家が、執権北条氏と関わりを深く持ち勢力を拡大していく。それが室町幕府将軍、足利尊氏と続くのです。源家足利家の他に、藤家足利氏があったのは興味深い事である。吾妻氏の出自についても、藤家(秀郷流)、二階堂流(藤家)、村上源氏と三つの説がある。