吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十七日癸酉

 武衛が若宮奉幣(ほうべい)された。今日、七日間の祈願が終了したのである。神前にひざまずき、三郎先生(せんじょう)の蜂起はどうなったのであろうかとつぶやかれた。その時、小山七郎朝光は頼朝の御剣をもって御供に仕えており、このお言葉を聞いて、「義広は既に兄によって攻め落とされているでしょう」と言った。頼朝は振り向いて、「この少年の言葉は自分の思いから出るのもではない。全く神託であろう。もしその通りに平穏になったならば、褒美を与えよう」と仰った。朝光は、今年十五歳である。御奉幣が終わってお戻りになった所、行平・朝政の使者が到着し、義広が逃亡したことを申し上げた。晩に成って朝政の使者がまた参上し、義広の伴党の首を持参したことを申し上げた。そこで三浦介義澄・比企四郎能員等に命じてその首を腰越に送り、さらし首書されたという。

<解説>

 三郎先生とは、源義広のことである。義広の反乱はすぐに下河辺庄司行平・小山七郎朝政によって鎮圧され義広は逃亡、その味方になった武将の首を持参した。その首は腰越でさらし首になったようだ。頼朝は鎌倉に入ってから出ていないがその勢力は確定され、関東に於いて盤石の体制を整えていた。義広は同じ源家として頼朝に取って代わろうと挙兵したが、頼朝の体制は固まっており、その体勢を崩すまでは至らず敗れ去ってしまった。やはり、為義-義朝-頼朝と続く八幡太郎義家より続く、源家の正統には及ばなかったと言うことか。

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