曽我物語巻之第一

杵臼(しよきう)・程嬰(ていえい)が事(こと)
此(こ)の者(もの)共(ども)が、心(こころ)をつくしける有様(ありさま)にて、昔(むかし)を思(おも)ふに、大国(たいこく)に、かうめひ王(わう)と言(い)ふ国王(こくわう)有(あ)り、国(くに)を争(あらそ)ひて、並(なら)びの国(くに)の王(わう)と軍(いくさ)し給(たま)ふ事(こと)、度々(たびたび)なり。然(しか)るに、かうめい王(わう)、戦(たたか)ひ負(ま)けて、自害(じがい)に及(およ)ばんとす。時(とき)に、杵臼(しよきう)・程嬰(ていえい)とて、二人の臣下(しんか)有(あ)り。彼(かれ)等(ら)を近付(ちかづ)けて、「汝(なんぢ)等(ら)は、定(さだ)めて、我(われ)と共(とも)に自害(じがい)せんとぞ思(おも)ふらん。是(これ)、誠(まこと)にしゆんろ、逃(のが)るる所(ところ)無(な)し。さりながら、我(われ)、一人の太子(たいし)に、屠岸賈(とがんか)と言(い)ひて十一歳(さい)に成(な)るを、故郷(ふるさと)に止(とど)め置(お)きぬ。我(われ)自害(じがい)の後(のち)、雑兵(ざふひやう)の手(て)にかかりて、命を空(むな)しくせん事(こと)、口惜(くちを)しければ、汝(なんぢ)等(ら)、如何(いか)にもして逃(のが)れ出(い)でて、此(こ)の子(こ)を育(はごく)み育(そだ)てて、敵(かたき)を滅(ほろ)ぼし、無念(むねん)の散(さん)ぜよ」と宣(のたま)ひければ、二人の臣下(しんか)、異議(いぎ)に及(およ)ばずして、城(しろ)の内(うち)を忍(しの)び出(い)でにけり。国王(こくわう)、心(こころ)安(やす)くして、自害(じがい)し給(たま)ひけり。さて、二人の臣下(しんか)、都(みやこ)に帰(かへ)り、太子(たいし)をいざあひ出(い)だして、養(やう)じけるぞ、無慙(むざん)なる。敵(かたき)の大王(だいわう)、是(これ)を聞(き)き伝(つた)へ、「末(すゑ)の世(よ)には、我(わ)が敵(かたき)なり。彼(か)の太子(たいし)、同(おな)じく二人の臣下(しんか)、共(とも)に、首(くび)を取(と)りて来(き)たらん者(もの)には、勲功(くんこう)は所望(しよまう)によるべし」と、国々(くにぐに)に宣旨(せんじ)を下(くだ)されけり。此(こ)の宣旨(せんじ)に従(したが)つて、彼(か)の人々(ひとびと)に心(こころ)を懸(か)け、如何(いか)にもとあやしみ思(おも)はぬ者(もの)は無(な)し。然(しか)れども、一所(いつしよ)の住(す)まひ適(かな)はで、或(ある)いは、遠(とほ)き里(さと)に交(まじ)はり、深(ふか)き山に籠(こも)りて、身(み)を隠(かく)すと雖(いへど)も、所(ところ)無(な)くして、二人寄(よ)り合(あ)ひ、如何(いかが)せんとぞ歎(なげ)きける。程嬰(ていえい)申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)が、君(きみ)を養(やう)じ奉(たてまつ)るに、敵(かたき)こはくして、国中(こくちゆう)に隠(かく)れ難(がた)し。然(さ)れば、我(われ)等(ら)二人が内(うち)に、一人、敵(かたき)の王(わう)に出(い)で仕(つか)へん。然(さ)る物(もの)とて、使(つか)ふとも、心(こころ)を許(ゆる)す事(こと)あらじ。我(われ)、きくわくと言(い)ひて、十一歳(さい)に成(な)る子(こ)を、一人持(も)ちたり。幸(さいは)ひ、是(これ)も、若君(わかぎみ)と同年(どうねん)也(なり)。是(これ)を大子(たいし)と号(かう)して、二人が中、一人は山に籠(こも)り、一人は討手(うつて)に来(き)たり、主従(しゆうじゆう)二人を打(う)ち、首(くび)を取(と)り、敵(かたき)の王(わう)に捧(ささ)げなば、如何(いか)でか心(こころ)許(ゆる)さざるべき。其(そ)の時(とき)、敵(かたき)をやすやすと打(う)ち取(と)るべし」と言(い)ひければ、杵臼(しよきう)申(まう)しけるは、「命(いのち)ながらへて後(のち)に、事(こと)をなすべきこらへのせいは、遠(とほ)くしてかたし。