吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)甲戌二月二十八日

(長沼)宗政が、傷を負った為に参上できなかった(小山)朝政の名代として、一族と今度加勢した者を率いて鎌倉に参上した。武衛(頼朝)は対面され、勲功についてお褒めになった。宗政・(下河辺)行平以下の一族は西方に居並び、(八田)知家・(小栗)重成以下は東方に居並んだ。生け捕りになった(源)義広の従者二十九人は、あるものはさらし首にされ、あるものは行平・(足利)有綱等に預けられたという。常に常陸、下野、上野諸国の、三郎先生(源義広)に同意した者の所領等をすべて没収された。朝政・(結城)朝光等は恩賞にあずかったという。

<解説>
 この頃から鎌倉時代の中期まで、下河辺行平の名前が度々登場する。吾妻氏の同族と言うことで、この下りを紹介した。吾妻地方の伝承として、後期吾妻氏が下河辺一族の下河辺行家から始まるということで紹介しました。ただし、この下河辺行家の名は、この地方の伝承にしか登場しない。検証も何処にも見当たらないので、確認も出来ないのですが後期吾妻氏が下河辺氏からでていると言うことで紹介しました。

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