養和元年三月七日癸未
養和元年三月七日癸未(みずのとひつじ)
大夫属(たゆうのさかん)入道(三善康信)が書状で次のように申し送ってきた。
「去る閏二月七日、後白河院の殿上で議定があり、武田太郎信義に対して、武衛(源頼朝)追討の院庁下文を下さるべしと定められた。また、諸国の源氏が等しく追討されるというのでは無く、頼朝だけに限られる。流されている風聞の主旨はこのようである」
このため、(頼朝は)武田に対して御不審を抱かれ、事情を信義にお尋ねになった所、駿河国より今日参着した。信義は
「自身は全く追討使を承ってはおりません。たとえ御命令があったとしても、承諾の返事を提出することは御座いません。元々異心を抱いていないことは去年の度々の功績からしても、きっと御存知でございましょう。」
と陳謝が再三に及んだ上、
「子々孫々に至るまで、御子孫に対し、弓を引きません。」
という起請文を書いて御覧に入れたので、御対面となった。この間なほ御用心のため、(三浦)義澄・(下河辺)行平・(佐々木)定綱・(佐々木)盛綱・(梶原)景時を召して、御座の左右に控えさせたという。武田は自ら腰刀を取って行平に渡し、(頼朝が)座を立たれた後に退出し、腰刀を返したもらったという。
<解説>
元々最初から頼朝に従った者たちは、板東平氏や秀郷流藤原氏一族なので、板東の源氏達は駆けつけるのが遅れて疑いの目で見られていた。この事象は、武田信義の事例だが新田義重も同じである。吾妻斉藤氏の一族と言われている、下河辺氏が記述されているので紹介しました。下河辺行平は、始めから頼朝に従い信任を経て、側近となっている。秀郷流の一族である吾妻四郎助光(実朝警護の者)も、「吾妻鏡」の中に記述がある。吾妻の国人である助光の事が書かれているのも興味深い。助光は御家人であり、小名であったようで有る。その末、吾妻太郎行盛の墓には「御内(執権北条氏の)」と書かれているので、ある程度の力があったことがうかがい知れる。