今(いま)、太子(たいし)と同(おな)じく死(し)せんは、近(ちか)くして安し。然(しか)れば、杵臼(しよきう)は、こらへのせい、少(すく)なき者(もの)なり。安(やす)きに付(つ)き、我(われ)先(ま)づ死(し)ぬべし。程嬰(ていえい)は、敵方(てきはう)に出(い)でん事(こと)を急(いそ)ぎ給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。其(そ)の後(のち)、程嬰(ていえい)、我(わ)が子(こ)のきくわくを近付(ちかづ)けて、「如何(いか)にや、汝(なんぢ)、詳(くは)しく聞(き)け。我(われ)等(ら)は、主君(しゆくん)の大子(たいし)を隠(かく)し奉(たてまつ)る。既(すで)に我々(われわれ)、汝(なんぢ)等(ら)までも、敵(かたき)にとらはれて、犬死(いぬじに)をせん事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。然(しか)れば、汝(なんぢ)を太子(たいし)と偽(いつは)り奉(たてまつ)りて、首(くび)を取(と)るべし。恨(うら)むる事(こと)無(な)くして、御命(おんいのち)に代(か)はり奉(たてまつ)りて、君(きみ)をも安全(あんぜん)ならしめよ。親(おや)なればとて、添(そ)ひはつべきにもあらず。来世(らいせ)にて生(う)まれあふべし」と申(まう)しければ、きくわく、聞(き)きも敢(あ)へず、涙(なみだ)を流(なが)して、しばしは返事(へんじ)せざりけり。父(ちち)、此(こ)の色(いろ)を見(み)/て、「未練(みれん)なり。汝(なんぢ)、はや十歳(さい)に余(あま)るぞかし。弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の子(こ)は、胎(はら)の内(うち)よりも、物(もの)の心(こころ)は知(し)るぞかし」といさめければ、きくわく、此(こ)の言葉(ことば)に恥(は)ぢて、言(い)ひけるは、言葉(ことば)こそ無慙(むざん)なる、「辞退(じたい)申(まう)すべきにあらず。誠(まこと)に、某(それがし)は、命(いのち)一(ひと)つにて、君(きみ)と父(ちち)との孝行(かうかう)に捧(ささ)げ申(まう)さん事(こと)、惜(を)しからざる物(もの)をや、歎(なげ)きの中(なか)の喜(よろこ)び也(なり)」と言(い)ひも敢(あ)へず、涙(なみだ)にむせびける。父(ちち)、是(これ)を聞(き)き、子(こ)ながらも、優(いう)に使(つか)ひたる言葉(ことば)かな、未(いま)だ幼(をさな)き者(もの)ぞかし、誠(まこと)に我(わ)が子(こ)なり、成人(せいじん)の後(のち)、惜(を)しと言(い)ふも余(あま)り有(あ)り、弱(よわ)き心(こころ)の見(み)えなば、もし未練(みれん)にもやと思(おも)ひければ、流(なが)るる涙(なみだ)を押(お)し止(とど)め、「弓矢(ゆみや)の家(いへ)に生(う)まれて、君(きみ)の為(ため)に命(いのち)を捨(す)つる事(こと)、汝(なんぢ)一人にも限(かぎ)らず、最後(さいご)未練(みれん)にては、君(きみ)の御(おん)為(ため)、父(ちち)が為(ため)、中々(なかなか)見(み)苦(ぐる)しとて、一命(めい)を損(そん)にすべき也(なり)」と言(い)ひければ、きくわく、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「か程(ほど)には、深(ふか)く思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)へば、如何(いか)で愚(おろ)かなるべき。さりながら、差(さ)しあたる父母(ちちはは)の御(おん)別(わか)れ、如何(いか)でか惜(を)しからでそろべき。心(こころ)安(やす)く思(おぼ)し召(め)せ。最後(さいご)におきては、思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、父(ちち)も、心(こころ)安(やす)くぞ思(おも)ひける。さて又(また)、二人寄(よ)り合(あ)ひ、内談(ないだん)する様(やう)、「先(ま)づ今(いま)、君(きみ)の御(おん)為(ため)に、打(う)たるべき命(いのち)は安(やす)く、残(のこ)り止(とど)まりて、敵(かたき)を打(う)ち、太子(たいし)世(よ)に立(た)て申(まう)さん事(こと)、重(おも)きが上(うへ)の大事(だいじ)なり。如何(いかが)はせん。ながらへ、功(こう)をなす事(こと)、堪忍(かんにん)し難(がた)し。我(われ)、先(ま)づしなん」とて、杵臼(しよきう)は、十一歳(さい)のきくわくをつれて、山に籠(こも)り、討手(うつて)を待(ま)ちける心(こころ)の内(うち)、無慙(むざん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。其(そ)の後(のち)、程嬰(ていえい)、敵(かたき)の王(わう)のあたりに行(ゆ)き、「召(め)し使(つか)はれむ」と申(まう)す。敵王(てきわう)聞(き)き、此(こ)の者(もの)、身(み)を捨(す)て、面(おもて)をよごし、我(われ)に使(つか)ふべき臣下(しんか)にあらず、さりながら、世変(か)はり、時(とき)移(うつ)れば、さもやと思(おも)ひ、かたはらに許(ゆる)し置(お)くとは雖(いへど)も、猶(なほ)害心(がいしん)に恐(おそ)れて、許(ゆる)す心(こころ)無(な)かりけり。言(い)ひ合(あ)はせたる事(こと)なれば、「我(われ)、今(いま)、君王(くんわう)に仕(つか)へて、二心(ふたごころ)無(な)し。疑(うたが)ひ事(こと)わりなれども、世界(せかい)を狭(せば)められ、恥辱(ちじよく)にかへて、助(たす)かるなり。なほし、用(もち)ひ給(たま)はずは、主君(しゆくん)の太子(たいし)、臣下(しんか)の杵臼(しよきう)諸(もろ)共(とも)に、隠(かく)れ居(ゐ)たる所(ところ)を、詳(くは)しく知(し)れり。討手(うつて)を賜(たま)はつて向(む)かひ、彼(かれ)等(ら)を打(う)ち、首(くび)を取(と)りて見(み)せ参(まゐ)らせん」と言(い)ふ。其(そ)の時(とき)、国王(こくわう)、和睦(くわぼく)の心(こころ)を成(な)し、数千人(すせんにん)の兵(つはもの)を差(さ)し添(そ)へ、彼(かれ)等(ら)隠(かく)れ居(ゐ)たる山へ押(お)し寄(よ)せ、四方(しはう)をかこみ、閧(とき)の声(こゑ)をぞ上(あ)げたりける。杵臼(しよきう)は、思(おも)ひ設(まう)けたる事(こと)なれば、鎮(しづ)まり返(かへ)りて、音(おと)もせず。程嬰(ていえい)、すすみ出(い)で申(まう)しけるは、「是(これ)は、かうめい王(わう)の太子(たいし)屠岸賈(とがんか)や坐(ま)します。程嬰(ていえい)、討手(うつて)に参(まゐ)りたり。雑兵(ざふひやう)の手(て)にかかり給(たま)はんより、急(いそ)ぎ自害(じがい)し給(たま)へ。逃(のが)れ給(たま)ふべきにあらず」と申(まう)しければ、杵臼(しよきう)立(た)ち出(い)で、「若君(わかぎみ)の坐(ま)します事(こと)、隠(かく)し申(まう)すべきにあらず。待(ま)ち給(たま)へ。御自害(じがい)有(あ)るべし。さりながら、今日(けふ)の大将軍(たいしやうぐん)の程嬰(ていえい)は、昨日(きのふ)までは、まさしき相伝(さうでん)の臣下(しんか)ぞかし。一旦(いつたん)の依怙(ゑこ)に住(ぢゆう)すとも、遂(つひ)には、天罰(てんばつ)降(ふ)り来(き)たり、遠(とほ)からざるに、失(う)せなん果(はて)を見(み)ばや」とぞ申(まう)しける。程嬰(ていえい)、是(これ)を聞(き)き、「時世(ときよ)に従(したが)ふ習(なら)ひ、昔(むかし)は、さもこそ有(あ)りつらめ、今(いま)又(また)、変(か)はる折節(をりふし)なり。然(さ)ればにや、君(きみ)も、御運(ごうん)もつきはて、命(めい)もつづまり給(たま)ふぞかし。徒(いたづ)らごとにかかはりて、命(いのち)失(うしな)ひ給(たま)はんより、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、弓(ゆみ)の弦(つる)をはづし、降参(かうさん)し給(たま)へ。古(いにしへ)の情(なさけ)を以(もつ)て、助(たす)くべし」とぞ言(い)ひける。十一歳(さい)のきくわく、討手(うつて)は父(ちち)よと知(し)りながら、予(かね)て定(さだ)めし事(こと)なれば、父(ちち)重代(ぢゆうだい)の剣(けん)をよこたへて、高(たか)き所(ところ)に走(はし)り上(あ)がり、「如何(いか)に、人々(ひとびと)、聞(き)き給(たま)へ。かうめい王(わう)の太子(たいし)として、臣下(しんか)の手(て)に掛(か)かるべき事(こと)にもあらず。又(また)、臣下(しんか)心(こころ)がはりも、恨(うら)むべきにもあらず。只(ただ)前業(ぜんごふ)つたなけれ。さりながら、其(そ)の家(いへ)久(ひさ)しき郎等(らうどう)ぞかし。程嬰(ていえい)、出(い)で給(たま)へ。日頃(ひごろ)のよしみに、今(いま)一度(いちど)見参(げんざん)せん」と言(い)ひければ、程嬰(ていえい)、我(わ)が子(こ)の振舞(ふるま)ひを見(み)/て、心(こころ)安(やす)く思(おも)へども、忍(しの)びの涙(なみだ)ぞすすみける。兵(つはもの)あやしくや見(み)るらんと、落(お)つる涙(なみだ)を押(お)し止(とど)め、「人々(ひとびと)、是(これ)を聞(き)き給(たま)へ。国王(こくわう)の太子(たいし)とて、優(いう)に使(つか)ひたる言葉(ことば)かな。かうこそ」と言(い)ひけるが、さすが恩愛(おんあい)の別(わか)れ、包(つつ)み兼(か)ねたる涙(なみだ)の袖(そで)、絞(しぼ)りも敢(あ)へず、余所(よそ)の哀(あは)れを催(もよほ)しつつ、相(あひ)従(したが)ふ兵(つはもの)、差(さ)しあたりたる道理(だうり)なれば、共(とも)に感(かん)ぜぬは無(な)かりけり。其(そ)の後(のち)、太子(たいし)、高声(かうしやう)に曰(いは)く、「我(われ)は是(これ)、かうめい王(わう)の子、生年(しやうねん)十一歳(さい)。父(ちち)一所(いつしよ)に向(む)かへ給(たま)へ」と言(い)ひもはてず、剣(けん)を抜(ぬ)き、貫(つらぬ)かれてぞ、伏(ふ)しぬ。杵臼(しよきう)、同(おな)じく立(た)ち寄(よ)りて、「御(おん)けなげにも、御自害(じがい)候(さうら)ふ物(もの)かな。某(それがし)も、追(お)ひ付(つ)き奉(たてまつ)らん」とて、腹(はら)十文字(じふもんじ)にかき破(やぶ)り、太子(たいし)の死骸(しがい)にまろびかかりて、伏(ふ)しける有様(ありさま)、みるに言葉(ことば)も及(およ)ばれず、無慙(むざん)なりし例(ためし)なり。さて、二人が首(くび)を取(と)り、帝王(ていわう)に捧(ささ)ぐ。叡覧(えいらん)有(あ)りて、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き給(たま)ふ。今(いま)は、疑(うたが)ふ所(ところ)無(な)く、程嬰(ていえい)に心(こころ)を許(ゆる)し、一(いち)の大臣(だいじん)にいはひたも(ま)ふ、御運(ごうん)の極(きは)めとぞ覚(おぼ)えべし。さて、隙(ひま)を窺(うかが)ひ、敵(てき)王(わう)を討(う)つ事(こと)、いと安(やす)し。すみやかに、主君(しゆくん)の屠岸賈(とがんか)を取(と)り立(た)て、二度(ふたたび)国(くに)を開(ひら)く事(こと)、案(あん)の内(うち)なり。然(さ)ればにや、もとの如(ごと)く、程嬰(ていえい)をさう臣(しん)に立(た)てらるに依(よ)つて、杵臼(しよきう)、きくわくの為(ため)に、追善(ついぜん)其(そ)の数(かず)を知(し)らず。かくて、三年(みとせ)に、国(くに)ことごとく鎮(しづ)まりをはりて後(のち)、程嬰(ていえい)、君(きみ)に暇(いとま)をこひて曰(いは)く、「我(われ)、杵臼(しよきう)に契約(けいやく)して、命(いのち)を君(きみ)に捨(す)つる事(こと)、遅速(ちそく)を争(あらそ)ひしなり。御位(おんくらゐ)、是(これ)までなり。今(いま)は、思(おも)ひ置(お)く事(こと)無(な)ければ、杵臼(しよきう)が草(くさ)の陰(かげ)にての心(こころ)も恥(は)づかし。自害(じがい)仕(つかまつ)らん」と申(まう)す。帝王(ていわう)、大(おほ)きに歎(なげ)きて、是(これ)を許(ゆる)す事(こと)無(な)し。然(さ)れども、隙(ひま)をはからひ、忍(しの)び出(い)でて、杵臼(しよきう)が塚(つか)の前(まへ)に行(ゆ)き、「君(きみ)の御位(おんくらゐ)、思(おも)ふ儘(まま)なり。如何(いか)にも嬉(うれ)しく思(おも)ひ給(たま)ふらん。我(われ)又(また)、かくの如(ごと)し。古(いにしへ)の契約(けいやく)忘(わす)れず」と言(い)ひて、腹(はら)かき切(き)り、失(う)せにけり。哀(あは)れなりし例(ためし)なり。大見(おほみ)・八幡(やはた)が、主(しゆう)の為(ため)に、命(いのち)をかろんじて、伊東(いとう)を狙(ねら)ひし志(こころざし)、是(これ)には過(す)ぎじとぞ覚(おぼ)えたり。
<解説>
この下りは、中国の史書「史記」の記述を伊東と工藤の争いになぞらえた下りである。ここに登場する杵臼(しょきゅう)は、公孫杵臼(こうそんしょきゅう)でかつて趙盾(ちょうとん)の同僚で晋の霊公に仕えた老人と言うことです。程嬰(ていえい)は、かつて趙朔((ちょうさく)趙頓の子)に恩義を受けた医者。趙朔は、霊公の駙馬と言うことで、つまり皇女(公主)の配偶者のことです。
権力に興味を持った屠岸賈(とがんこ)は、在位中の景行が権威を拡大したいという野望をくみ取り、邲(ひつ)の戦いで重傷を負っている、莫大な領地と財産を持つ趙朔に目を付けた。父が遺した家格の歪みから生じた、同じ氏である趙同・趙括と軋轢があり、
また趙盾は霊公を弑し奉った罪過があったため、屠岸賈はその罪を裁くかたちで、趙朔を追い詰めた。逃げ切れないと察した趙朔は、懐妊している自身の妻・公主を後宮へ逃したものの、公主以外の婦人・子供はもとより、家臣団も屠岸賈の手によって皆、殺害されてしまった。後日、公主の出産を嗅ぎつけた屠岸賈の追跡を、いかに後宮にいても躱しきれないと察した公主は、趙家の血筋をひく、後の趙武(程勃)を送り出した。
それを引き受けた、唯一残った家臣団である程嬰と公孫杵臼は、やはり逃げ切れないだろうと判断し、ある秘計を思いつく。
そしてまた後日、趙朔と交誼のあった韓厥の家の門を叩いた者がいた。程嬰である。
程嬰は、韓厥にこういった。
「趙朔の遺児の居場所を知っている。教えてほしければ、報酬をよこせ」
韓厥は純良であるため、その取引を嫌って程嬰に道理を説いたが、聞き入れられない。
程嬰は、韓厥と取引がならないと知ると、次はなんと、屠岸賈の家へ向かった。それを知った韓厥は怒り、程嬰を殺そうとするが、間に合わない。
程嬰は、屠岸賈に遺児の居場所を伝えた。
翌朝、屠岸賈が兵を率いて都を出た。程嬰の教える山中を捜索するためである。捜索には時間がかからなかった。山中に、簡素な山小屋があり、その中に公孫杵臼と遺児は、いた。喉元に剣先を突きつけられた公孫杵臼は、屠岸賈の後ろで憮然としている程嬰に呪いの言葉を吐き、息絶えた。遺児も、その小さな体を剣で突き通された。
その夜、韓厥の邸宅の門を叩く者がいた。程嬰である。韓厥はその名を聞くだけで吐き気を催す男の訪来をきいて、一瞥しただけで棄市を命じたのも束の間、つづく側近の声を聞いて、おのずと、飛ぶように、回廊を走った。
庭先に、程嬰が座っている。膝の上には、赤子がいた。その赤子こそ、趙武(程勃)であった。
月日は流れ、趙武は成人した。韓厥のはからいによって、貴族にも復帰できた。
不倶戴天の恨みは、自身が晴らす前に、天が雪いでくれた。晴れ着姿の趙武の前に、程嬰が座っている。
程嬰は、趙武に、こう告げた。
「お別れの時がきたようです」
と。程嬰は、黄泉にいる趙朔と公孫杵臼に、使命を完遂したことを報告するため、自死した。趙武は血のつながっていない程嬰のために、身内同然の3年間喪に服し、また、趙家の廟に程嬰を祀った。
後年、正卿となった趙武は、武を尊ばず、謙譲を美徳とし、犬猿の仲であった楚をはじめとして、周辺諸国との講和という大業を成したことから、最高の諡号「文」を諡され、趙文子と呼ばれる。これは、裏切った程嬰と忠義を貫いた公孫杵臼の物語である。